信濃川の源流へ2017年06月21日 21:30

奥秩父にそびえる甲武信ヶ岳は、山梨(甲州)と埼玉(武蔵)、長野(信州)の国境にあるので、その名があります。標高は2475メートル。すぐ隣には8メートルの差ですが埼玉県で一番高い三宝山という山もあります。甲武信(こぶし)という名前の語呂の良さ、あるいは<古武士>を思わせるイメージでその名を知っていましたが、今回はじめて登ることができました。

甲武信ヶ岳は、重要な上記3つの国の分水嶺にもなっています。山梨県を流れ富士川となる笛吹川。信州では千曲川そして新潟に入って日本海に至る信濃川。秩父を流れ下り、埼玉、東京を縦断して東京湾に注ぐ荒川です。

どれも日本を代表する大河ですが、特に日本一の長さを誇る信濃川が奥秩父山地から流れ下っていることに驚きます。今回の登山は長野県側の川上村の毛木平から、この信濃川(千曲川)を遡るというルートでしたので、まるで源流探検の様な面白い登山になりました。

コケに覆われた岩や倒木の間を縫って歩くこと約3時間、「千曲川信濃川水源碑」と書かれた大きな木柱が建っている場所に到着しました。谷川の一番奥、川底の砂の間から澄んだ水が湧き出している場所です。飲んでみるとおいしくて、しかも冷たいことに驚きます。つい2~3週間前まで雪に覆われていた場所です。

荒川の源流は反対側の斜面にあり、小さめの石碑があるようです。笛吹川の源流は東沢という難ルートにあり、一般には立ち入ることができないようです。本当に大きな山です。

第六天社の天狗2017年06月13日 13:45


予定のイベントが中止になったので、先日の「天狗の話」で講演者から聞いた岩槻(さいたま市)の神社=第六天社に行ってきました。いろいろな天狗を祭ってあるということでしたが、第六天社のいわれにも関心がありました。私にとってはこれも散歩のひとつですから、多少の時間がかかってもいいということで地図で調べてみると、東武スカイツリーラインの北越谷駅で降りて元荒川沿いに歩いていけばなんとかたどり着けるということがわかりました。

道順としては確かにその通りだったのですが、元荒川沿いの道が(多くの河川のように)遊歩道になっていると思ったのは間違いでした。駅から元荒川に向かっていくと確かに土手があり、その上は快適な散歩道になっています。少し歩くと公園もあり、その向こうには宮内庁の鴨場と思われる広大な緑地が広がっています。雰囲気もあり、自然度も満点。しかしそれはその先の梅林公園という場所までの20分間くらいでした。そこから先は車の行き交う普通の道になってしまいます。もちろん歩いている人はほとんどいません。

それでも川沿いに歩き続け、さいたま市(岩槻区)に入る頃には幅も狭く歩道もないというようなことになりました。道の途中には香取神社などいくつかの神社やお寺がありますから、これは古い道筋ということはわかりますが、あまり散歩にふさわしいところではありません。

1時間半くらいかかったでしょうか、ようやく第六天神社の参道に到着しました。参道は結構長いですが、あまりにぎやかではありません(失礼。日が悪かった?)。この第六天神社というのは少し変わった神社で元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたということになっています。第六天魔王は、かの織田信長が自称したと伝えられるものですが、天魔とは仏道修行を妨げている悪魔のことらしいので、これが修験者のことであれば、この神社がそのモデルである天狗をお祭りしている背景がわかります。

ただし、明治の神仏分離の政策で、いまの神社自体は普通の形態になっています。天狗がご神体ではありませんので、探した結果、本殿脇の「納札殿」の中にたくさんの天狗のオブジェともいうべきものが展示されているのがわかりました。その中心には2体の石造りのカラス天狗がこちらを向いています(上の写真)。身長は1メートル強でしょうか。子供の様な感じもあります。それほど古いものとは思えませんが、だれがいつ奉納したものでしょう。

