断崖と鎖、ロープに挑戦!2017年07月23日 10:38


地元の山の会で、先日のキャンプに続きまた富士山周辺の山へいってきました。同じく外輪山ではありますが、西湖、河口湖の北にそびえる毛無山と十二ヶ岳です。8月に槍ヶ岳登山の計画を立てているのですが、そのために「岩場でのロープ、鎖の練習」が今回の目的です。参加者は男女7名でした。

このコースは西湖東岸の毛無山登山から始まりますが、本来の登山口を過ぎて文化洞トンネルの少し先が登山者用駐車場でした。農作業中の地元の方から登山道への近道を教えてもらい、出発したのは8時20分頃です。この道は付近の集落の生活道路でしょうか、個人のお墓や古びた神社が目につきます。ほどなく本来の登山道に。ここから毛無山ですが、この毛無山は、前回登って苦労した朝霧高原の西にある毛無山(天使山塊にあるので天使・毛無山というようです)とは別の山です。1500mと標高も低いですが、登りのきつさも違います。アカマツの森を過ぎると広葉樹の林で秋には紅葉がきれいそうです。余裕で頂上についてみると地味な標識です。眼前に河口湖と西湖が見える絶景ですが、その向こうの富士山は裾野もほとんど見えません。両湖の岸辺が白く、水不足の深刻さがわかります。

ここから尾根伝いに目的の十二ヶ岳に向かいます。この2つの山の標高差はあまりないのですが、途中にいくつかの小山(コブ)があり、それぞれ一ヶ岳から順に番号がついていて最後が十二ヶ岳ということになっていますが。そのコブの下りがけっこうな岩場になっているところもあります。これが練習ですから皆さん真面目に取り組んでいました。やや体調不良の参加者もいて脚をいためたようですが、なんとか十一ヶ岳まで到着。ここで12時近くになったので昼食休憩。

登山再開。この十一ヶ岳から深いキレット(断崖)を隔てて、そそりたつ立つ十二ヶ岳が見えます。20メートル以上はある深い崖は、上から見るとけっこう大変そうですが、ロープと鎖の練習にかかります。なんとか下ると吊り橋がありました。金属製のきれいな橋で「ひとりずつ渡れ」という看板があります。揺れるためでしょう。ここを渡りきったところで、上からカタコトの日本語が聞こえてきました。みると白人の女性がひとり、反対側から来てこの先のことを聞いている様子。ジョートパンツ姿にあまり丈夫でなさそうな靴をはいています。声援に送られてわれわれと逆に橋をわたり長い断崖を登っていきました。勇気があります。この女性がこの日出会った唯一の登山客でした。

そこからまた岩場が続き、なんとか十二ヶ岳(1683m)へ。山頂には最上権現と書かれた溶岩とスチールで作られた真新しい社と賽銭箱があり中に不思議な形の像が安置されています。朱塗りの古い社もあり、ここも信仰の山なのでしょう。休憩後、大きなブナの樹がある林の中の道をひたすら下り、2時間ほど降りると、最初に出発した「文化洞トンネル方面」という分岐道がありました。ここからさらに下っていくとやがて林の間から湖の青い水がかすかに見え、湖岸を走る車の音も聞こえるようになります。山裾を廻る細い道は今にも崩れそうなのですが、なんと「通学路」という標識に遭遇しました。?と思いながらさらに進むと「旧根場通学路」という看板が立っています。そういえば山中ながら古い石垣や廃屋が点在しています。かつて集落があり、湖岸道路ができるまで子供たちがこの山道を通っていたのでしょう。ほどなくして、朝、われわれが出発した場所に到達。時刻は午後4時になっていました。

ところで、地図でみると十二ヶ岳の先にも「節刀ケ岳」とか「鬼が岳」とかすごそうな山が続いています。来るときがあるでしょうか。

講演会「山岳信仰の歴史と民俗」2017年07月17日 14:58


博物館友の会で『山岳信仰の歴史と民俗』と題する講演会が開催されました。講師の鈴木正崇先生は慶應義塾大学名誉教授であるとともに日本山岳修験学会会長さらに日本山岳会にも所属し、自ら山に登り、世界の民俗研究を行ってきた方です。中公新書の著書『山岳信仰』を読んでから、日本山岳修験学会にお願いして実現したもので、当日は酷暑の中、大宮公園内の博物館講堂に110名におよぶ参加者が訪れ、大変うれしいことでした。
 
