鴻沼川と古墳2018年03月08日 10:03


浦和周辺の「まち歩き」を企画している時に、地図を眺めていて埼京線の中浦和駅付近の鴻沼川沿いに「神明社古墳」というのがあるのを見つけました。そこで、下見の時に武蔵浦和駅方面から田島排水路沿いに歩いて(遊歩道になっていますが)鴻沼川の土手に出て、この古墳のある場所に行ってみました。上の写真で手前にある川が鴻沼川。大宮台地周辺の川はどれも水田の灌漑に利用されているのでいわゆる水田の通過水(悪水)が入ってきますからどれも見た目がきれいとはいえません。

話は少しずれますが、考えてみれば(私が)鴻沼川に来たのも久しぶりです。この川は遡っていくと私が以前住んでいた日進町(現在はさいたま市北区)に到達し、JR川越線の下をトンネルでくぐります。その向こうはその昔は広い雑木林でした。その後長く大成建設の資材置き場になっていましたが、現在は大規模マンション群が立ち並び、当時の面影はまったくありません。この付近が水源地ということになっていますが、私たちはこの川を「霧式川」と呼んでいました。その後、途中から鴻沼川にかわり、最後は荒川の支流である鴨川に合流していると思っていました。

ところが、最近の地図で見ると「霧式川」の表示がありません。最初から鴻沼川になっています。この辺はネット情報ですが、「川の名前が鴻沼川に変わったのは、1級河川に格上げする際に名前を統一したため」とのこと。この川が一級河川に指定されたのは1997年(平成9年)、わりと最近。一級河川は「国が管理している河川」ですから、確かに国土交通省の予算を使えることになります。水害対策のためでしょうね。

さて、話題を戻して、鴻沼川の向こう岸に見える墳丘が神明神社古墳です。こちら側(右岸)よりやや高い土地(自然堤防)の上に形状を保っている状態のいい古墳です。説明では直径33メートルの円墳、時代は6世紀後半から7世紀前半。古墳時代後期になります。近畿ではすでにヤマト王権が生まれている時代になります。

古墳の左に見える墓石群がかつてここにあった東福寺の跡です。ここには平安時代の木造仏もあったとのことで、この場所が古くから文化伝播の地になっていたことがわかります。近くの路傍に残る道祖神(庚申塚)に残る表示から、近代では中山道と志木・青梅方面を結ぶ街道筋にあたる場所だったことがわかります。このように埼玉県中央部は東西南北を結ぶ連絡道路の役目を果たしていたのです。現在でもそうかもしれません。

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