65年ぶりの清水公園 ― 2025年06月10日 19:04
おなじみの『まち歩き』で千葉県の野田市へ行きました。野田といえば「キッコーマン」で有名な醤油の町で、私も工場見学ツアーに参加したことがあります。今回は、醤油工場とは関係ない「博物館」や「市民会館(茂木家旧宅)」「流山街道」などをめぐったのですが、博物館は醤油づくりの歴史や醸造用製品の展示が大半ですし、茂木家は亀甲満の創業家です。流山街道を歩けば大正から昭和初期の❝醤油景気❞を象徴するように壮大な3階席の豪華なホールを有する興風会館や醤油銀行の語呂合わせ?という旧商誘雄銀行などの歴史的建造物が残り、その間に、とても美しいガラス正面のキッコーマン野田本社があるなど、どこに行っても「醤油の街」です。
ところで、野田といえば私の思い出はなんといっても小学校の遠足で訪れた「清水公園」なんです。10歳くらいの時だと思うので、もう65年も前(!)です。思い出というと、途中の電車(東武野田線)の窓から見た田園風景や渡った何本かの河川の様子がかすかに記憶に残るばかりで、肝心の野田公園の様子は本当にまったく覚えていません。子供なんてそんなものでしょう。
ということでほとんど始めて訪問した清水公園なんですが、あらためて都市公園としてみてみると、江戸川(かつての利根川)の旧流路であり、それ以前は東京湾が入り込んでいたという海岸線の段丘地形の高低差を活かした池と周囲の草花豊かな平地、それを取り囲む樹林という自然を利用した広大な庭園風の公園であることがわかります。これは本多静六博士が自然公園として大幅な拡張して造成したものですが、現在はその池部分には丸木材を使った非常に高度なフィールドアスレチック施設がつくられ、その上の台地には「花ファンタジア」という庭園が造られています。どちらも有料施設になっていて、レストランやガイド施設もある雰囲気のいい公園になっています。
わたしは(他の多くのまち歩き参加者もそうでしたが)どちらの有料施設も入場せず、まずは、公園入り口の「清水公園貝塚」を訪ね、ここが海岸だった頃の地形を想像したり、園内では、公園化以前よりある「今乗院」という野田市で一番古いという寺院や仁王門を見学したりとちょっと場違いな行動をとりました。貝塚は野田市指定遺跡なのですが、指定の標識も説明版も古びてほとんど文字が見えません。現在、これを目当てに来る人はほとんどいないのでしょうが、野田市駅前の「弁財天の池」があまり清掃されていな印象を受けたのと同様に「古いものを大事にしない」まちなのかなとやや悲しくなりました。
ついでに、この公園に「富士塚」があり、浅間様とよばれていることを聞いていたので確かめました。これは市が発行した清水公園マップにも掲載されていましたから、貝塚のようなひどい扱いはないと思っていたのですが、ガイド施設で聞いてみると若い女性スタッフはよく知らない様子。後ろにした年配男性が「浅間様のことですね」といって場所を教えてくれましたが、目の前の公園地図にもそれらしきものは見当たらず、教えられた方向に、薄暗い樹林の中を歩きまわり、ようやく小高い山を発見しました(写真)。
数メートルとはいえ、確かに山です。ただし、きちんとした階段状の登山道はつくられていましたが、頂上には予想した浅間神社はなく、2メートルほどの石碑が建てられているだけでした。あとで調べると「参明藤開山碑」という文字が彫られているようで、下の台座(写真)には山を現す文様(この地の富士講のマークと思います)が刻まれていました。「富士」ではなく「藤」とされていますが、調べてみると「藤開山」とは富士講の言葉で「富士山を開く」あるいは「富士山信仰を広める」ことを意味する言葉とのこと。富士講の開祖である角行が唱えた「明藤開山」という言葉があるそうで富士講の行者たちが「参明藤開山」などと唱える際に使われたようで、珍しいことではないようです。
(参考:千葉県立関宿博物館研究報告第11号
[こちら]
伊勢参道の観光文化財 ― 2025年05月26日 17:13
10数年前、奈良県の古代文化の里である明日香の地の遺跡巡りをしたときに「三輪そうめん」の老舗のご主人から「ここ(三輪)から真っすぐ東を眺めると伊勢になります」といわれたことがあり、なんとなく別々に考えていた伊勢と大和の地理が一致するような発想の転換がありました。その後、三輪から長谷寺までのいわゆる「大和・山野辺の道」を歩いた時、長谷寺への新道から外れた細い道が古くからの「伊勢街道」だとわかり、その通りの落ち着いた趣に感動したこともありました。今回、松坂では伊勢街道から分岐する初瀬街道という古道も目にしました。関東の人間にはよくわかりませんが、大和と伊勢は地理的にも文化的に意外に近い関係にあるのですね。
つまり、難しいことはなく、古代大和のひとびとが太陽の上る東に向かっていくと到達するのが伊勢の海で、そこには美しい海岸があり、その先の広大な太平洋から朝日が昇ることに感動して、太陽のための祠を建てたとしても不思議はないでしょう。
「おはらい町」と「おかげ横丁」の魅力