最近の「山の日」の制定など日本における山岳に対する関心は高くなってきているように思えます。しかし、現在、その多くはスポーツ登山や観光資源としての山岳への関心が中心です。かつての日本においては、人びとは「山」に対して、崇高な畏敬の念をもち、神のいらしむ場としての信仰心も考えられないほど強かったようです。山岳信仰は日本の精神文化の根底にあると考えることもできます。鈴木先生は、講演の最初に、こうした山岳信仰に対する意識の変化を考えることで、日本の近代化の意味を浮かびあがらせることができるのではないか述べました。以下、当日の資料に沿って、講演の概要をなぞってみました。

なお、鈴木先生は別の著書で「昭和40年代以降のモータリゼーションで簡単に山に入っていけるようになったことも山への畏敬の念を失わせた要因だ」としています。車やバスのお世話になっている身として苦しいかぎりです。

①山の信仰=日本の山々は里からほどよい距離にあり、暮らしの中に山が溶け込み、人々は山に親しみと畏敬の念をいだき、多様な信仰が生まれた。山は日本人の精神文化を育んできたともいえる。②開山伝承と神仏混淆=日本の山の信仰の特徴は神仏混淆である。仏教の伝来以来、修行の場として山林に寺院が建設された。現在も残る寺院の「山号」はその思想である。明治維新による「神仏判然令」による神仏分離がこの状況を激変させたが、それ以前の長期間にわたる仏教の土着化、展開と創造の長い歴史がある。各地の山の開山伝承は伝説化されているが、国家の起源と重ね合わせる意図的な遡及史観でその正当性を強めている場合も多い。

③神仏習合の思想= 日本の山には仏菩薩や仏教思想にちなむ名前が多い。山に登ることは神や仏と出会い、願いをかなえてもらうことだった。平安時代以来、神と仏は、本地(本源)を仏菩薩、垂迹(仮に現れる姿)を神とする神仏習合思想で統合されていた。各地に修験僧が活躍したが、その歴史が多くの山々の名称に残っているといえる。④山の意味づけ=山中の様々な風景や景観が、「地獄」や「極楽」「浄土」として意味づけされ、現在でも山中の地名に残っている。修験では山全体が修行の場であり、山全体が曼荼羅であった。

⑤修験道の展開=仏教の山岳修行の内容を体系化し、峰入り修行の中で得た霊力を取り込み、里で祈祷、除災、招福、治病などの活動を行ったのが修験道である。⑥山の信仰と農耕民=山の中には多くの社があり寺院もある。元来は山中の巨岩、大樹、湧水、湖沼、洞窟など自然物に対する祭礼の場であったものである。自然と一体になって生活していた人々にとってはこうした自然の中での神々との交流、崇拝は当然のことであった。高山に残る雪形で季節を占うように、山の神は稲作などの農耕の守護神であり、海の幸の源泉でもあった。また、先祖の霊が見守っている場でもあった。

⑦山の信仰と狩猟民=山を生活の場とする狩猟民は山に対する独自の宗教観を伝えている。入山に際しての儀式やおきて、動物や植物に対する神聖な信仰があった。⑧基盤しての山中他界観=山への信仰の基盤には他界観がある。山には神の連想が伴い、人びとが亡くなったあとに霊魂が赴く場であると信じられてきた。日本中に死後の霊が集まるとされる山がたくさんある。

⑨祭祀から登山へ=もともと山は聖域とされ、禁足地とされていた。やがて、山への信仰が祭祀から登拝(参拝登山)へと変化してきた。特に江戸時代には民衆の経済力上昇に伴い山岳登拝が盛んになり、富士講や大山講、御嶽講などが組織化され、多くの人が参加することになった。⑩山岳信仰から近代登山へ=日本の近代登山は明治初年に始まる。第一次、第二次、第三次と登山ブームがおこるなかで、近年は、山岳信仰への関心も復活している。特にユネスコの世界遺産登録で2004年の「紀伊半島の霊場と参詣道」では大きな論争が起こった。2013年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」が指定された。その他に、日本国内でもいくつかの山岳霊場を「日本遺産」として登録する動きが始まっている。観光資源化が進む中で山岳信仰は新たな岐路に立たされているといえる。

