槍ヶ岳の岩穴の思い出 ― 2026年08月04日 18:50
連日の灼熱地獄の中で、ときおり、以前に登った北アルプス、槍ヶ岳のことを思い出すことがあります。とはいえ、登頂の感激など良い思い出ばかりではなく、私には頂上小屋を前にした最後の急登の苦しくそして暑かったことが体感的に蘇ってくるのです。目の前には目的の槍の穂先も小屋も見えているのに足元の滑りやすい登山路は厳しく、なにより8月の太陽はこれほどの高地でも容赦してくれません。休みながら一歩ずつの蝸牛のごとき歩みで、同行者に遅れ、あせりますが足が進みません。
そんな中で途中の少し窪んだ岩場の下に小さな洞窟のような場所があり、そこにあるの修行者が登山中に休んだという岩穴だと誰かがいっていました。なかばふざけて、そこに入って陽をよけて休もうとしましたが、かなり狭く、ちょっと無理でした。どうもこの穴は、(あとで調べると)「播隆窟」という知られた場所のようでしたが、その時は知りませんでした。
上の写真がその岩穴で、「山岳/アウトドアライター 高橋 庄太郎氏のブログ(http://yiz00776.cocolog-nifty.com/blog/)」に掲載されています。「播隆窟とよばれ、それなりに歴史的なスポットだけに、入り口付近には金属プレートに説明書きが付けられている」とあります。金属プレートには気が付きませんでしたが、そうでないと、そいいう“いわれ”を聞くことはなかったでしょうから、多分あったのだと思います。
現在、日本アルプスのほとんどの登山道にはいくつもの山小屋があり、登山者はそこで休憩したり泊まったりできますが、江戸期から昭和までこうした設備のない中で、登山者あるいは修行者は山中の岩の窪みで雨風、雷を避け、野宿をしていたようです(播隆窟は小さくてあまり実用的ではないですが)。
明治から大正期に活躍した作家の芥川龍之介は東京府立三中(現・都立両国高校)の3年生だった1909(明治42)年8月、学友5人で案内人を雇って槍ヶ岳に登頂していています。この経験は作品『槍が岳に登った記』や『槍ヶ岳紀行』として発表されています。最近までこのことを知らなかったのですが、深田久弥の『日本百名山』には東大の同窓生で評論家の小林秀雄のことが何回か出てきますし、川端康成も伊豆山を歩いているわけですから、当時の裕福な大学生に流行した趣味であることがわかります。
登山は今やもっともカネのかからない大衆の娯楽になっていますが、当時は今の海外旅行なみだったのかもしれません。高校生の芥川などでも案内人を雇っていますから、時間と費用をかけて浮世を離れた登山などできるのは、当時でもかなり恵まれた家の子弟だけだったと思います。
芥川龍之介の槍ヶ岳登山は横尾から始まりいくつかの山を越えていたようですが、この時に河童橋(上高地)があり、後の小説『河童』はこの橋のたもとの穴から始まります。また、槍ヶ岳登山の途中には赤岩という巨大な岩の下の洞窟状の窪みで休憩したことがでてきます(下の写真)。
この岩屋は、「赤沢岩小屋」と呼ばれる登山の拠点だったようです。これも、高橋庄太郎氏のブログによると、上の写真のような場所です。確かに私がもぐりこんだ「播隆窟」と比べると、数人がキャンプできそうな場所ですが、現在はほとんど立ち寄る人もいないようです。


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