<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:dcterms="http://purl.org/dc/terms/" version="2.0">
  <channel>
    <title>マイロングウォーク</title>
    <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/</link>
    <description/>
    <language>ja</language>
    <generator>mc 0.0</generator>
    <pubDate>Tue, 06 Oct 2026 06:32:04 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>彰義隊と知られざる人物</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/10/05/9880040</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/10/05/9880040</guid>
      <pubDate>Mon, 05 Oct 2026 21:11:42 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-06T06:32:04+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-05T21:12:58+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/10/05/746e61.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1706,960,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/10/05/746e61.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/10/05/746e60.jpg" alt="" title="" width="300" height="168"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
前の記事で触れたWebサイト「寄居の古文書」に関連した研究会をやることになりました。単なる古文解読講座ではなく、ここに公開されている古文書から見えてくる寄居というか北武蔵地区の江戸明治期の歴史について学んでみようという趣旨で考えています。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
詳細はまた触れることがあると思いますが、慶應年間から明治という当時の地域史の中で何といっても大きな出来事は戊辰戦争から明治改元にいたる政変でしょう。内藤氏の古文書記録でも、慶應４年（明治元年）の新政府軍と幕府軍の争いのひとつの頂点である「江戸城開城」を巡る中山道、東海道筋などの東征軍進軍に関するおびただしい命令文書が解読され、当時の関係村々のあわただしい動向がわかります。その詳細は今後学んでいくとして、この「江戸城開城」とその後の新政府軍と幕府の戦いや敗走、解体に関する流れの中で、私の現在住んでいる埼玉県朝霞地区に地縁のある人物が、その舞台の裏でひそかに活躍し、死んでいます。歴史的に無名というわけではありませんが、20年ほど前に一度調べたことを思い出し、記録しておきたいと思います。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
その人物は覚王院義観といい、幕末に上野東叡山（寛永寺）真如院の住職を継いでいましたが、慶応３年（1867年）に輪王寺宮執当職に就き、寛永寺の寺務を統括するとともに、公現法親王から「覚王院」の号を与えられます。輪王寺宮というのは、江戸時代に日光山輪王寺や東叡山寛永寺などの住職を務るために京都から代々派遣される皇族のことです。幕末のこの宮様が最後の輪王寺宮となりますが、明治天皇の義理の叔父（甥）という皇族です。おりから慶応４年には、前年の大政奉還を受けて徳川慶喜は寛永寺で謹慎していました。幕府は薩長との直接交渉も試みていますが、徳川家では家の存続（慶喜の助命）を願って、皇族である輪王寺宮にも助力を頼み、江戸城総攻撃の意思をもって東上していた朝廷側の東征大総督・有栖川宮熾仁親王に面会するなどの行動を行います。この時に、幕府と輪王寺宮の仲介を行い、時に宮の意思を代弁するなどの重要な役割を担うことになったのです。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
義観についてはこうした歴史的な活動は知られていますが、新政府軍・朝廷側からみると幕府の裏の代理人（黒幕）のような存在であり、結果として輪王寺宮は北に逃れて東北・会津戦争まで抵抗することになるため「賊軍」となり、最後は拘束され、囚われの中で死にます。覚悟の餓死だったと伝えられています。その生涯についてはそれなりに知られているようですが、人物の詳細は、出生が武州新座郡根岸村（現在の埼玉県朝霞市根岸台）であることがわかる程度でした。しかし、最近、朝霞出身の経営者である長島進氏が2005年に発行した研究書『覚王院義観の生涯─幕末史の闇と謎』でその一生を綿密に追っています。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
（上の写真は、寛永寺真如院＝omairi.clubサイトより＝。彰義隊の戦いと米太平洋先生の空襲により２度焼失して再建されています。下の写真は朝霞市根岸台の坂と斜面林。いまは住宅街ですが、当時は閑散とした農村ですが、重要文化財の農家が現在まで残るなど豊かな一面もあったようです）&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
　義観は正当に評価されていないのか？&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この長島氏とは15年以上前、経緯は忘れましたが、一、二度電話で話をする機会がありました。朝霞の旧家のひとらしく、義観関連の現子孫とも面識があるようなので、明治維新史で正当に評価されていないことへの不満が本を出す動機だったと思われます。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