さて、今回の旅行では、伊勢神宮ではなく、参拝を終えてからそぞろ歩く鳥居前のいわゆる「おはらい町」の様子に感激をしました。宇治橋から続く約800mの参道で、主催者のホームページによれば「昔ながらの風情を残す土産物屋や飲食店が軒を連ね、江戸時代の人々が憧れた<おかげ参り>の雰囲気を楽しむことができます」という感じです。
これは本当で、写真を見てもらえばお分かりのように、伝統的なつくりの商家や旅館風の家が軒を接していて、現在そのほとんどが飲食店や伊勢土産の販売を行う店ですが、看板も屋根もいかにも江戸時代の伊勢参りの人々が目にしたであろうような景観そのままですから楽しくなります。
こうした参詣町は日本中にあり、参道の店構えも多くは伝統的な形式で、その風情を十分残しているところも多いです。この伊勢「おはらい町」もそのひとつではありますが、町全体の一体感が違うような気がします。もともと伊勢神宮内宮の鳥居前町であったおはらい町には、明治初期まで「御師(おんし)」と呼ばれる下級神官の館が立ち並んでいたとのこと。御師とは、各地を巡って伊勢参拝を勧誘し、参拝者にはその案内を行うほか、宿を提供してもてなしました。これは富士山や立山、出羽三山など多くの有名な信仰の地にはどこでもいたもので、こうした人々が日本中を回って参詣客を呼び込み、地元にあっては宿泊や参詣の案内をつとめていました。なかでも、この地の御師は庶民への御祓いや神楽も行っていまて、「御祓い」をする館が立ち並んでいたことから、「おはらい町」と呼ばれるようになったといわれています。
ただし、この街の景観がいまのようにきれいに整えられたのには現代の努力があります。
「門前町おはらい町の特徴は、木造建築で揃えられた町並み。おはらい町の建物は、1990年(平成2年)から始まった「伊勢市まちなみ保全事業」によって切妻・妻入り、もしくは入母屋・妻入りで統一されました。神宮社殿の建築洋式が切妻・平入りであることから、おはらい町の建物も神宮社殿に合わせて作られています。「ぬれガラス」と呼ばれる防腐塗料で黒く塗られた外壁と、独特の形をした「伊勢瓦」を使用された屋根が、古き良き伝統的な雰囲気を醸し出しています。」
(「内宮おはらい町地区のまちづくり」)より
また、このおはらい町の中ほどに「おかげ横丁」という一角があります。ここは1993年に開丁した街並みのことを指しますが、この「横丁」はまた別個の誕生物語をもっています。
「明治以降、御師制度が廃止されたことや自動車での参拝客が増えたことなどから、おはらい町は徐々に活気を失っていきました。昭和50年~60年代の来訪者は年間約20万人と、現在(2019年は590万人)と比較すると30分の1程でした。
この状況を危惧した(株)赤福が、おはらい町に伊勢路の伝統的な街並みを再現しようと開業したのが「おかげ横丁」です。第61回神宮式年遷宮の年、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。伊勢の暮らしや文化を体感できる場所として横丁を整備すると同時に、おはらい町の電線の地中化や石畳への舗装などにも取り組みました。開業時は27店舗でスタートしたおかげ横丁ですが、その後も少しずつ店舗を増やし、現在の店舗数は55店舗となりました。」(サイト:「おかげ横丁」より)
伊勢に行くといたるところに「赤福」の看板が目につきます。街の衰退に危機感をもったその赤福の経営者が中心になって、それまでの伝統的な力を増幅して、近年の観光ブームの中で盛り上がっている日本の神秘的な伝統のひとつである伊勢神宮とそこを訪れる「お伊勢参り」の人たちのための新しい観光文化財をつくりあげたわけです。
二見浦の中央構造線 ― 2025年05月19日 15:10
伊勢と鳥羽、松坂をまわる旅行に行ってきました。個人の旅なのでスケジュールに余裕があり、かなり気ままに歩くことができましたが、印象に残ったのは伊勢神宮前の「おはらい町」と呼ばれる参道沿いの賑わいと二見浦(ふたみがうら)の山と海の景観、松阪の落ち着いた街並みといったところ。伊勢に行くのは3回目くらいになるかと思いますが、連休後の平日だったためか、全体的に観光客も少なめで、水を張った田植え前の田圃に囲まれ、どこを歩いてもウグイスの鳴音が聞こえるような、静かな雰囲気が印象に残りました。
今回の旅行では、以前の訪問(かなり前になります)では気にもしていなかったことに関心が向いていました。ひとつは三重県のこの場所を中央構造線が通っているということで、特に伊勢神宮の下宮と二見浦海岸を結ぶ地点をを地図で見ると、山裾と海岸平野が一直線にならんでいて、まさに中央構造線の断層ラインです。中央構造線とは一億年近く前の日本列島誕生期の地殻変動で形成された大断層で、九州から四国、紀伊半島をとおり、長野県付近であのフォッサマグナとつながり、最後は群馬・埼玉県県境付近を通って茨城県の鹿島灘まで繋がっています。とりわけ明瞭なのは地図上でもはっきりわかる紀伊半島から四国を縦断している箇所です。以下の図は長野県大鹿村中央構造線博物館サイト掲載の中央構造線マップ(一部)です。
(中央構造線博物館サイトより)