本栖湖でのテント生活2017年07月07日 11:17


・最初は尾瀬沼の予定だった

富士五湖のひとつ、本栖湖の西岸にある「いこいの森キャンプ場」で3日間のテント生活をしてきました。おなじみの地元(朝霞)山の会の人たち5人で、男性3人はテントに分散、女性2名はコテージに泊まりました。当初は尾瀬沼に向かう予定だったのですが、天気予報がかなりの確率で雨ということで、急遽、天候のよさそうな富士山付近に予定を変更しての出発になりました。

Sさんの車で午前6時前に出発。途中も順調でかなり早く午前9時頃にはキャンプ場に着いてしまいました。宿泊の申し込みやテント設営を済ませても時間は十分なので、どこに登るかという相談。結果は、この日は観光を兼ねて身延山、明日は毛無山(1945メートル)に決定。どうして毛無山かといえばそこに富士山付近の地図があったからです。

・実は大変な2つの山

軽く決定してしまった2つの山ですが、実際には結構大変な山でした。まず身延山。麓にあるのが日蓮宗の大本山という信仰の寺であることは確かですが、奥の院のある身延山は単なる山号ではなく1183メートルの本当の山です。道は整備されていてまったく危険はありませんが、折り返して続く急坂の連続で足腰の疲れること。また、この日は暑く、風もほとんどないという気象条件で、私(筑井)は上から下まで汗びっしょり。これが悪夢の始まりでした。

なんとか下山してキャンプ場に戻り、カレーライスの夕食。慣れないテントでしたが少しは寝られました。しかし、思えば眠りは浅く、おまけに何度か足がつるのです。これはあまり経験のないことでやや不安に感じました。

翌日、パノラマラインを縫って毛無山登山口へ。早朝の朝霧高原には見渡す限りの牧場のなかに悠然とそびえる富士山が広がっていました。これは感激です。麓にある駐車場から出発。毛無山という大変失礼な名前の山は日本に20以上あるそうで、富士山の麓にも3つくらいあるとか。しかし、この日登った毛無山はその中で最高峰。おまけに登り始めてすぐにわかったようにもっとも大変な山でもありました。

急坂に次ぐ急坂。しかもごつごつした岩がかさなり、ロープのかかった岩場も続きます。この日も前日同様に蒸し暑く、無風。思えば台風が接近していたのですね。とにかく、3時間以上、休み休み、なんとか頂上へ(写真)。まったくのへとへとでした。そして前日以上の大量の汗。食欲もあまりない。これはよくない。下山になっても、険しい岩場だけに足元に気を使い時間がかかります。自分ではそうも思わなかったのですが、やや体も揺れていたそうです。1合目ごとにある表示版を通過するかしないかの距離で少し休ませてもらいながらの情けない状態でした。最後の沢を渡るときに水を汲んでもらい生き返りました。

・毛無山の主に遭遇

下山の途中、まだ少し元気のあったとき、北アルプス展望と書かれた大きな岩から降りてくる登山者に出会いました。すごく慣れた様子だったので話を聞いてみると「ほとんど管理人」でいままでこの山に2000回?以上登り、今では年間260回くらい登っているという信じられない話。さらに「この山は富士山の外輪山では一番大変な山、ここを登れればアルプスは全部登れる」「それもで上には上がいて最短45分で登るクライマーもいる」などの話をしたり、トリカブトへのシカの食害のことも話題にしたあと、われわれを置いてあっという間に下っていきました。

あとで気が付いたのですが、登山道入口の駐車場には、利用者が500円をいれるポストがあり、このひとはその管理を委託されているのではないかと考えます。ほとんど毎日ここに現れる理由もそれでわかります。毛無山の主(ぬし)です。

帰りに道の駅に寄り、冷たいアイスクリームを食べて思わずため息。その夜は何もせず(前の日だって同じですが)、作っていただいたトマトソースのスペゲッテイをなんとか食べきりました。2日目はなんと足の小指がつるという事態に。痛くはありませんが、気持ちがよくない。どうも大量の発汗による電解質の不足が原因と思われます。

最後の一日は、鳴沢の入浴施設で富士山を眺めながらの露天ぶろや食事など観光気分で、天候の悪化を心配しながらの帰宅となりました。

日本一小さな市を一回り2017年06月27日 09:31

埼玉県蕨市(わらびし)はさいたま市と川口市に挟まれた<日本一小さな市>です。ある団体の主催の「まち歩き」でを市内をほぼ1周しました。かなり寄り道をしましたが3~4時間くらいでしょうか。