もうひとつ、この神社の独特なところは完全に元荒川に面していることです。本殿のすぐ裏に満々たる水をたたえた川がまるで池のように見えます。ご存知のように、元荒川というの現在の荒川が西に瀬換えをする以前の荒川本流の取り残された旧河道です。上流はなく、流れもほとんどないので増水をすることもありません。堤防が必要ないのです。神社の境内には船着き場が2か所あります。

昔、東京(江戸)から第六天神社にお参りする人びとは、静かなこの元荒川の流れを遡ってきたといわれています。

天狗の話からガルダへ2017年06月09日 14:21

 
小さな同窓会の集まりで「天狗」についての講演がありました。講演者は民間の民俗研究家の高橋成氏で「知ることは楽しい」という気持ちで研究に入ったという自己紹介がありました。どんなテーマでものめり込むと面白いことは確かですが、やはり自分の興味のあることが第一のようです。

一般的に、妖怪や幽霊の話など科学の的に実証できないものは科学や学術研究の対象にはなりません。ただし「天狗」や「河童」については民俗学の世界でも取り上げられることが多いようです。伝承が多く、実在の動物や職業?などモデルが特定できるからかもしれません。

高橋氏の調査では、天狗については物語の世界ではかなり古く『源氏物語』などの平安文学に登場します。山の森の妖精のような神秘的な対象だったようです。中世に入ると天狗は、『今昔物語』に登場するように、悪役=仏教の敵です。まともに成仏できなかった精神が陥る魔界の主人公という感じです。しかし、安土桃山時代から江戸時代になると、不思議なことに、こうした天狗の話はほとんど出てこなくなるとのこと。代わりに信仰の対象やフィクションの世界では人気者になります。

こうしたことから高橋氏は「天狗のモデルは『山岳修行者』ことに『修験者』ではないか」と考えているそうです。また伝統的な民俗社会では天狗は「異人」「漂泊民」「」差別された人々」を象徴するのではないか。そして天狗の様な妖怪が減少したのは近代の日本社会の中で自然との関係が希薄になってきたからだという結論です。

私もその通りと思います。明治時代の神仏分離政策で日本古来の修験道が壊滅したとされていますが、本当の意味では、近代化に伴う科学的な意識の普及、ことに昭和40年代以降の現在につながる工業化、エネルギー・交通通信革命の波が、山や川への畏敬の念を失わせたのだと思います。そこに山の天狗、川の河童が生きる余地はなかったのです。

さて、他方で天狗については、古代インドの神に起源をもつガルダ神信仰が仏教とともに伝来し、上記の素朴な民間の自然信仰としての天狗と結びつき、また、その外観がカラスに似ていることから「烏(カラス)天狗」となっていったという考えもあります。

もともとのガルダ神というのオウムやクジャクなどの「人頭鳥身型」で、ガナダータ美術の影響で鷹になり、さらに漢字訳の「迦楼羅」になると鶏になり、カラスになっていくようです。鳥型の神が登場する理由としてはインド北部での鳥葬の風習が影響しているといわれています。

ガルダ神が鷹に変化していく過程では古代ギリシャや古代ローマ文化の影響も指摘されていますから、この鳥を神聖化する文化というのは世界の東西文化の相互交流という大きな背景を持っています。ちょうど、神社の狛犬のルーツをたどると獅子=ライオンになり、最後は古代エジプトのスフゥインクスに至るという話にも似ています。

ちみみに、タイ王国国章は、ガルダです(上の図)。すごい迫力ですね

参考:「天狗信仰の研究―迦楼羅炎からの考察」森田喜代美(『山岳修験』19号)、「飯縄権現と迦楼羅についての一考察」森田伸雅(『山岳修験』58号)。

奥秩父の両神山に登る2017年05月30日 12:49


奥秩父にそびえる両神山にいってきました。埼玉県内にある日本百名山として有名ですが、古くからの信仰の山、修験の山としても知られています。ただし、交通の便が悪いのと一部に険しい岩場があるので敬遠されることも多いようです。いつもの地元の山の会の定例山行ですが、今回は15人が3台の車に分乗しての大グループになりました。