昨年の夏に、ファッサマグナの大地形ということで、長野県の伊奈から新潟県糸魚川付近の大断層に由来する山々や街道(塩の道の一部)をめぐることができました。今回は、その続きではありませんが、同じくナウマン博士の発見した中央構造線のライン上に立てるのは楽しいことです。JR伊勢駅から参宮線に乗ると二見浦駅までまさに一直線です。その先の海岸沿いの大小の岩が有名な「夫婦岩」で、神社にもなっていて各地から観光客がやってきます。この2つの岩の間から夏至の日の太陽が登るなどの、地殻変動とは関係ない自然現象の不思議さもあってパワースポットとか霊的力の場所とかいわれますが、それはそれとして、どうもこの夫婦岩は別々の岩石のようなのです。上の中央構造線博物館サイトにはこんな記述があります。
「夫婦岩の大きい方の岩や、海岸の陸側の岩は、すべて三波川変成帯の緑色片岩です。大きい方の岩と、こちら岸の岩の片理面(板を重ねたような面)の向きを見ると、同じ向きに一致しています。もとは、ひとつながりの岩だったものが、波に侵食され、海面上に頭が残ったものが夫婦岩であることがわかります。小さい方の岩は、岩種も片理面の向きもちがうので、据え直したものと思います」
確かに近づいてみると、大きい岩(夫岩?)の岩石の傾斜面は陸地側の岩と同じ傾斜角度をしていて同じ地層にあったことがわかります。三波川変成帯という地層の緑色片岩ということです。一方で小さい岩はいかにも不自然に立っている感じがします。この夫婦岩は江戸時代からの名所だったようですから、かなり古い時代に何か細工がされたのかもしれません。(夫婦岩は一直線に海に落ち込んでいる=下の写真)
なお、中央構造線の上に日本古代からの神社が並んであるのには理由があるという説があります。例えば、愛知県の「とよがわびより」の「こぼれ話」の中に
「中央構造線」上には、高野山や伊勢神宮、豊川稲荷といった有名な神社・仏閣が点在しています。これには、
・「中央構造線」上が地形的に交通の要衝になりやすいから
・「中央構造線」での地震災害を鎮めるため
・「中央構造線」で起きた地震災害の被災者の鎮魂のため など
様々な説があるようです。
そこにもうひとつ、「中央構造線」が強力なパワースポットだからという説もあります。
何かこうした人間の文化的な活動と地殻上の巨大運動との間に目に見えない関連があるのか──フォッサマグナによる日本の東西地域の分断の謎については意味がありそうなんですが、中央構造線による日本列島の縦の分断(外帯/内帯)はどうでしょうか。
「浜辺の歌」謎の歌詞 ― 2025年05月12日 20:20
4~5年前から歌のサークルで毎週歌っています。楽譜も読めない私が入っていられるくらいの緩い集まりですが、ピアノやギターのできる人がいるので、それに助けられ、みんなに交じって声を出しているだけというのが実態ですが、演奏するのは『みんなのコーラス』(野ばら社)という本を中心にかなり雑多な日本歌曲や(参加者の)青春時代のポップスなどがメインです。
『みんなのコーラス』に唱歌・童謡・フォークソング・日本の名歌・世界の歌─など様々なジャンルに分類されていますが、日本歌曲の中では、明治大正期につくられ、戦後も学校教育の中で歌われ続けた曲がかなりあり、知っているものが多いとはいえ、当然ながら始めて聞いたという歌もかなりあり、音楽の世界の奥深さの一端を知りました。
その中で、『浜辺の歌』というのは、どこで覚えたのかは思い出せませんが、懐かしく印象深い歌詞とメロディで、歌いやすいこともあって私の好きな曲です。大正時代につくられたものですし、作者の林古渓氏は漢学者らしいのでいかにも古風な言葉つかいで、深い味わいのこもった歌詞になっています。
1、あした浜辺を さまよえば 、 昔のことぞ 忍ばるる。
風の音よ 、 雲のさまよ、 よする波も かいの色も。
2、ゆうべ浜辺を もとおれば、 昔の人ぞ 忍ばるる。
寄する波よ、 かえす波よ。 月の色も、 星のかげも。
「あした」「ゆうべ」「 忍ばるる」「もとおれば」など、いかにも明治風の文語体で雰囲気を感じさせます。普通、歌詞はこの2番まででテレビの「日本の歌」なんかで歌手が歌う場合もこれを歌います。『名曲集』にもこの2番までしか歌詞はありません。しかし、この歌には3番の歌詞があり、さらには4番もあったということを何かの雑学で聞いた覚えがあったので調べてみると、確かにそうでした。
現在「浜辺の歌」の題名で知られているこの歌は、大正2年(1913年)に発行された『音楽』という雑誌に掲載されたのが最初だそうです。その時は「はまべ」という題名で、なんと「作曲用試作」と付記されており、作者の林古渓氏は誰かに作曲されることを前提で書いたようで、当然メロディはまったく存在しませんでした。そして、その詩には3番が書かれていました。次の通りです(日本の唱歌「浜辺の歌」)。
日本の唱歌「浜辺の歌」
3、はやちたちまち 波を吹き、赤裳のすそぞぬれひじし 。
やみし我は すでにいえて、浜辺の真砂 まなごいまは。
しかしこの3番の歌詞が難解なことから、最近は削除されることが多いということです(小学唱歌採用時にそうなった)。確かに「はやち」は疾風のことで「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装というのいいとして「赤裳のすそぞぬれひじし」とは現代人には通じません。それでも「突風が急に波をたて、赤い裳の裾が濡れて冷たく感じる」という意味だととれます。ところが、これを現代では「赤裳あかものすそぞ ぬれもせじ」としている場合もあります。難しいからといってこれではかえって意味が通りません。ここは素直に「ぬれひじし」か「ぬれもひじ」とするべきでしょう。(古渓の原詩では「ぬれもひぢし」との説もあるようですが歌詞としてはすこし歌いにくい)