最初に寄ったのは駅から15分ほどにある「塚越神社」。6メートルほどの小山の上に稲荷神社があります。地元の伝承ではこの山は「経塚」で、旅の出家僧お告げによりここにに法華経一万部を埋納して経塚を築いたもので、塚腰(塚越)という地名の由来となったといわれています。経塚がこれほど大きいものかの疑問は残ります。

神社内には定正寺という観音霊場のお寺や同地の機織業の発展に尽くしたという高橋新五郎を祀った機神社などもあります。かつて綿畑などのひろがるのどかな農村地帯だった頃がしのばれます。

JRの線路をわたり、用水路の跡を利用した遊歩道にでます。ほとんど埋め立てられていますが、このように用水の跡がかなり残っています。低湿地だったことがわかります。やがて(財)河鍋暁斎記念美術館へ。河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の人気絵師で、道釈人物画から浮世絵版画、戯画・風刺画まで幅広い作品を描きました。記念美術館は1977年に暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美氏が自宅を改装して開館したものです。

ついで、旧家に残る庚申塔(道しるべ)のある「善光寺道」を通って土橋公園で昼食休憩。午後、ほどなく、静かな通りにでました。旧中山道です。通りにはいくつかの旧家や「蕨市立歴史民俗資料館・蕨本陣跡」などがあります。さらに歩くと中山道に続く参道があります。三学院です。

この寺は金亀山極楽寺と称し、真言宗智山派。本尊は平安後期の慈覚大師作と伝えられる十一面観音で山門前には六地蔵などのおさめた大きな地蔵堂があります。ここで参加者の記念撮影(上)。

蕨宿には地元の方たちの保存意欲が感じられ、埼玉県内の中山道宿場のなかでは一番雰囲気の残る町並みになっているように思います。

甲武信ケ岳の山小屋2017年06月25日 09:05


前回の登山の続きですが、信濃川源流でひと休みした後、甲武信ケ岳の頂上を目指します。見晴らしのいい斜面を登っていると、いかにも大きな山だという感じがしてきます。この日は曇りで霧がかかり、遠くはほとんど見えないかと思いましたが、2500メートルを超す頂上につくとかなりの展望がありました。山のことはよくわかりませんが、西には八ヶ岳のごつごつした山並み、はるか北方には槍ヶ岳などの北アルプス連峰が雪をかぶってそびえているのが確認できました。

この日は頂上直下にある山小屋=甲武信小屋に泊まりました。山小屋はほとんど経験がないのですが、燕山荘のようにホテルの見まごう大きな施設と違って、甲武信小屋は丸木づくりのいかにも素朴な感じの山小屋という名前がにあいます。写真のように倒壊防止(?)のためのつっかえ棒があります。2階もかなりゆれます。

予想はしていましたが、夕方になると気温が下がり、4~5℃。手が震えてしまうほどです。また室内でも窓から外気が自由に入りますので、食堂では石油ストーブを焚いていますがそれでも寒いくらい。夕食のカレーライスはおいしいです。夜はウインドブレーカーを着た上に毛布と布団をかけて、7時半過ぎには就寝しました。

翌日は、朝4時前に起きて、頂上へ行ってみましたがガスがかかり、何も見えず。ただし、出発後に急速に天候は回復し、シャクナゲの花を眺めながらの快適な下山になりました。

信濃川の源流へ2017年06月21日 21:30

奥秩父にそびえる甲武信ヶ岳は、山梨(甲州)と埼玉(武蔵)、長野(信州)の国境にあるので、その名があります。標高は2475メートル。すぐ隣には8メートルの差ですが埼玉県で一番高い三宝山という山もあります。甲武信(こぶし)という名前の語呂の良さ、あるいは<古武士>を思わせるイメージでその名を知っていましたが、今回はじめて登ることができました。

甲武信ヶ岳は、重要な上記3つの国の分水嶺にもなっています。山梨県を流れ富士川となる笛吹川。信州では千曲川そして新潟に入って日本海に至る信濃川。秩父を流れ下り、埼玉、東京を縦断して東京湾に注ぐ荒川です。

