柳瀬川を歩く2016年11月26日 16:37


日頃から近所の川に沿って散歩することが多い。当然、柳瀬川川沿いを歩くこともありますが、たいがいは上流に向かっては、東武線・柳瀬川駅付近から川越街道付近までになります。堤防上を通る遊歩道がこの国道の下を通り抜けるようになっていないため、気楽な散歩の勢いが削がれてしまうためでしょうか。

今回はエコシティ志木の「柳瀬川川歩き」でその先まで進みました(2回くらい行ったことはありますが)。最終的には水源である多摩湖まで歩いてみようというシリーズの第1回目。例によって天田代表の丁寧な解説付きで楽しく歩けましたが、一時はみぞれみたいなものが舞ってきたりと、この時期にしてはかなり寒かったです。ちなみに翌日は朝から雪で、これは11月としては観測史上初ということでした。

やはり印象に残るのは新座市から清瀬市(東京都)に入ったところにある清瀬水再生センター。要するに下水処理場ですが、70万人分以上の汚水を処理して、ここから綾瀬川に一気に排水しています。近寄ると轟音を立てて流れ出ているのがわかります。少し泡が出ていますが、悪臭などはまったくありません。

センターに隣接して、この処理水などを利用したビオトープ公園があり、関越道を超えると対岸に滝の城公園の緑、金山調節池、金山緑地公園と、綾瀬川の河川敷を利用した自然空間が広がり、この柳瀬川べりが市民の安らぎの場になっていることがわかります。最後は、空堀川との合流点で解散(写真)。

ドストエフスキー『死の家の記録』2016年11月25日 17:19


ドストエフスキーが自分自身のシベリヤでの懲役刑体験をもとに発表した小説。これによって作家としての名声を得たといわれ、またその後に発表していく数々の小説の人物や人間関係の原型になったともいわれています。

確かに、ドストエフスキーの作品、特に長編についていえば、はそのほとんどが犯罪(殺人)にかかわるもので、当然のように個人の内面や閉ざされた世界の中での人間関係が果てしなく描かれています。そしてその背後には常に犯罪のにおいがしています。これは、ドストエフスキーの人間(?)としての性格もあるでしょうが、この数年間にわたる懲役囚との(いやがおうでも)濃密な生活体験が関係していることは想像ができます。

ドストエフスキー自身は政治犯としての流刑だったようですが、当時の監獄の懲役人がそのほとんどが強盗や殺人などに関与した犯罪者でした。私には、現在の日本の刑務所だってその中での生活はほとんどわかりませんが、1860年代のシベリヤでの監獄生活がどうだったのか。日本でいえば江戸末期、高野長英が小伝馬町の牢獄から脱獄を企てた時期にあたります。

ロシアではその後、革命を経て、悪名高いスターリンの強制収容所が存在しました。さらに、ナチスの強制収容所、日本人なら第2次大戦後のシベリヤ抑留者の過酷な生活が思い浮かびます。どれも悲惨な体験ですが、こうした極限の体験記録が、特異な時代の特殊な記録でありながら、人間の存在の根源を考えさせるのは不思議です。

上の絵画はヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフによるものです。

浦和で「旅鰻」の話を聞く2016年11月22日 20:18


浦和の三室にある浦和博物館(元は浦和市立博物館)の訪問は初めてです。今回、『旅鰻献上』というテーマで企画展が開催されていることを知り、有名な浦和の鰻の歴史の一端がわかるかとしれないと思い、出かけることにしました。

しかし、この博物館は交通の便の良くない場所にあります。三室というだけで私などには「野田の鷺山」が浮かびますが、要するに昔から浦和の田舎といったイメージです。10年ほど前。この付近を通って岩槻に向かっている日光御成道のことを調べたとき、鳩ケ谷を通ってこの付近まで歩いたことがあります。それ以前というと、はるか20代の頃にさかのぼります。

今回は、武蔵野線の東浦和駅から、駅前の大通りをまっすぐ北上し、見沼低地の直前で西に向かうというコースを歩きました。約1時間くらいでしょうか。この道は逆に進むと芝川の八丁橋に出ますので、昔の「赤山街道」の道筋と思われます。確かに、ときおり、江戸時代から続く和菓子屋さんや庚申塔などが目にとまります。イチョウやハナミズキの並木がつづくきれいな通りでとても気持ちがいいです。