この3番が難解というのはここでだけでなく、というか、ここ以上に、このフレーズと次の「やみし我は すでにいえて」という言葉の関連がわからないということです。この点について、上の「日本の唱歌「浜辺の歌」では次のような説を述べています。「(これには)理由がありました。というのも、古渓は当初4番まで作詞していたのに、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたそうです。そこで古渓は3番を記載することに難色を示したそうです」。
「音楽」というのは、東京の京北中学校国漢科教師の林古渓が載せた作詞、作曲のための雑誌「音楽」です。この歌が正式に発表されたのは大正7年(1918年)でその時の題名は『浜辺の歌』です。(上の図)表紙の絵には若い女性が長い裾を引きづっていますから、女性の視線であることは確かでしょう。とても浜辺を散歩できるとは思えませんが、だから濡れるのか。
さて、この3番の解釈についてはいろいろありますが、当の林古渓の子息を訪ねた時の記録が鮎川哲也氏の『唱歌のふるさと』という本に書かれれています。鮎川哲也は推理作家ですが音楽についても造詣が深ったようで、これは音楽之友社の雑誌に連載された企画だったようです。子息氏によれば古渓は幼いころ茅ケ崎の海岸で過ごし、三崎の旅館で台風にあった経験もあるようで、当時、湘南の海岸には結核の療養所がありましたから、そこがモデルだろうと鮎川氏は推理しているニュアンスです。
肝心の3番、4番の歌詞については、改作した人物も分かっていたようですが、出版時に連絡も来ないという時代だったようです。本人が「わすれた」といっている以上、どんな内容だったか確かめる方法はありません。
ネットの検索で「レファレンス協同データベース」という中に、同志社大学HOME 研究活動教員によるコラム「浜辺の歌」の謎(2021/09/06)
いうものも発見できました。
「浜辺の歌」の謎
内容は以下のようなものです。
「はやち」は疾風のことです。「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装です。疾風で強い波が生じ、赤裳の裾が濡れたのでしょう(「ぬれもひぢし」)。これは女性自身の視点でもいいのですが、その女性を見ている男性の眼差しでも通ります。それに続く「やみし」は、「病んだ」で、「いえて」は「癒えて」です。どんな病なのか、失恋なのか結核のような病なのかわかりませんが、それが原因で恋愛も破局を迎えたとすれば、「むかしのこと」「昔の人」はかつての恋人との記憶と解釈できそうです。それを一人で散歩しながら思い出しているわけです。
最後が難解です。「真砂」は「まなご」とも読むので、「まなご」が二度繰り返されていることになります。「愛子」はいとし子ですが、女性の幼子と見るより、女性そのものがかつての「愛子」だとすると、その女性が今はどうしているのか、と想像していることになります。この「浜辺の歌」は、古渓のかつての失恋の思い出を綴った歌だったのではないでしょうか。これが私の解釈というか想像です。
林古渓氏はもともと漢詩の起承転結を前提に書かれたとのことなので、3番は「転」つまり前2番との内容が打って変わっているのは当然で、静かな浜辺に、急に嵐を思わせる風波がたち、穏やかな気分に昔の怒涛の思い出がよみがえり、その頃愛した人(子どもであれ恋人であれ)のことを思い出す―という流れが3番と4番になっていたと思われます。
3番の歌詞まで歌っている歌手もおおく、倍賞千恵子の若いころの歌声はとてもいいです。
荒川ロックゲートとは ― 2025年04月30日 07:21
東京湾から約3キロの荒川右岸に30メートルの高さでそびえる巨大な構造物があります(上は内側からみた写真。向こう側が荒川)。通称を「荒川ロックゲート」といい、ここに合流する小名木川との水位の差を調整するのが主な目的です。埼玉県を縦断して流れる荒川は何回かの大きな流路変遷を経ていますが、現在は東京都の江東区を流れ下って海に入ります。広い川幅、向こう岸には首都高速の高架橋、さらにその先には中川も流れていますが騒音は聞こえません。サイクリングの人たちを前景に悠然と流れる川。かなり開放感のある気持ちのいい景色ですが、その中でも実際に見上げるとゲートの大きさは実感できます。
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「隅田川に架かる文化財(2022年05月26日)」という記事で隅田川にかかるいくつもの橋を紹介しましたが、その中でもっとも美しいといわれる清州橋。この清州橋のすぐ上流にあるのが小名木川です。この川は江戸時代の初めにつくられたいわゆる人工河川=運河です。その役目は江戸川や利根川を通して江戸に物資を送るためで、特に、当初は、非常に大事であった「塩」を確保するため、現在の葉県・行徳にあった塩田からの流通を行うのが目的だったようで、この運河を利用したルートが「江戸の塩の道」と呼ばれることがあります。