覚王院義観は本名を金子劇三（劇蔵とも）といい、10歳で江戸上野寛永寺の大慈院尭覚に師事するというほどの秀才だったようです。この金子家は現存ですが、金子姓の旧家は朝霞に多く、金子坂という名の急坂道が地名に残っています。根岸村は黒目川という川に面しており、当時は純農村地帯ですが、新河岸川を経由して浅草・上野方面にはわりと簡単にいける地域でした。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この義観が時代の流れの中で政治の争いに巻き込まれます。先に述べたように、寛永寺は徳川将軍が代々が帰依する寺院であり、一方、輪王寺宮という皇室との関係も強く、徳川家の存亡危機の中で頼りになる存在でした。薩長を中心とする朝廷軍は徳川幕府を滅亡させ、慶喜は切腹させるという過激な（ある意味では当然な）意見を持つ者も多く、慶應４年、鳥羽伏見の戦いの後、江戸に逃れた慶喜は寛永寺で謹慎状態で、東海道、中山道、北陸道から武装した東征群が進撃してくるという中でした。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この時に、通常の歴史の上では幕臣の勝海舟の命を受けた山岡鉄舟が駿府にいた西郷隆盛と対面して、その意を伝えて了解を得て直後の品川での勝・西郷会談で江戸の無血開城が決まったということになっています。この山岡・西郷の対面は３月17日なのですが、実はまったく同じ日に、輪王寺宮やその対弁者である義観も東征軍総督の有栖川宮熾仁親王や参謀の西郷隆盛と面談して、慶喜の助命は確認されているようなのです。長島氏はこの部分を、内容が掲載された『復古記』（東京大学史料編纂所）所載の「自証院記」より転載して強調しています。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
のちに公開される勝海舟の『慶應四年戊辰日記』などの資料ではこうした義観などの働きは失敗し、その失望から上野での反乱やそれ以降の反朝廷運動に乗り出すということになっています。しかし、事実はそうでない。しかも同じ日に駿府城にいて輪王寺宮などに会った様子もない─長島氏にいわせれば、これが幕末史の「闇と謎」だというわけです。この辺りの真実確認は難しいですが、武力による徳川領土の奪取を目指す岩倉具視らにとっては、上位皇室である輪王寺宮が京に上って直接、慶喜の助命などを要請されるのは余計なことなので、それを阻止するために急遽、山岡鉄舟を動かしたという陰謀も考えられなくもないでしょう。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
その後、義観は江戸にもどりますが、情勢は逼迫しており、義観は寛永寺に立てこもる彰義隊の支えとなり、輪王寺宮とともに５月の上野戦争に突入して、敗走、逃走を重ね、羽越列藩同盟などで戦火を交えますが、８月の会津落城とともに９月には輪王寺宮が新政府・総督府に謝罪し、逃亡は終わります。輪王寺宮とともに義観にも蟄居命令がでます。その後、皇族である輪王寺宮は明治２年には罪を許され、皇族に復帰します。しかし、厳しく責任を問われた義観は宮の行動はすべて自身によるものだとして責を一身に負い獄中で亡くなります。4６歳でした。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
現在の歴史の流れの中で覚王院義観は「幕末の英傑」とはいえない評価をされています。これが不当かどうかは別にして、埼玉（当時は武州）の田舎で生まれた農家の一少年が尊敬される高僧となり、時代の波の中で、自身で望んではいなかったかもしれませんが、幾人かの生命の危機を救い、時代の覇者だった西郷隆盛や勝海舟と渡り合ったという事実を知って、私は誇りに似た気持ちのよさを感じます。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この時代を描いた吉村昭の歴史小説『彰義隊』（2006年）には、戊辰戦争とその後を生き抜いた輪王寺宮を中心にした幾多の人物がいきいきと描かれています。従来あまり触れられることのなかった覚王院義観の活動もかなり詳細に、明治政府の視点ではなく、客観的に書かれています。機会がありましたらお読みください。&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/10/05/746e5e.jpg" length="11188" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>寄居・赤浜の俳諧碑と古文書</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/09/05/9874935</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/09/05/9874935</guid>
      <pubDate>Sat, 05 Sep 2026 20:43:13 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-07T10:56:28+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-05T20:48:57+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;table border='0'&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/09/06/7439e6.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,360,600,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/09/06/7439e6.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/09/06/7439e5.jpg" alt="" title="" width="200" height="330"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;/td&gt;&lt;td&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/09/05/74397a.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1001,1990,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/09/05/74397a.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/09/05/743979.jpg" alt="" title="" width="150" height="252"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&#13;
&lt;br&gt;&#13;
川越から北へ向かう児玉往還という古い道があります。途中の武蔵嵐山付近までは鎌倉街道となっていますが、そこを過ぎると荒川に出ます。ここには橋がなく古来より船で越える「赤浜の渡し」になります。街道は上州・まで続きますが、この赤浜地区は渡船場という交通の要衝として宿駅が置かれ、この地の文化の中心の地位であったようです。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