カメラを忘れ、写真がとれませんでした。上の写真は「ジオパーク秩父」というサイト(ttp://www.chichibu-geo.com/dsc/marugami.html)ものです。当然ですが、この独特の山容は登山中は見えません。サイトの解説によると「両神山は、東西約8km、幅2~3kmにおよぶ巨大なチャートの岩体でできている。チャートからは、古生代ペルム紀から中生代ジュラ紀までの放散虫化石が見つかっている。放散虫の殻のケイ酸は硬い岩石をつくり、侵食に強いチャートがこのような山容をつくったものと思われる」とのことで同じ秩父の武甲山同様に古生物由来の石灰石が豊富で途中に採石場もありました。

登山道はいくつかあり、本来は「表参道」と呼ばれる日向大谷口から入り、両神神社や御嶽神社をまわっていくものと思いますが、この日は「白井差口」という危険の少ない道を行きました。この登山道の特徴は私有地だということで、このため、登山道開始場所にお住まいの山中さんという方に料金を払って登山させていただくことです。

予約しておいたので登山道前の駐車場につくと山中さんが現れ、誘導してくれます。地図を渡してくれ、「遭難した場合には料金はいりません」と冗談をいいながら、コースの説明も的確にしてくれます。経験者がいない場合はガイドもしてくれるそうです。

沢沿いに進み、流木や岩の間を流れる谷川を眺め、随所に懸けられた木製手作りの橋を渡りながら上に登っていきます。両神山中には有名な滝もありますが、水の豊富な山であることがよくわかります。沢を超えると、かなりの急斜面をジグザグに登っていきますが、あまり苦しくはありません。ただ予想に反して天候が悪く、雨にはなりませんでしたが、最初から最後まで濃い霧がかかり、眺望はほとんありません。

山頂付近には数十メートルの岩場がありますが、難しいということはありません。山頂にはごつごつした岩石がそそり立ち、人の歩く場所はほとんどない状態です。コンクリート製の社があり、なんとその隣に頭の落ちた地蔵菩薩とおぼしき石仏が転がっていました。連休のころにはアカヤシオというツツジの群落がきれいだそうですが、時期が遅く、この日はほんのわずかしか咲いていませんでした。

春日大社と三輪山(その2)2017年05月23日 18:57


2日目は奈良駅からJR桜井戦で三輪駅へ。のんびりした単線が大和平野を南下していきます。水を張った水田が池のように見えます。三輪駅に近づくと進行左側に明るい感じの大きな山が見えてきます。山麓にある大神(おおみわ)神社のご神体としてあがめられてきた三輪山です。長く神職以外の入山を許さないという禁足地でしたが、現在は誰でも登ることができるようになりました。神社には以前バスツアーで来たことがありますが、今回は自分の脚で山を登ります。

三輪駅前から大神神社(三輪明神)参道までの商店街は昭和時代の雰囲気です。コンビニもスーパーもなく、代わりに雑貨店や八百屋さんがあります。山の辺の道を歩く観光客や参詣客はそれなりにあるのだと思います。大神神社の参道は掃き清められいかにも霊山への入り口という感じです。大神神社では通常の参拝。この裏に三ツ鳥居があり、そこからご神体=三輪山を拝するのが本来らしいですが、行けないようになっていますので、新たに作られた参道を通って狭井神社へ向かいます。健康を祈願するというこの神社が三輪山への参拝登山の窓口になっています。

住所、氏名、電話などを記入して受付を済ませるといくつかの順守事項を告げられ、大神神社の鈴のついた白い襷を渡されます。参拝登山中はこの襷を外してはいけない決まりです。また、写真撮影や飲食も禁止です(水はOK)。各自でお祓いをしてから注連縄を潜って薄暗い山中へ(写真)。