当時の江戸湊(現在の日比谷付近)は、広大な砂州や浅瀬が広がり、船もしばしば座礁するような場所で、安全とは言えませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが小名木川の始まりであるとされています。この運河の開削によって、安全に塩を運べるようになり、かつ経路が大幅に短縮されたため、その後、塩以外の品物の運搬やさらに成田参詣客などもこの航路を使うようになり、行き交う物量が増大していきました。
やがて小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅され、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれ、幕府の役人がそこに駐在し、行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をしたようです。新川、江戸川、利根川を経由するこの航路が整備されると、この地=小松川界隈が発祥の野菜が小松菜として有名になるなど、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となっていきます。
この小名木川と中川が合流する場所は、経済面ばかりでなく、江戸の観光名所のひとつでもあったようで、多くの名所図絵・浮世絵にこの風景が描かれています。有名な歌川広重の『大江戸名所百景』の一景に「中川口」があります。『百景』忠には他に「小奈木川五本まつ」などもあり、この場所がかなり人気だったことがわかります。
水位差を調整する2つのロックゲート
こうして発展してきたこの地の水上交通は、電車や自動車など他の交通手段に置き換わり衰退していく中でも重要な役割を果たしていましたが、明治末年から大正、昭和まで、この付近の地理生活環境を一変させる大工事が始まります。明治43年の大洪水を契機に、東京の下町を水害から守る抜本策として開始された荒川の大改修です。事業は昭和5年(1930年)に完成しすからほぼ20年間の期間を要したことになります。これによってこの地域は一気に市街地化が進むことになり、現在の下町の光景がつくられていきます。
広大な上流部を持つ荒川(当初は荒川放水路と呼ばれていました)と中川や小名木川には水位の差がかなりあり、船の交通には不便でしたので合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていて、その調整を行っていました。
その後、江東地区の工業化による地盤沈下などにより、昭和50年代には閘門は閉鎖されていましたが、2005年に「荒川ロックゲート」と「扇橋閘門」の2つが完成し、再び、旧中川を経由して荒川への通行が可能になりました。閘門(ロックゲート)とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設で、荒川ロックゲートは荒川と旧中川とを結ぶ閘門です。このロックゲートの完成によって、荒川と旧中川、小名木川、そして隅田川が結ばれました(平成17年10月)。また、扇橋閘門は、江東三角地帯を東西に流れる小名木川)のほぼ中央に位置して、水位が異なる河川を通航可能にした『ミニパナマ運河』と言える施設で、2つの水門(前扉及び後扉)に挟まれた閘室と呼ばれる水路の水位を人工的に変動させることにより、船の通航を可能にしています。
小名木川の両岸は歩きやすい遊歩道になっていますので、中川(現在は旧中川)との合流点から隅田川合流点まで、この扇橋閘門を見ながら歩くことができます。時間があれば砂町銀座商店街など下町情緒の残る場所を巡ることもできます。
東浦和に残る古道 ― 2025年04月22日 17:50

さいたま市緑区と聞いても場所のイメージがわきません。埼玉県南部の3つの市が合併して「さいたま市」が誕生してから25年たちましたが、旧大宮に育った身としてはいまだに与野とか浦和という言葉がどこかについていない地名に接すると?となります。地元の人は一応「町」の名前が住所表記の一部に残りますから見当が付くのでしょうけれども、少し離れるとわからず、しかも新しい行政単位である「区」がこれまたなじめません。北とか西とか桜とか、どういう考えで他の政令区市と同じ言葉を採用したのかさっぱりわかりません。話を戻して「さいたま市緑区」ですが、方角でもなく歴史的地名に関連したものでもなく、いわゆる旧浦和地区の東部に属しますから「東区」でもよかったんでしょうが、何か意味をもたせたかったようで、そういえばここは自然豊かで緑が多いということで名付けられたんじゃないかと推察します。私の子供時代の意識では「浦和の僻地」であり、野田のサギ山が有名でした。中学生の頃、浦和で最後の電灯がひかれた家があるという話があり、本当ならまさにこの地域だったのでしょう。