どれも日本を代表する大河ですが、特に日本一の長さを誇る信濃川が奥秩父山地から流れ下っていることに驚きます。今回の登山は長野県側の川上村の毛木平から、この信濃川(千曲川)を遡るというルートでしたので、まるで源流探検の様な面白い登山になりました。

コケに覆われた岩や倒木の間を縫って歩くこと約3時間、「千曲川信濃川水源碑」と書かれた大きな木柱が建っている場所に到着しました。谷川の一番奥、川底の砂の間から澄んだ水が湧き出している場所です。飲んでみるとおいしくて、しかも冷たいことに驚きます。つい2~3週間前まで雪に覆われていた場所です。

荒川の源流は反対側の斜面にあり、小さめの石碑があるようです。笛吹川の源流は東沢という難ルートにあり、一般には立ち入ることができないようです。本当に大きな山です。

第六天社の天狗2017年06月13日 13:45


予定のイベントが中止になったので、先日の「天狗の話」で講演者から聞いた岩槻(さいたま市)の神社=第六天社に行ってきました。いろいろな天狗を祭ってあるということでしたが、第六天社のいわれにも関心がありました。私にとってはこれも散歩のひとつですから、多少の時間がかかってもいいということで地図で調べてみると、東武スカイツリーラインの北越谷駅で降りて元荒川沿いに歩いていけばなんとかたどり着けるということがわかりました。

道順としては確かにその通りだったのですが、元荒川沿いの道が(多くの河川のように)遊歩道になっていると思ったのは間違いでした。駅から元荒川に向かっていくと確かに土手があり、その上は快適な散歩道になっています。少し歩くと公園もあり、その向こうには宮内庁の鴨場と思われる広大な緑地が広がっています。雰囲気もあり、自然度も満点。しかしそれはその先の梅林公園という場所までの20分間くらいでした。そこから先は車の行き交う普通の道になってしまいます。もちろん歩いている人はほとんどいません。

それでも川沿いに歩き続け、さいたま市(岩槻区)に入る頃には幅も狭く歩道もないというようなことになりました。道の途中には香取神社などいくつかの神社やお寺がありますから、これは古い道筋ということはわかりますが、あまり散歩にふさわしいところではありません。

1時間半くらいかかったでしょうか、ようやく第六天神社の参道に到着しました。参道は結構長いですが、あまりにぎやかではありません(失礼。日が悪かった?)。この第六天神社というのは少し変わった神社で元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたということになっています。第六天魔王は、かの織田信長が自称したと伝えられるものですが、天魔とは仏道修行を妨げている悪魔のことらしいので、これが修験者のことであれば、この神社がそのモデルである天狗をお祭りしている背景がわかります。

ただし、明治の神仏分離の政策で、いまの神社自体は普通の形態になっています。天狗がご神体ではありませんので、探した結果、本殿脇の「納札殿」の中にたくさんの天狗のオブジェともいうべきものが展示されているのがわかりました。その中心には2体の石造りのカラス天狗がこちらを向いています(上の写真)。身長は1メートル強でしょうか。子供の様な感じもあります。それほど古いものとは思えませんが、だれがいつ奉納したものでしょう。

もうひとつ、この神社の独特なところは完全に元荒川に面していることです。本殿のすぐ裏に満々たる水をたたえた川がまるで池のように見えます。ご存知のように、元荒川というの現在の荒川が西に瀬換えをする以前の荒川本流の取り残された旧河道です。上流はなく、流れもほとんどないので増水をすることもありません。堤防が必要ないのです。神社の境内には船着き場が2か所あります。

昔、東京(江戸)から第六天神社にお参りする人びとは、静かなこの元荒川の流れを遡ってきたといわれています。

天狗の話からガルダへ2017年06月09日 14:21


小さな同窓会の集まりで「天狗」についての講演がありました。講演者は民間の民俗研究家の高橋成氏で「知ることは楽しい」という気持ちで研究に入ったという自己紹介がありました。どんなテーマでものめり込むと面白いことは確かですが、やはり自分の興味のあることが第一のようです。

一般的に、妖怪や幽霊の話など科学の的に実証できないものは科学や学術研究の対象にはなりません。ただし「天狗」や「河童」については民俗学の世界では取り上げられることが多いようです。伝承が多く、実在の動物や職業?などモデルが特定できるからかもしれません。