低いとはいえ467メートルの山ですから神社の裏山とは違います。瀧行を行う場所もありますから、小さな沢の源流部まで降りることもあってアップダウンはそれなりにあります。ただし、急な坂道はほとんど丸太と土で作った登りやすい階段がつけられています。

参拝登山者は予想より多く、学生のグループも目立ちました。トレッキングポールを持った通常の登山スタイルから背広姿のひとまで登山装備はまちまち。甘い気持で登った人でしょうか、肩で息をしながらあえいでいる人もけっこういます。信仰登山のためか裸足で登る人が数人いて、女性のほうが多いのが印象的です。神奈備(かむなび)の地ですから多くは語りませんが、神の山の象徴である磐座(いわくら)は、中津磐座が中腹にあり、頂上には奥津磐座が鎮座しています。奥津磐座には自然の露出岩石とは思えないちょっと異質な気配が漂っています。

下山後、山の辺の道を通って長谷寺方面に向かいます。途中、金屋の石仏があります。立派な建物に守られていますが、以前は三輪山の山中にあったということで、明治の廃仏毀釈の際に山麓のこの地に移されたのでしょうか。さらに進むとは初瀬川にでます。大和川の上流部で、数キロ先に初瀬ダムがあります。ここは万葉の時代、海柘榴市(つばいち)と呼ばれ栄えた交易地です。当時の大和川は直接大阪湾に注ぎ、瀬戸内海との海上交易が盛んだったことがわかります。今は土手の上にベンチがいくつかおいてあるだけの公園になっています。

この初瀬川と並行している国道165号線は伊勢に向かう道路で一部は旧道・伊勢街道の雰囲気を残す場所もあり。長谷寺への参道入口はその途中にあり、地図では近いと思っていましたが、実際には徒歩で1時間以上かかってしまいました。炎天下(この日は31°以上ある真夏日)で結構大変でした。長谷寺は参道入口からさらに20分ほど坂道を登ります。それでもバスや電車(近鉄の駅があります)などでの参詣客は絶えないようです。

春日大社と三輪山(その1)2017年05月23日 18:54


奈良に行く用事があり、機会を利用して、春日大社と三輪山(大神神社)ついでに長谷寺を歩いてきました。

春日大社は当然、興福寺と一体化していますが、1日目はあまり時間がありませんでしたので、久しぶりに猿沢の池から五重塔を拝観しただけで阿修羅像などの展示は見ませんでした。春日大社は背後の御蓋山(三笠山)を神域とする非常に古い神社ですが、創建時の「鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山山頂浮雲峰にお迎えした」(神社・ご由緒)という時代よりさらに前からこの山中での祭祀が行われていたと思われます。

春日大社には摂社、末社が多い。夫婦円満の夫婦大国社などは人気らしく、日本語はじめ、中国語、フランス語、英語で書かれたハート形の絵馬がにぎやかに奉納されています。参道を奥に進むにつれ参詣者の数は少なく、次第に暗い山の中を登っていく感じがしてきます。何気ない場所に空海の護摩壇跡があったり、いまは土台石だけになっている古い建物跡などがあって尋常でない時の流れを感じさせます。

ふとみると本宮神社遥拝所がありました(写真)。ここからは「遙か先の御蓋山(みかさやま)の頂、浮雲の峰にお祀りされている本宮神社(ほんぐうじんじゃ)を拝むことが出来る」とのことですが、注連縄が張ってあり、中には入りませんでした。この奥の山上で日本の古代史にまでさかのぼる神事が行われていたのでしょう。その他、自然の植生を残す多くの巨木など歩いていて飽きることがありません。