そこでこの地域の主要なJR駅名である「東浦和」と聞くと、やっと位置関係がはっきりしてきます。この路線が開通する前、おそらく見沼田んぼを見下ろす高台の上は、畑や雑木林に囲まれて大きな農家が点在するという風景だったと思われますが、現在はかなりの高級感の漂う住宅街で、ここから10キロほど西にいった浦和駅沿いの雑然とした街並みとはかなり景観が違います。小さな公園や下町風の商店街は見当たりません。
新しく造られた街の感じですが、石仏研究者によるとこの中でも中尾、尾間木地区などは天台宗別格本山の吉祥寺や本山修験派の中心寺院であった玉林院などがあり、修験者の行き交う地域だったようです。本山修験宗とは、修験道の一派で、総本山が聖護院門跡(京都)に置かれています。天台宗寺門派から独立し、昭和21年に「修験宗」として設立、後に「本山修験宗」に名称変更されています。ただ、この地の玉林院は明治の神仏分離令で廃寺となったままです。
この地を歩く機会があり、同行の碩学者からこんな話をきき、少しの感慨をもちましたが、確かに新しい街の随所に古い寺院や墓が残り、その中に幾多の石仏や石碑が草木の中にうずもれて忘れられたように残されています。特に、玉林院墓地跡にあった地蔵菩薩石仏は延宝3年(1675年)と古いだけでなく彫刻の美しさも実にすばらしいものでした。
この場所も含みますが、大谷口地区の玉林寺末寺の信成院からその墓地跡の石仏群に続き、さらに第2産業道路に沿って低い段丘の上を通っている細い道は、道標の役割をはたしたと思われる庚申塔が斜面林の中に傾いてたたずみ、古道の雰囲気を残しています。
上の写真がそれですが、下はこの道が産業道路に合流する場所です。この区間は西の中山道と東の日光街道を結ぶ箇所にあります。日光は修験の聖地ですから、そこを目指す修験者がここを通ったと思われます。
心霊スポット? 小崎沼 ― 2025年03月31日 17:01
何回か前の記事「埼玉の津」と「万葉灯籠」で、埼玉県行田市にある小埼沼のことについて書きました。さきたま古墳群近くにあり、今や消えようとしている「小埼沼神社」の中にある小さな池のことです。この3月末に行ったま「ち歩き」の最後に、有志の数人とともにこの小埼沼神社と小崎沼に行くことができました。
前玉神社からはけっこう歩きます。歩いている場所の遠くに行田タワーがそびえるこの地は、埼玉県名発祥の地「埼玉(さきたま)」です。
関東平野の真ん中─見渡す限り平坦な畑作地帯ですが、現在はけっこう住宅が広がり、車の往来は盛んです。目指す小崎沼神社はそんな風景の中に残された小さな林の中の雑木と竹が生い茂る荒れ果てた祠でした。
石造りの鳥居には枯れ木と枝がかかって半分見えません。ほとんど人が立ち入らないようで、社殿は傾き、無残というしかありません。そういえば付近の道路の標識も「埼玉県指定旧跡 小崎沼」とだけ記されていましたから、神社としては廃止されたものと思われます。「心霊スポット」とされた様子もなんとなくわかります。
それでも、同じ敷地内にある「小崎沼」のほうは手入れがされているようで雑草もそうひどくなく、池も、水はありませんでしたが、底の白い石が見えるほど綺麗な感じです。
そして、万葉歌碑のほうには新しく見える花も添えられていて、この旧跡を守る人がいることが感じられて安心しました。石碑はまるで墓石のように立っていますが、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られているはずです。
碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようです。(行田市・文化財の概要による)。
近くには行田市で一番古いという「盛徳寺」があり、庚申塔など付近の石造物がたくさん収められていました。しかし、目の前を通る2車線の道路が狭く、危険でほとんど歩道を歩くことができません。通る人の姿も少なく、いまや埼玉の地も安心できるのどかな場所ではないようです。
太田・金山城とは ― 2025年03月24日 15:37
群馬県太田市は国産自動車大手スバルの本社工場がある場所として知られていますが、そのスバルの工場のすぐ北側では平地が終わり、いくつもの丘陵が連なっているのがわかります。これが足尾山地で日光山地に繋がる関東北部の大山塊が始まります。この太田の地と渡良瀬川を挟んで隣接する足利は、ご存じのように、足利尊氏や新田義貞など鎌倉末期から室町時代までの中世の激動期に、動乱の主人公を生み出した地域になります。
現在では、なぜこの北関東の地で歴史の転換点となるような人物が現れたとも思われるかもしれませんが、古代から中世まで、日本の政治権力の中心だった京都大阪といった先進地域から武蔵の国やさらにその北の国々に向かう主要道である東山道がこの地を通り、ここで南に進んで武蔵国府や相模鎌倉へと向かう南道が分岐していたのです。この道筋は後世まで「鎌倉街道」として残ります。
当時の海岸と湿地帯の続く関東に向かうには、北から南に向かうこの経路のほうが最適だったのでしょう。中世になってもこの地の重要性は変わらず、中世、戦国期から江戸時代初期までここに有力な勢力が地位を占め、いくつもの城郭を建設しました。