この博物館は上の写真のような、かなり凝った洋風建築物です。『鳳翔閣』という明治初期に埼玉師範学校の校舎として建てられた洋風建築物の一部が復元されたものだそうで、古風な内装ともども独特の雰囲気をもっています。

本題ですが、今回の展示のテーマである「旅鰻」とは、江戸時代に紀州徳川家の鷹場であったこの浦和地区で収穫して紀州藩主に献上した鰻のことをいいいます。これは味がよいので一般庶民用にも出荷され、当時の「江戸前の鰻」に対して、こういう呼び方がされたようです。

鰻は笊(ざる)に入れられ、飛脚便(籠)で運ばれたそうですから、当時から高級な食べ物であったことがわかります。

平林寺の山門2016年11月19日 16:52


2年ぶりに平林寺(新座市)へ。自分ひとりならわざわざ人出の多い紅葉の季節に行くようなこともしませんが、初めての人にはかなり感動的な場所のようです。

確かに広大な武蔵野といっても現在では大部分が道路か宅地などの殺風景な場所で、平地でこんな広い雑木林と紅葉が見られるところはほとんどなくなりました。

写真の山門(県文化財)は前回来た時には解体修理中とかで見られませんでした。この、藁ぶき屋根のどっしりした建築物は正面からみても風格がありますが、このように少し横からながめても味があります。

平林寺は禅宗の修行寺なので立ち入り禁止区域が多く、朱印サービスなども行っていません。

榎峠の馬頭尊2016年11月16日 19:42


榎峠という名称は日本全国にあるらしい。確かに地名としては、エノキが生えていたというぐらいしか、特に変わった想像ができません。

11/13に私たちが登ったのは、大きく蛇行している荒川・長瀞を見下ろす位置にある埼玉県美里町の榎峠です。ここを通っているのはすぐ北にある本庄から秩父往還に抜ける道で、旧道が陣見山の登山道になっているようです。

山肌を直線に進むような旧道に対して、ゆるい勾配の車道(新道)が通っています。登山者はこの新道を横切りながら進みます。榎峠を超えるあたりに形のよい石造りの小さな社と天保三年の刻印がある馬頭尊が並んでいました。峠の目印でしょうが、運搬用に多くの馬が行き交ったことも想像されます。馬頭尊はこの峠道の随所で見かけました。

この細い、石ころだらけの道を馬が通ったのは昭和30年代くらいまででしょうか。

五日市憲法草案を見る2016年11月08日 17:19


上の写真は奥多摩、五日市町(現:あきる野市)にあった豪農、深沢家の土蔵です。現在は取り壊されてありませんが、1968年(昭和43子年)この蔵から発見されたのが、明治10
年台にこの土地の文化人たちによって起草された日本帝国憲法草案―いわゆる五日市憲法です。

江戸から明治になり、旧封建国家の体制を一新し日本国の形を整えるために、憲法を作り国会を開設しようという動きが起こります。自由民権運動です。この運動は全国におこりますが、この時に薩長土肥や士族・寄贈だけでなく、ここ奥多摩や秩父など従来、山間僻地といわれた地区の民衆の中にも知識をもとめ、政治に目覚めた人たちがいました。その経済的な基盤は豊かな森林からの木材、薪炭そして絹織物などでした。いまでは想像できないほど豊かな土地であったようです。五日市の深沢家はその代表でした。

この憲法草案は非常に先進的な内容を盛り込んでいましたが、残念なことに旧帝国憲法制定の過程で生かされることなく、むなしく、土蔵の中で朽ち果てていくところでしたが、多摩地域の自由民権運動の研究を進めていた東京経済大学の色川大吉氏などの活動によって発見、解読され、他の活動資料ともども世にでることになりました。

発見された憲法草案などの文書はほとんどそのままでは手に取れないほどの悪い保存状態になっていましたが、専門家による修復を経て、ほぼ全文が明らかになり、東京都の重要文化財として保存されています。年に一回、11月の文化の日前後に、一部分ずつ公開され、見ることができます。5日にあきる野市中央図書館で開催された今年の展示解説展に参加して、話だけをきいていたこの憲法草案の現物を見ることができました。