「深田久弥先生終焉の地」にたどり着く2017年05月12日 13:20


JR中央線の韮崎駅。ホームに立ってほぼまっすぐに北の方角を眺めると茶色いごつごつした山並みが見えてきます。視線を左に転じると線路の進行方向のはるか向こうに、同じような感じの、しかし雪を頂いた巨大な山脈―八ヶ岳連峰が見えてきます。最初の茶色い山々はこの有名な八ヶ岳に形が似ていることから「ニセ八ヶ岳」というかわいそうな俗称がつけられていてバスガイドさんが間違えたというエピソードがあるそうです。

とはいえ、この「ニセ八ヶ岳」も1700メートル級の山々のつらなりで個性的な山容です。今回の登山(いつもの地元の山の会です)は、この山並みを東から西に縦走するように歩きました。中心は茅ケ岳です。この山は、1971年(昭和46年)に、『日本百名山』の深田久弥氏が登山中に急逝した場所として有名で、登山道の始まる場所に記念公園があります。 亡くなったのは68歳、今の私とほぼ同じ年齢です。今ではこのくらいの歳のひとは登山者の中心ですが、当時では高齢登山者だったでしょう。深田久弥氏は今では日本の登山ブームを生み出した功労者として有名ですが、経歴を調べるとなかなか聖人君子のような人間ではなかったようです。

茅ケ岳の登山道は最初はかなりゆっくりで安心していますが、女岩あたりから岩石混じりの急坂になります。この日は気温も高く、私にとってもいつもよりかなりきつく、頂上間近かのピークに建てられている<深田久弥先生終焉の地>の石碑(上の写真)にはようやく到着したという感じでたどり着きました。1971年当時の栄養状態ではこの辺で脳溢血で倒れる人がいても不思議はないように思います。

頂上付近で休憩後にアップダウンを繰り返しながら、さらに高い金ガ岳から「ふれあいの里」までの下山は、溜まった枯落葉にスリップはしましたが、なんとか大丈夫でした。中央線も甲府より先はあまり本数が少なく、帰りは珍しく特急「あずさ」に乗車してしまいました。

朝霞・根岸台の御嶽山神社2017年04月30日 17:33


朝霞市の根岸台に御嶽山神社があります。朝霞駅東口から黒目川に向かって進み、柊塚古墳と高橋家住宅という朝霞の代表的な2つの文化財の間をを通る谷間の道路をを下り、黒目川に出る少し手前、この辺はいまは撤退していますが積水化学の広大な工場があり、バス停の名前も「積水住宅」となっています。両側を郵便局と住宅に囲まれて赤い鳥居と緑の社叢林が対照的な小さな神社があります。かなり急な崖の上にありますので一見すると本当に小さな山に向かい合っているいるような感じがします。

鳥居から崖までの石段も、それに続く土の参道も急峻でしかも暗い。管理されていない雑木林のような感じで、いくつかの石碑が傾いているのが見え隠れして、さらに放置された神殿の雰囲気を増幅しています。たぶん普通のひとは入りにくいでしょう。参詣道も荒れています。少し進んだ中腹に「板碑供養塔」と刻印された石碑があり、その先には1メートル前後の数十本の板碑がかたまって建てられています。多分、この付近の道路工事などで移動された板碑を一か所に集めたのだと思われます。そして屋根も壁も完全に壊れ、倒壊したと思われる社殿跡の残骸があります。

頂上に近づくとおなじみの木曽御岳山の「山三丸マーク」を刻した石柱も見えてきます。他にたくさんの神々の名を刻んだ石柱があります。新しいようです。いよいよ山頂。しかし、そこに社殿は建てられていますが、すぐ隣には地続きの住宅街。つまりここは山上ではなく、台地の端の段丘崖だったというわけです。鳥居のある低地からのアプローチは十分に魅力的ですが、社殿が置かれた台地上の様相はかなり拍子抜けの感じがいなめません。