そのひとつとして今に残っっているのが、ここ太田市の「太田金山城(あるいは新田金山城)」です。平野から盛り上がる標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った実に堅牢な戦国時代の山城です。関東の城の多くには「石垣」はほとんどないとされており、多くが土塁で守られています。しかし、この金山城の発掘調査で、こうした城郭史の定説が覆されました。奇跡の城なんです。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所で、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られています。かなり壮大な規模です。
城全体は、平成4年(1992年)からの史跡環境整備事業に伴い、発掘調査が始まり、石垣を多用した山城の姿である最盛期の石組みや施設が復元されていますので、曲輪や虎口がしっかりと組まれた石組みで守られていた様子がよく分かります。本廓付近の井戸や2つの大きな丸い池も残っており、本格的な籠城戦にも耐えうる城であることも見て取れます。樹齢800年という大ケヤキもあります。
城の歴史は以下が記録に残っています(Wikipediaより)。
1469年(応仁3年)8月には新田一族であった岩松家純が五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入る。
1528年(享禄元年)頃に横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺し、実権を握る。
1565年(永禄8年)7月15日頃、横瀬成繁が由良に改姓。
1574年(天正2年)9月21日頃、由良成繁が上杉謙信の軍と金山城にて戦う。
1580年(天正8年)9月20日、武田勝頼が新田・館林地域を攻撃。
1584年(天正12年)2月19日までに由良国繁・長尾顕長兄弟は北条氏に従わないことを理由に糾明され、この日より母妙印尼を中心に一族家臣含め金山城に籠城するものの、同年春までに開城し、後北条氏に降伏したと考えられている。
1585年(天正13年)5月26日、由良国繁、桐生城に退く。
1587年(天正15年)9月2日、後北条氏、金山城の普請を10月中に終わらせるよう命じる。
1590年(天正18年)5月2日、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、秀吉家臣の前田利家らが金山城を接収。同年7月11日に北条氏照・氏政を自害させた後、8月1日に秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5,435石を与え、城主を失った金山城は廃城となった。
屋敷跡の見学会も盛況 ― 2025年03月07日 13:22
前回「伊奈忠次の講演会が大盛況」という記事を掲載しましたが、その1週間後に開催した関連見学会も、57名という私も過去に経験がないほど参加者数で、これは多少驚きました。伊奈忠次といい、伊奈屋敷といい、さらに備前堤というほとんど観光や研究の対象として地味すぎるテーマに、これほどたくさんの人が関心をもっているのだということに対してですが、さらにいえば中高年齢者の行動意欲が、時、場所とテーマによってまだまだ刺激されるのだということについても認識を新たにしました。
見学会自体は、伊奈忠次が関東での活動拠点とした伊奈陣屋跡地(史跡)を訪れ、その遺構を見学しようというものですが、今回はたまたま屋敷跡の裏門付近に残る「障子掘」が追加発掘中でしたので、埋め戻す前の堀の現物を見ることもできるということが重なったという偶然もありました。
建物などは残されていませんが、当時をしのばせる堀や土塁などが良好な状態で残されており、当時からの神社(頭殿権現社)も現存します。今回は伊奈町の遺跡担当者(生涯学習課)の小杉さん、神田さんに現地で「障子掘遺構」の詳しい説明と屋敷跡全体を歩きながら案内をしていただきました。
以下は埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会のブログに掲載した内容です。
最初に、新幹線が轟音をあげて通り抜ける鉄道高架橋のすぐ脇にある発掘途中の障子堀を見学しました。むき出しの赤土も生々しい発掘現場です。小杉さんの説明によると、この遺跡の障子堀は新幹線建設の時に初めて発見されたようで、この屋敷の地形が沼を控えた要害の地にあることから、岩槻城の枝城的な城として前身の「閼伽井坊」の時代から続く北条氏の築城になる本格的なものであったことを示しているとのこと。発掘された現在の遺構は屋敷跡の北西道路に面していますが、今後さらに奥まで研究をすすめたい意向のようです。
今回、発掘されていた堀も深さが3メートルほどあり、その堀底には、掘った土手を障子の桟状に区画してある様子がはっきり見え、水の入った状態であれば攻撃側の行動は相当困難になると思われます。幅の狭い堀でも十分防御に有効なものだと納得できます。「障子」の意味は形だけでなく、障害物ということのようです。こうした地下の遺構は通常は保存のため埋め戻されますが、今回は特別に見学できました。