高橋氏の調査では、天狗については物語の世界ではかなり古く『源氏物語』などの平安文学に登場します。山の森の妖精のような神秘的な対象だったようです。中世に入ると天狗は、『今昔物語』に登場するように、悪役=仏教の敵です。まともに成仏できなかった精神が陥る魔界の主人公という感じです。しかし、安土桃山時代から江戸時代になると、不思議なことに、こうした天狗の話はほとんど出てこなくなるとのこと。代わりに信仰の対象やフィクションの世界では人気者になります。

こうしたことから高橋氏は「天狗のモデルは『山岳修行者』ことに『修験者』ではないか」と考えているそうです。また伝統的な民俗社会では天狗は「異人」「漂泊民」「差別された人々」を象徴するのではないか。そして天狗の様な妖怪が減少したのは近代の日本社会の中で自然との関係が希薄になってきたからだというのが結論でした。

私もその通りと思います。明治時代の神仏分離政策で日本古来の修験道が壊滅したとされていますが、本当の意味では、近代化に伴う科学的な意識の普及、ことに昭和40年代以降の現在につながる工業化、エネルギー・交通通信革命の波が、山や川への畏敬の念を失わせたのだと思います。そこに山の天狗、川の河童が生きる余地はなかったのです。

さて、他方で天狗については、古代インドの神に起源をもつガルダ神信仰が仏教とともに伝来し、上記の素朴な民間の自然信仰としての天狗と結びつき、また、その外観がカラスに似ていることから「烏(カラス)天狗」となっていったという考えもあります。

もともとのガルダ神というのオウムやクジャクなどの「人頭鳥身型」で、ガナダータ美術の影響で鷹になり、さらに漢字訳の「迦楼羅」になると鶏になり、カラスになっていくようです。鳥型の神が登場する理由としてはインド北部での鳥葬の風習が影響しているといわれています。

ガルダ神が鷹に変化していく過程では古代ギリシャや古代ローマ文化の影響も指摘されていますから、この鳥を神聖化する文化というのは世界の東西文化の相互交流という非常に大きな背景を持っています。ちょうど、神社の狛犬のルーツをたどると獅子=ライオンになり、最後は古代エジプトのスフゥインクスに至るという話にも似ています。

ちなみに、インドネシア航空のマークもガルダですし、タイ王国国章は、ガルダです(上の図)。すごい迫力ですね

参考:「天狗信仰の研究―迦楼羅炎からの考察」森田喜代美(『山岳修験』19号)、「飯縄権現と迦楼羅についての一考察」森田伸雅(『山岳修験』58号)。

奥秩父の両神山に登る2017年05月30日 12:49


奥秩父にそびえる両神山にいってきました。埼玉県内にある日本百名山として有名ですが、古くからの信仰の山、修験の山としても知られています。ただし、交通の便が悪いのと一部に険しい岩場があるので敬遠されることも多いようです。いつもの地元の山の会の定例山行ですが、今回は15人が3台の車に分乗しての大グループになりました。

カメラを忘れ、写真がとれませんでした。上の写真は「ジオパーク秩父」というサイト(ttp://www.chichibu-geo.com/dsc/marugami.html)ものです。当然ですが、この独特の山容は登山中は見えません。サイトの解説によると「両神山は、東西約8km、幅2~3kmにおよぶ巨大なチャートの岩体でできている。チャートからは、古生代ペルム紀から中生代ジュラ紀までの放散虫化石が見つかっている。放散虫の殻のケイ酸は硬い岩石をつくり、侵食に強いチャートがこのような山容をつくったものと思われる」とのことで同じ秩父の武甲山同様に古生物由来の石灰石が豊富で途中に採石場もありました。

登山道はいくつかあり、本来は「表参道」と呼ばれる日向大谷口から入り、両神神社や御嶽神社をまわっていくものと思いますが、この日は「白井差口」という危険の少ない道を行きました。この登山道の特徴は私有地だということで、このため、登山道開始場所にお住まいの山中さんという方に料金を払って登山させていただくことです。

予約しておいたので登山道前の駐車場につくと山中さんが現れ、誘導してくれます。地図を渡してくれ、「遭難した場合には料金はいりません」と冗談をいいながら、コースの説明も的確にしてくれます。経験者がいない場合はガイドもしてくれるそうです。