よく見ると、社殿の裏には高さ3メートル近くの人工の山(御嶽塚)と思われる高まりがあります。樹木が茂っていてよくわかりませんが、確かに御嶽信仰のシンボルであったように思えます。ここまで熱心な信仰の場があったにも関わらず、今や参詣する人もあまりいそうもない根岸台の御嶽山神社です。

坪山で花と奇妙な樹木を見る2017年04月25日 17:35


おなじみの地元の山の会の方々と、ガイドブックにもあまり載ってないという上野原市の坪山に出かけました。ヒカゲツツジという白い小さなツツジ(実際はシャクナゲの仲間らしい)の群生が見られるというので最近人気があるらしいです。

上野原駅からシーズン中に出ている富士急の臨時バスに乗ること約1時間。相模川の支流を遡って到着する八ツ田という集落が登山の出発点になっています。遅い桜も咲いているのどかな山村です。ただし坪山は登ってみると意外に急な坂道が続く険しい山でした。岩場も多く、その岩の中に目指すヒカゲツツジやイワカガミ、ミツバツツィの花が咲いています。ややシーズンを過ぎていたようですが、花の好きな人にとっては素晴らしい登山道になると思います。

頂上はとても狭く(これが坪山の名前の由来とか)平らな場所に座るのにも苦労します。帰りは阿寺沢川に沿った別ルートで下りますが、岩場も少なく、いくつかのアップダウンもたいしたことはありません。

下山後、駅前でもらった手書きのコース案内(上の写真)をよく読むと、今日登ったコースは地元の人しか行かない道だったようで平成13年から一般登山コースになったようです。途中に黄銅鉱の案内がありましたから、以前は鉱山のための作業道だったのでしょうか。逆に、下りのコースには炭焼きの跡の様な形跡がありましたから、そのための作業道でしょう。途中に奇妙な形をした樹木が生えている場所がありますが、かつての炭焼きの材料のマキを切り出した名残りかもしれません。

「音羽富士」に登る2017年04月17日 17:59


早稲田(東京都新宿区)のほうに行く用事があり、何回かは有楽町線の飯田橋から神楽坂を通っていたのですが、「まち歩き」で都内を歩き慣れたせいか、地図上では意外に近そうなメトロの護国寺駅から講談社のある音羽通りをまっすぐに進むというコースを歩くことにしました。

時間は30~40分くらいでしょうか、途中に江戸川公園があり、ここは『浮世絵を歩く』で目白から歩いて下った道であることに気づき、頭の中の地図が完成しました。

こうなると次は池袋駅からで、これも都電の東池袋を通り雑司ヶ谷墓地を過ぎるとすぐに護国寺の杜が見えてきます。早稲田までは合わせて約1時間強です。まぁよい散歩道ですね。

駅名ではなく、途中にある護国寺ですが、実は境内に入ったことがなかったので、桜が咲き終わろうかという先日、参詣に。真言宗豊山派の東京大本山、江戸時代にはもっとおおきかったのでしょうが現在でも周囲を圧倒する迫力があります。特に早稲田の方から見ると、つまりは当時の江戸の中心地から参詣に向かうという視線ですが、目白台の高みにまさに山のようにそびえているためか、相当の威厳がただよいます。

珍しい緑色の桜などを眺めて帰ろうとすると、一角に「音羽富士」の場所を示す掲示板があります。山門から見て右手の方向に少し進むと、石の鳥居があり、その向こうにそれらしき高まりが見えてきます。孤立した山ではないのであまり目立ちませんがこれが音羽富士の異名を持つ富士塚のようです。敷き詰められた大小の岩、合目を示す石柱、胎内くぐりの入り口とおぼしき穴の跡(ふさがれています)。ゆっくり登ると頂上には浅間神社がまつられていました。

数メートルとはいえ、もともと台地の高台にある場所からさらに高く、頂上からの富士山の眺めは相当に良かったでしょう。同じく『浮世絵を歩く』では目黒の富士塚跡にもいきましたが、目白と目黒はいずれも同じような信仰の人々が生きていたわけです。