続いて屋敷跡の散策でも歩きながら担当者に説明をしていただきました。散策マップ(地図)も用意され、散策路が案内されているので、静かな林や草地の中を楽しんで歩けます。屋敷跡と思われる場所の下に残る高さ数メートルはある空堀の跡や二の丸跡の平地を歩きました。最後に敷地内に残る数少ない建築物である頭権現社前で全員で記念写真を撮りましたが、これは壮観でした。
11時半過ぎ、屋敷跡を後にニューシャトル・丸山駅にもどり、内宿駅へ移動。そこから県民活動センターに向かい、昼食後に簡単な研修会を実施ました(伊奈忠次が開始した関東の河川改修史と友の会の今後の見学会の目的地について)。

会合後、午後2時過ぎ、ほぼ全員で綾瀬川土手を歩き、伊奈忠次が開始した関東の河川改修の歴史の中に登場する「備前堤」に向かいました。荒川の瀬替えにおいては最初に綾瀬川が締め切られていますが、当時は綾瀬川が荒川の幹川だったようです。そこを「備前堤」という堤防で閉め切り当時の荒川と切り離されました。この「備前堤」という名は伊奈備前守忠次に由来します。幅4メートル、高さ約3メートル、長さ約600メートルほどのこの堤(土手)は今でも残ります。この堤の完成によって下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになりましたが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだといいます。このため、出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、備前に堤にされた説明パネル(上・桶川市教育委員会)には、備前堤の効果よりも桶川の被害のことが強調されています。
説明パネルの後ろが「伊奈堤」となっている道路です。
備前堤を見学後、ニューシャトル・内宿駅で解散となりました。
130名を超える講演会! ― 2025年02月24日 16:12
業界団体、環境団体、文化団体─今まで私が属してきた団体の中ではかなり多くの「講演会」「研修会」などを企画・実行してきましたが、あまりメジャーな業種やテーマでなかったこともあって、参加者が100名を超えるようなものはほとんど記憶にありません。ところがこの2月の末に埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会が主催した歴史文化講演会は参加申し込み者が140名を突破して、途中で募集をストップするというはじめての経験をしました(上の写真)。
テーマ自体は『伊奈忠次~現代日本の基礎を作った総代官』ということで、人物については歴史好きの人なら知っていると思いますが、そう有名な、歴史の中の大人物でもなく、講師の和泉清司氏(高崎経済大学名誉教授)もわりと地道な研究者でそれほど世に知られている人でもないと思います(先生、すみません!)。それがこんなに(私の中で)当たった(!)というのに特に思い至る理由もありませんが、属する団体でも、あるいは今回、新聞折り込み誌ということで提携してもらったミニコミの読者も、2019年ころからコロナの影響で減少していた集会や講演がようやく復活しはじめ、冬のインフルエンザもひといき、春の予感の中で出かける気になった人が多かったとしか考えようがありません。
博物館の講堂は160名収容可能とのことなんですが、当日、メモ用ひじ掛けのついた座席がびっしりという状態でした。あまりいっぱいだと気が休まらないというか、疲れてしまうんですが、さいわい、途中1回の休憩を挟んで、1時間40分ほどの講演は無事に終了しほっとしました。
伊奈忠次というのは、江戸時代のはじめ、まだ徳川家康が「天下人」となる前の三河時代の忠臣で、秀吉政権時代から優秀な才能を発揮して頭角を現わし、特に、江戸に移ったあと、家康のもとで筆頭総代官として大変重要な検地や新田開発、水運、河川改修に取り組み、幕府創成期の財政・社会基盤確立に大きな貢献をした人物です。戦乱が終わり、平和な時代になり社会の大きな発展が求められていたこの時期、日本中の国土改革に大きな貢献をしました。関東地方でも、俗にいう利根川東遷、荒川西遷という当時乱流していたの大河川の改修・付け替えはじめ、知行割、寺社政策などその果たした役割は江戸時代を超え、現在日本のインフラをつくったとの評価もあります。現在も関東各地に残る「備前堀」や「備前堤」と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。忠次の子、忠治も代官として後を次ぎ、伊奈氏は2代にわたり役目を果たします。
この時代の「代官頭」ではもうひとり大久保長安がいます。こちらも街道整備などで力を発揮しますが、特に、石見銀材、佐渡金山などの鉱山開発に名を残しています。この大久保長安については2024年11月11日の「ある講演会のきっかけ」という記事をご覧ください。
この大久保長安の講演会の参加者は60名程度だったので、今回も、少し多いくらいかと予想していましたので、これほど多くの参加者に驚いた次第です。伊奈忠次関連では、講演会から5日後に、陣屋跡が残る埼玉県伊奈町の見学会を開催する予定で、これも現在まで60名の参加申し込みがあり、これも驚きの数字なのです。
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