あきる野市図書館の会議室に展示されている草案の現物の第一印象は「なんとうまい字だ」ということ。想像で下書きあるいはメモ書きのような感じと思っていたのですが、細かい文字で和紙24枚に整然と清書されています。実際の執筆にあたったのは当時同地の農学校の教員だった千葉卓三郎という人物です、31歳で逝去していま。和紙に筆で書かれた精緻でていねいな文字に当時の人々の教養の深さと真剣さが示されているようです。同時に展示されていた勉学ノートの筆跡からも同様の印象を受けました。

パソコンやスマホで簡単に文字を打ってしまう現代、明治の先人たちの肉筆に感動しました。

玉原湿原の紅葉2016年10月28日 10:00


赤城山の向こう側、奥利根との間にある玉原(たんばら)湿原と鹿俣山への山行。10/22日、朝霞山遊会のメンバー15人です。

玉原湿原は標高1200メートルほどにあるいわゆる高層湿原で、尾瀬湿原よりやや低いものの同様の生態系とのこと。ただし、この時期にはきれいな花はほとんどありません。

今回のメインはブナ林の紅葉です。利根川の源流地域ですから水源地として保全され、ブナの森がつづいています。鹿俣山をまわって、最後になる玉原湿原に流れ込む谷川の間を抜けながらの散策は実に気持ちのいいものでした。

湿原の入り口に「十二所神社」がありました。十二所様と称する土着の山の神を祀った神社とのことですが、場所柄からか、実に静かな雰囲気です。

両国駅から深川までまち歩き2016年10月27日 10:22


10月21日から3日間は<まち歩き><山歩き><里山歩き>の連続のアウトドアライフでした。21日は、もう2年半近く続けている「浮世絵を歩く」。今回は両国から富岡八幡宮までの下町散歩。

まずは駅近くの回向院へ。鼠小僧の墓や関東大震災供養塔などみるべきものがあります。次にいよいよ両国橋を渡ります。武蔵国、下総国にまたがっていたことから俗にこうよばれました。『第 59景 両国橋大川ばた』など、多くの浮世絵に描かれた名所ですが、左岸のテラスは工事中で堤防沿いに新大橋へ進みながら行き交う水上ボートに当時の江戸を体感するしかありません。高速道路の下は暗く、ブルーシートが目立ちます。

次の新大橋の日本橋側から対岸を望んだ構図がご存知の『第58景 大はしあたけの夕立』です。よく目立つ黄色の吊り橋状の橋の中央にそのレリーフがあります。対岸に渡って、芭蕉神社(芭蕉庵旧跡と推定)を経て、小名木川へ。旧中川から隅田川を結ぶ運河で横十間川、大横川と交差する江戸でも重要な河川。ここに架かるのが万年橋。

この川沿いに進むとで『第97景 小名木川五本まつ』の舞台になりますが、時間の関係で、右折して深川江戸資料の前の風情のある横町を抜けて館清澄庭園へ。この庭園は江戸名所ではありませんが、紀伊國屋文左衛門の屋敷、下総関宿藩下屋敷をへて明治になって三菱の施設になり整備された名園で、池を囲むように随所に配置された各地の名石がみごとです。ここで昼食休憩。

午後は、同じく江戸の交通路だった仙台堀川を通って、富岡八幡宮へ。江戸初期に埋立地に造営され、八幡大神を尊崇した将軍家の保護を受け広く美麗な庭園は人気の名所だっとそうで廣重の浮世絵『第68景 深川八まん山ひらき』にその姿をしのびます。最後は深川不動と門前町でした。

じつは映像編集も趣味2016年10月19日 19:30


今月の8日に行ったあるイベントでの受賞者のスピーチ映像を編集してYouTubuにアップロードしました。これはここ数年毎年やっている作業で、主催者団体のホームページにリンクを公開しています。