沢沿いに進み、流木や岩の間を流れる谷川を眺め、随所に懸けられた木製手作りの橋を渡りながら上に登っていきます。両神山中には有名な滝もありますが、水の豊富な山であることがよくわかります。沢を超えると、かなりの急斜面をジグザグに登っていきますが、あまり苦しくはありません。ただ予想に反して天候が悪く、雨にはなりませんでしたが、最初から最後まで濃い霧がかかり、眺望はほとんありません。

山頂付近には数十メートルの岩場がありますが、難しいということはありません。山頂にはごつごつした岩石がそそり立ち、人の歩く場所はほとんどない状態です。コンクリート製の社があり、なんとその隣に頭の落ちた地蔵菩薩とおぼしき石仏が転がっていました。連休のころにはアカヤシオというツツジの群落がきれいだそうですが、時期が遅く、この日はほんのわずかしか咲いていませんでした。

春日大社と三輪山(その2)2017年05月23日 18:57


2日目は奈良駅からJR桜井戦で三輪駅へ。のんびりした単線が大和平野を南下していきます。水を張った水田が池のように見えます。三輪駅に近づくと進行左側に明るい感じの大きな山が見えてきます。山麓にある大神(おおみわ)神社のご神体としてあがめられてきた三輪山です。長く神職以外の入山を許さないという禁足地でしたが、現在は誰でも登ることができるようになりました。神社には以前バスツアーで来たことがありますが、今回は自分の脚で山を登ります。

三輪駅前から大神神社(三輪明神)参道までの商店街は昭和時代の雰囲気です。コンビニもスーパーもなく、代わりに雑貨店や八百屋さんがあります。山の辺の道を歩く観光客や参詣客はそれなりにあるのだと思います。大神神社の参道は掃き清められいかにも霊山への入り口という感じです。大神神社では通常の参拝。この裏に三ツ鳥居があり、そこからご神体=三輪山を拝するのが本来らしいですが、行けないようになっていますので、新たに作られた参道を通って狭井神社へ向かいます。健康を祈願するというこの神社が三輪山への参拝登山の窓口になっています。

住所、氏名、電話などを記入して受付を済ませるといくつかの順守事項を告げられ、大神神社の鈴のついた白い襷を渡されます。参拝登山中はこの襷を外してはいけない決まりです。また、写真撮影や飲食も禁止です(水はOK)。各自でお祓いをしてから注連縄を潜って薄暗い山中へ(写真)。

低いとはいえ467メートルの山ですから神社の裏山とは違います。瀧行を行う場所もありますから、小さな沢の源流部まで降りることもあってアップダウンはそれなりにあります。ただし、急な坂道はほとんど丸太と土で作った登りやすい階段がつけられています。

参拝登山者は予想より多く、学生のグループも目立ちました。トレッキングポールを持った通常の登山スタイルから背広姿のひとまで登山装備はまちまち。甘い気持で登った人でしょうか、肩で息をしながらあえいでいる人もけっこういます。信仰登山のためか裸足で登る人が数人いて、女性のほうが多いのが印象的です。神奈備(かむなび)の地ですから多くは語りませんが、神の山の象徴である磐座(いわくら)は、中津磐座が中腹にあり、頂上には奥津磐座が鎮座しています。奥津磐座には自然の露出岩石とは思えないちょっと異質な気配が漂っています。

下山後、山の辺の道を通って長谷寺方面に向かいます。途中、金屋の石仏があります。立派な建物に守られていますが、以前は三輪山の山中にあったということで、明治の廃仏毀釈の際に山麓のこの地に移されたのでしょうか。さらに進むとは初瀬川にでます。大和川の上流部で、数キロ先に初瀬ダムがあります。ここは万葉の時代、海柘榴市(つばいち)と呼ばれ栄えた交易地です。当時の大和川は直接大阪湾に注ぎ、瀬戸内海との海上交易が盛んだったことがわかります。今は土手の上にベンチがいくつかおいてあるだけの公園になっています。

この初瀬川と並行している国道165号線は伊勢に向かう道路で一部は旧道・伊勢街道の雰囲気を残す場所もあり。長谷寺への参道入口はその途中にあり、地図では近いと思っていましたが、実際には徒歩で1時間以上かかってしまいました。炎天下(この日は31°以上ある真夏日)で結構大変でした。長谷寺は参道入口からさらに20分ほど坂道を登ります。それでもバスや電車(近鉄の駅があります)などでの参詣客は絶えないようです。