寄居・赤浜の俳諧碑と古文書2026年09月05日 20:43


川越から北へ向かう児玉往還という古い道があります。途中の武蔵嵐山付近までは鎌倉街道となっていますが、そこを過ぎると荒川に出ます。ここには橋がなく古来より船で越える「赤浜の渡し」になります。街道は上州・まで続きますが、この赤浜地区は渡船場という交通の要衝として宿駅が置かれ、この地の文化の中心の地位であったようです。


このため、この地に残された古記録や文化財も多いのですが、特別に有名な場所もなく、(私は)これまでほとんど知らずにいたのですが、昨年の夏ころから(まったく個人的なものですが)この地にかかわる話題を2つ知ることになり、不思議なものだと思っています。


■──壽楽院の俳諧記録──■


そのひとつは壽樂院という、この地にある古寺に関する文化財です。この寺院は荒川のほとりに建ち、上州新田家の家臣岩松家の創設という古い歴史がありますが、江戸時代以降は、聖天院信仰のひとつである荒川歓喜天の中心として多くの参詣客が訪れ、俳諧などの文芸の奉納も盛んだったようです。


私が以前属していたある団体の青木美枝さんという女性会員がこの地の郷土文化人で、この壽樂院に残された句碑や俳額、墓碑などの古記録を時間をかけて解明していたのですが、2024年くらいと思いますが郷土史研究雑誌『埼玉史談』にその結果を発表しました。全解明ではないようですが、今後を考えて公開したのでしょう。団体で一緒だった人が昨年コピーを送ってくれました。


記録は2回連載されています。順に芭蕉句碑、探題箱(仮称)、季題札(仮称)、俳額、連句額、墓石となります。簡単な概要を気記しますが、私は青木さんのように文学者でないのではほとんど感想です。


●芭蕉句碑


最初にいったように、この壽樂院には歓喜天を祭る「聖天堂」があり、江戸から明治にかけて北武蔵一帯の人々が祈願・供養の目的で参拝しました。こうした地域の文化人による俳句額や連句額もかなり奉納されていたようで、芭蕉句碑はこうした地域の文人たちの手で幕末期に建てられたものです。「川上とこの川下や月の友」という、芭蕉が江戸の住居近くの小名木川(隅田川に注ぐ運河)で詠んだ句(続猿蓑)が彫られています。(上の写真と拓本は深谷市のホームぺージより)


句意は青木さんによると「今宵は名月。川上にいる友も、川下にいる自分が今見ている月を、きっと眺めているだろう」というもので、何かにつけて月見を楽しんだ江戸期の文人の荒川を通じた風流の心を感じさせます。


「句碑の文字が立派」と青木さん。「堂々としていて嫋やかで、まるで荒々しい急流の荒川が秩父の山奥から流れ来て寄居の街を通り抜け、ようやく伸び伸びと全身を広げたかのような」というとおりの自由闊達な筆遣いと思います。書家を「掖山巻紀拝書」と判読しています。同じ巻掖山の句碑裏の碑文には句碑を建立した趣旨が述べられています。これも難しい古体文なので、青木さんが示してくれた現代文の文意を載せておきます(一部改変)。


 川上とこの川下や月の友 の芭蕉句碑文章


「荒川は秩父の山から流れ出て、隅田川の上流のことである。岸は険しく、流れは急で、まるで放たれた矢のようだ。武蔵野に流れ来ると、眺望が一気に開け、この地で見る月の眺めは素晴らしい、荒川を巨擘(天下一の川)と呼んでほしいものだ。芭蕉翁が深川で吟じた月の一句に共感すると言って、この地の人々が心を一つにして壽樂院にこの碑を建てたのである。寺の境内の花々、荒川の岸辺に遊ぶホトトギスや千鳥たち、白く輝く秩父の山並み。それら全てが荒川の景色にみごとに調和している。この荒々しい荒川には、戸田から登る鮎や鯉が急流の中で育ち、昔から御上への献上品として知られている。この鮎や鯉のように、荒川の上流下流に住む人たちが、水魚のように友誼として仲良く行き交い、高尚な一路(俳諧・発句の道)を辿って(学んで)いけば、必ず荒川のように立派な物人が出てくるに違いないと信じてこの度、この碑を建てたのである」(最後に「慶應三年八月 東都 行庵酒雄 識」と記されています)


●探題箱(仮称)と季題札(仮称)


俳諧の集まりで季語の選定などに使用したものと思いますが。詳しい使用法は不明とされています。しかし、後年になり、箱の中に季題が書かれた木の札が91枚発見され、青木さんの解読された季題が発表されています。


●俳額・連句額


寺社への額の奉納は各地で行われますが、ここでは、この地方で行われた俳句の会の作品を額に書いて、歓喜天の中心寺である壽楽院に奉納したものでしょう。俳額は縦約75cm、横約240cmのかなり大きなもので、修復されているため判読は比較的明瞭な状態とされています。青木さんは、ここに掲載された俳句と連句を句内容と詠み手、地域を解読して掲載しています。内折々の生活の中でつくられた素朴であたたかい雰囲気が、江戸末期から明治期の地域の雰囲気を現わしているようです。


■──寄居に残る古文書──■


もうひとつは、同じく寄居の赤浜地区に残る古文書を研究・解読して、その結果を自身のWebサイト「寄居の古文書([yorii-komonjyo.org])で発表している内藤正人さんです。内藤さんの場合も所属する会の友人を通じて、その研究成果を知ることができました。内藤さんと私は直接の面識はありませんので、二人とも知人というわけではありませんが、偶然とはいえ、またまったく個人的なことですが、埼玉県北部の赤浜という共通の場所で、ほぼ同じ時期に、地域の文化財発掘に取り組む人がいてそれを知ることができたということに何か偶然の妙みたいな思いをしました。


内藤さんの研究の全容と、こうした作業に取り組むようになった経緯については、上記の寄居の「古文書サイト」本文と関連エッセイで詳しく語られています。発端は「定年を迎え古文書修業の第一歩として、妻の実家の戸籍を頼りに家系図作成を目論んだところ、妻の高祖父が赤浜村(現埼玉県大里郡寄居町赤浜)の名主を務めていたこと」のようで、「(奥さんの高祖父が)名主を務めた慶応4年(1868)・明治5年(1872)の2冊の御用留を複写することができた」のををきっかけに、それから始まったという、古文書初学者の悪戦苦闘は「出会いから公開まで」のページで紹介されています。


現在、同サイトでは「歴史的出来事に関連する御用留を、かいつまんで紹介するのではなく、御用留を記載順のまま全文掲載することで、主観をできるだけ排し、客観性を重視する方針」としているとのことで、 トップページにその趣旨が記されています。


「タイムマシンに乗って、ある時代のある地に降り立てば、その土地の当時の出来事が体験できる。多くの人が一度は空想したことがあると思います」「慶応4(明治元)年と、明治5年の2冊の御用留をはさんで、神仏分離令・江戸を東京と改称・明治と改元・版籍奉還・戸籍法公布・廃藩置県等々、明治政府により社会制度の大きな改革が実行されました」「2冊の御用留を並べることで、明治初頭に庶民の生活がどのように変化していったかを疑似体験してみたい」2025年6月、6年の歳月を経て、ようやく公開することができました。」


どうぞ、このサイトを訪問し、歴史の面白さを感じてください。