大宮・寿能城の跡 ― 2025年01月13日 12:11
私が所属している団体、埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会の会報の誌名は「JUNO」といいます。「じゅのう」と読み、創刊号をみると、博物館の属する大宮台地の東の端の地名である「寿能」を指しているとともに、この場所が「寿能泥炭地遺跡」として調査され、そこで発掘された多くの出土物が埼玉県南部の標準的遺物として博物館内に展示されていることが指名選定の理由になっていることがわかります。
確かに、この博物館の属する場所(見沼低地上の高台)も遺跡ですし、隣の氷川神社も遺跡の上に建っています。そこからほんの少し下った見沼用水の流れる低地一帯が旧石器から続く古代人の生活の跡であったことは間違いないところで、そうするとこの「誌名」は埼玉県どころか関東平野全体の歴史の中で我々が生活していることを象徴しているようにも感じられてきます。
その寿能の地ですが、近世になっても歴史は続き、特に、室町時代以後の戦乱期の中で、ここに「寿能城」なる城があったことは知っていました。ただ、ほんの出城であり、城自体の遺構も全く残っていないことで、これまで行ったことがありませんでした。さらにいえば、大宮公園は子供のころから現在まで(特にここ10年くらいは)かなり頻繁に通っているのですが、そのほんの少し先の寿能にある「弟2公園」についてはほとんど足を運んだことがありません。
先日、新年の企画ということで、地元の山の会の人たちと「大宮散歩」を楽しんできましたが、その途中にこの「寿能城」にも立ち寄ることができました。案内してくれたのは大宮のボランティア案内人で、博物館友の会の知り合いでもある友人です。
歴史でいうと、岩槻城の枝城である寿能城は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による関東・小田原征伐の際、岩付城(岩槻城)とともに豊臣方の浅野長政軍に攻められて5月に落城し、家来やその妻子は見沼に身を投げたといわれています。
その後は廃城となりますが、徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址はほとんど水田などに変わってしまいました。その後、徳川に下ったかつての城主・潮田資忠の子孫が資忠の墓碑を城跡に建てたといわれます。
つまり、寿能城跡(埼玉県旧跡)は、かつての寿能城の縄張りの一部のようですが、まったく遺構などが残されていませんので、この墓碑が城跡(の痕跡)になっています。多くの城跡のようなロマンはあまり感じませんが、がっしりした石組みの上に立つ墓石は存在感があり、これもこの土地の変遷を物語るものでしょう。
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