伊奈陣屋の館跡 ― 2024年10月19日 13:39
江戸幕府創成期の総代官として田畑の検知や街道整備、用水路の開削などの事業に大きな貢献をした伊奈備前守忠次は埼玉県など関東地域ではよく知られた歴史上の人物ですが、徳川家康の他の多くの家臣と違い、戦場での功績よりも領地のインフラ整備という地味な仕事がほとんどだったため、その人物像についてはほとんど知られていないようです。もうひとりの総代官である大久保長安も同様ではありますが、大久保の方は金山・銀山支配という派手な業務やそのための不正蓄財疑惑による死後の一族断罪(死罪)というスキャンダラスな事件があり(悪名?ではありますが)小説やドラマのモデルになるなど有名かもしれません。
実際には、伊奈忠次は大久保の上司格にあたり、利根川東遷、荒川西遷という現代の関東の土台を築く大事業を子孫の代までかかって成し遂げるなど、その業績は偉大なものがありますが、いかんせん土木事業であり、今日まで残るものも「備前堤」「備前掘」という地味なものばかりです。子孫も大久保ほど極端ではありませんが、5代ほどで途絶えていまいます。多分、この辺は江戸幕府の発展に伴う機構上の問題もあるようです。
この伊奈忠次は、関東での自身の活動拠点である陣屋を当時の武蔵の国・足立群内に設けます。現在の市町村区域では今の埼玉県北足立群伊奈町になりますが、伊奈町は発足にあたり、この伊奈忠次の陣屋にちなんで行政上の町名をつけたとされています。東北・新潟新幹線開通の際に建設されたニューシャトルという交通機関が伊奈町を縦貫するまで「陸の孤島」と称されるほど、主要路線からも遠く、大宮・浦和などの都市部とも離れていたため、伊奈町のひとはよく「ここには何もない」と自嘲されます。
また伊奈氏関連地とはいえ、伊奈氏の陣屋跡は残っていませんが、逆に、妙な都市化が進まなかったためか、伊奈陣屋跡地は雑木林や農家、畑になど姿を変えて残され、その中に土塁や堀などの遺構や旧道が残されています。遺跡ばかりでなく樹木や植物、昆虫と自然も豊富な地域ですから、伊奈町はこの陣屋跡一帯を「自然歩道」として整備しています。
今年の春ころから、この伊奈忠次と大久保長安をテーマにした講演会を企画していまして、その中でやはり伊奈忠次は伊奈町の陣屋跡を見に行かなくては思っていたのですが、旧大宮市に住んでいた私もこちら方面には行く機会がありませんでした。講演会と見学会(例の「町あるき」)は来年の2月を予定していますが、まずはひとりで行ってみようということで快晴の一日を利用して、伊奈屋敷跡を歩いてみました。
大宮駅から出るニューシャトルはひと駅先の「交通博物館」が人気の場所なので、かなりの人がそこで降りてしまうということになりますが、その後も乗客は途切れません。駅間距離がかなり短いことやゴムタイヤで走る電車?ということでまるでバスの感覚ですが、この路線は成功した民間セクターの交通機関らしいです。すべて高架の路線で、10数分の感じで丸山という駅で下車します。ここから伊奈町なんですが、調べたところによると、この駅のすぐ近くがもう伊奈屋敷跡になっています(写真上)。少し行くと2つの新幹線が分岐するあたりにそれらしき標識の白い杭とその脇に散策ガイドのパンフレットが入ったボックスが見つかりました。両面印刷のかなり良くできたガイドを見ると付近の様子がよくわかり、これは無事に歩けそうです。見知らぬ土地での地図やこうしたガイドブックは私のような者には本当に助かります。さらに加えて(糸魚川で反面教師として経験したように)スマホの地図アプリとGPSがあれば個人の歴史散策は十分です。
地図に従い、中世から変わらないという「かぎ型」の道(舗装道路)をあるき、樹木や植栽をながめ、まずは伊奈屋敷時代から残るという頭殿権現社を探します。丁寧な標識がありますのですぐにわかりましたが、一歩入った雑木林の中はまるで山間地の藪中のようで、神社への参道はいかにも古道の雰囲気を漂わせています(写真下)。
太田道灌勧請の伝えがあり伊奈陣屋の守護神だっというこの権現社は龍神伝説も持つ水の神でもあるとか。周囲は木々に囲まれ、時折、新幹線の通過音が響きますが、静かでとてもいい雰囲気です。この屋敷跡一帯で史跡らしき建物があるのはここだけで、このあと歩いた場所のそこここに残る土塁や堀跡、二の丸跡もわずかなくぼみや高低差に歴史の流れを感じるだけですが、産業発展や宅地化に取り残されたためとはいえ、屋敷跡一帯がそっくり自然のままに残されたのはじつにありがたいことだったのではないかと感じた次第です。伊奈氏の業績を知り、その足跡に関心を寄せる人にとっては貴重な史跡であり、大都市の隣にある貴重な歴史散策スポットとしても評価できると思います。
なお、伊奈氏関連の史跡として、ここ伊奈町を縦貫している綾瀬川が隣の桶川市に入ったところにある備前堤(堤防ですかね)があげられます。現在はここが綾瀬川の起点となっていますが、伊奈氏によって始められた有名な利根川東遷、荒川西遷事業のうちの荒川締め切りの最初の事業として造られた堤であり、これにより(当時の)荒川と綾瀬川が分離されたことになり、現在まで続く埼玉県東部の地形の原型が造られました。この堤については次の記事になります。
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