満員の歴史講演会2018年03月14日 13:11


上の写真は、さいたま市大宮の埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催された講演会『保科正之と生母・志津の安産祈願文』の様子です。定員150名をはるかに超えた人数が入っていることは明らかです。会員ばかりでなく数十人の一般参加者も含まれていますが、高年齢の人たちばかりなのも確実でしょうね。この日の講師は作家の中村彰彦氏。直木賞作家ですが、実記録を重視する作風が特色で、『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主』(中公新書)など会津関係の著作も多く研究者の側面も持っています。テーマが「生母・志津」となっているのは、出生にまつわる興味深い「事実」を通して、名君と呼ばれる会津藩初代藩主で徳川将軍輔佐役だった保科正之の人物が誕生したという歴史を語っているからです。こうしたやや現実の世界と縁遠いと思われる歴史に関心のあるのはどうしても歳を重ねた人間ということになるようです。

ご存知の方も多いと思いますが、保科正之は徳川2代将軍秀忠の寵愛を受けた侍女の志津(静)が生んでいますので、3代将軍家光にとっては異母弟となるわけですが、秀忠の正室お江の方の「嫉み」を受けたため、信州・高遠藩の保科家に養子として入り、成長してから秀忠の遺名を受けて徳川将軍輔佐役になって初期幕府政権の運営に大きな力をふるった人物です。明暦の大火に際して江戸の町の再建のため江戸城天守の再建を断念するなど現在では「政治家」として名君の誉れが高い人物です。こうした人物の出生の謎はまさしく歴史上のエピソードとして興味がつきません。

さらに生母・志津(静)は、養母である見性院とのつながりで埼玉県浦和で正之を出産していますが、正室の圧迫の中での出産が無事にできるようにということで大宮の氷川神社に安産祈願をしています。そのときの祈願文が当時この氷川神社の宮司をしていた岩井家に残されており、現在はさいたま市の文化財になっています。今回の講演は、当会・岩井会長がこの祈願文の資料の関係で中村氏にお願いをして実現したという経緯があります。そこで今回、講演に合わせて、この祈願文(現物)を展示してみようという企画になりました。

講演で中村氏は、信長、秀吉、家康など戦国の歴史とその中入り組んだ人物関係図から説明に入り、武田家の興亡から養母・見性院さらに生母・志津が秀忠の子を身籠り、出産を決意していくまでの経緯をわかりやすく話しました。また、この日展示された祈願文の貴重な資料性を強調「御たいしっと(嫉妬)の御こころ深くえいちゅう(営中)におることをえず」という文言で、当時の生母・志津と正室お江との緊張した関係が始めてわかるということでした。作家としてはこのような個人の感情があらわれることが大事なのでしょう。時間の関係で、成長してからの保科正之の人物や行動については触れられなかったのが残念でした。

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