映像(ビデオ)を作成し始めたのは9年くらい前。当時、所属している埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会の補助事業で埼玉県の岩槻をテーマとした映像作品を作ることになり、そこではじめてカメラを回しての<ビデオ撮影>とソフトを使っての<映像編集作業>に取り組むことになりました。それが完成した後も面白さに取りつかれて、けっこう高価なビデオカメラも購入してしまい、当初は頻繁に持ち歩いて撮影もしていたのですが、編集の難しさもさることながら、問題は公開する場があまりないことでやや意欲が減少していました。

ただ、ちょうどその頃からインターネットでの映像公開サイト「YouTubu」が注目されるようになり、これで公開は無料でできるようになり、がんばって映像づくりに邁進! となるはずでしたが、人間の興味はそう長続きしないもので、2年程カメラにもあまり触らないことになってしまいました。実際には大きなカメラを持って(自分が案内する)まち歩き撮影することはかなり難しいという現実にも直面していました。

最初にいったイベントでの受賞者のスピーチ映像はそのさなかに企画したものですが、これは撮影といっても固定したカメラで淡々と映すだけですし、映像自体も定型的なテロップをいれるだけなので時間だけは長いものの、非常に簡単な作業です。

なお、最近始めた「登山」では歩くのが精一杯で、カメラどころではありませんが、コンパクトカメラでもかなりきれいな画像をとれることもわかりましたので、今後、まち歩きや山あるきの記録としての映像作品も考えています。基本的にはドキュメンタリーになります。

映像ソフトでの編集作業は上の画面のような感じです。使用ソフトは「EDIUS」を使用しています。普段使わないような(独特の?)用語があり、苦労はしますが、DTPソフトを使用している人であれば、ページの流れが時間になっていると考えるとわかりやすいです。画像ソフトのような機能もあります。

イヌの気持ち、ウマの気持ち2016年10月13日 17:06


かなり前からですが、この歳まで読んでいなかったり、一応読んではいたが多分ちゃんと理解していなかったと思うような小説やドキュメントを読み始めています。それも基本的には古典と呼ばれるものです。今昔物語のようなものもありますが、翻訳のほうが多いと思います。これは、『カラマーゾフの兄弟』や『白鯨』などが新しい訳者で翻訳され始めたことも影響しています。

再読してみると、若いころに読んだときのほうが感動が大きかったような場合もありまずが「これはある程度の年齢にならないとわからなかったな」と思うほうが圧倒的です。

例えばトルストイの『戦争と平和』。これは(多分、高校生のころに)一度読もうと思って挑戦したが挫折していた作品で、四十代の後半にはじめて読みとおすことができました。知識もなく経験もなかった私に理解できなかったのは当たり前で、この作品はトルストイが三十代から四十代の5年間、この作品だけに心血を注いで創作した歴史と人間の物語なのです。

これは初めて読んでわけですが、先日、同じトルストイの『アンナカレーニナ』を読了しました。この作品は『戦争と平和』の次に書かれた長編で、これまた充実期の作者の心理と生活のすべてにわたるとてつもない認識力が感じられる作品です。トルストイの最高傑作であるばかりか世界文学の最高峰とも評されているほどです。

この作品は全体小説の典型といわれ、実際、登場人物は数多いですが、ほんの数行しか登場しないような人物でさえ、その人間には生き生きとした血肉が通っています。相当の長編ですが、基本の焦点は常に数人に絞られていますので、(古典によくみられるように)読者の関心をそらす散漫なところはありません。

トルストイの視点は、多くの人物の心理描写で語られます。よく冗談のように「トルストイは犬の気持ちまで書いている」といわれますが、これは本当で、主人公のひとりレーウィンの飼っている猟犬ラースカが、猟の途中で「そんなこといったって行けるもんじゃないよ」などと思っていることが書かれています。「まるでそう思っているように」ではなく、そう思ったと書かれているのですから面白いです。馬の気持ちも書かれていますがこれは無難な間接的方法です。

この作品が書かれたのは1873年。日本でいえば明治6年。この当時の西洋と日本の文化の差はあまりに大きかったように思います。

写真は中央公論社版「世界の文学セレクション36」に掲載されている挿絵で、元はソ連時代の豪華本のものとのこと。ヴロンスキーとの逃避行のなか、ペテルブルグでの音楽会にあらわれ、女性たちの冷たい視線を受ける場面。