このため、この地に残された古記録や文化財も多いのですが、特別に有名な場所もなく、（私は）これまでほとんど知らずにいたのですが、昨年の夏ころから(まったく個人的なものですが）この地にかかわる話題を２つ知ることになり、不思議なものだと思っています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
■──壽楽院の俳諧記録──■&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
そのひとつは壽樂院という、この地にある古寺に関する文化財です。この寺院は荒川のほとりに建ち、上州新田家の家臣岩松家の創設という古い歴史がありますが、江戸時代以降は、聖天院信仰のひとつである荒川歓喜天の中心として多くの参詣客が訪れ、俳諧などの文芸の奉納も盛んだったようです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
私が以前属していたある団体の青木美枝さんという女性会員がこの地の郷土文化人で、この壽樂院に残された句碑や俳額、墓碑などの古記録を時間をかけて解明していたのですが、2024年くらいと思いますが郷土史研究雑誌『埼玉史談』にその結果を発表しました。全解明ではないようですが、今後を考えて公開したのでしょう。団体で一緒だった人が昨年コピーを送ってくれました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
記録は２回連載されています。順に芭蕉句碑、探題箱（仮称）、季題札（仮称）、俳額、連句額、墓石となります。簡単な概要を気記しますが、私は青木さんのように文学者でないのではほとんど感想です。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
●芭蕉句碑&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
最初にいったように、この壽樂院には歓喜天を祭る「聖天堂」があり、江戸から明治にかけて北武蔵一帯の人々が祈願・供養の目的で参拝しました。こうした地域の文化人による俳句額や連句額もかなり奉納されていたようで、芭蕉句碑はこうした地域の文人たちの手で幕末期に建てられたものです。「川上とこの川下や月の友」という、芭蕉が江戸の住居近くの小名木川（隅田川に注ぐ運河）で詠んだ句（続猿蓑）が彫られています。(上の写真と拓本は深谷市のホームぺージより)&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
句意は青木さんによると「今宵は名月。川上にいる友も、川下にいる自分が今見ている月を、きっと眺めているだろう」というもので、何かにつけて月見を楽しんだ江戸期の文人の荒川を通じた風流の心を感じさせます。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
「句碑の文字が立派」と青木さん。「堂々としていて嫋やかで、まるで荒々しい急流の荒川が秩父の山奥から流れ来て寄居の街を通り抜け、ようやく伸び伸びと全身を広げたかのような」というとおりの自由闊達な筆遣いと思います。書家を「掖山巻紀拝書」と判読しています。同じ巻掖山の句碑裏の碑文には句碑を建立した趣旨が述べられています。これも難しい古体文なので、青木さんが示してくれた現代文の文意を載せておきます（一部改変）。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
　川上とこの川下や月の友　の芭蕉句碑文章&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
「荒川は秩父の山から流れ出て、隅田川の上流のことである。岸は険しく、流れは急で、まるで放たれた矢のようだ。武蔵野に流れ来ると、眺望が一気に開け、この地で見る月の眺めは素晴らしい、荒川を巨擘（天下一の川）と呼んでほしいものだ。芭蕉翁が深川で吟じた月の一句に共感すると言って、この地の人々が心を一つにして壽樂院にこの碑を建てたのである。寺の境内の花々、荒川の岸辺に遊ぶホトトギスや千鳥たち、白く輝く秩父の山並み。それら全てが荒川の景色にみごとに調和している。この荒々しい荒川には、戸田から登る鮎や鯉が急流の中で育ち、昔から御上への献上品として知られている。この鮎や鯉のように、荒川の上流下流に住む人たちが、水魚のように友誼として仲良く行き交い、高尚な一路（俳諧・発句の道）を辿って（学んで）いけば、必ず荒川のように立派な物人が出てくるに違いないと信じてこの度、この碑を建てたのである」（最後に「慶應三年八月　東都　行庵酒雄　識」と記されています）&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
●探題箱（仮称）と季題札（仮称）&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
俳諧の集まりで季語の選定などに使用したものと思いますが。詳しい使用法は不明とされています。しかし、後年になり、箱の中に季題が書かれた木の札が91枚発見され、青木さんの解読された季題が発表されています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
●俳額・連句額&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
寺社への額の奉納は各地で行われますが、ここでは、この地方で行われた俳句の会の作品を額に書いて、歓喜天の中心寺である壽楽院に奉納したものでしょう。俳額は縦約75cm、横約240cmのかなり大きなもので、修復されているため判読は比較的明瞭な状態とされています。青木さんは、ここに掲載された俳句と連句を句内容と詠み手、地域を解読して掲載しています。内折々の生活の中でつくられた素朴であたたかい雰囲気が、江戸末期から明治期の地域の雰囲気を現わしているようです。&#13;
&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
■──寄居に残る古文書──■&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
もうひとつは、同じく寄居の赤浜地区に残る古文書を研究・解読して、その結果を自身のWebサイト「寄居の古文書（&lt;a href='https://yorii-komonjyo.org/index.php'&gt;[yorii-komonjyo.org]&lt;/a&gt;）で発表している内藤正人さんです。内藤さんの場合も所属する会の友人を通じて、その研究成果を知ることができました。内藤さんと私は直接の面識はありませんので、二人とも知人というわけではありませんが、偶然とはいえ、またまったく個人的なことですが、埼玉県北部の赤浜という共通の場所で、ほぼ同じ時期に、地域の文化財発掘に取り組む人がいてそれを知ることができたということに何か偶然の妙みたいな思いをしました。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
内藤さんの研究の全容と、こうした作業に取り組むようになった経緯については、上記の寄居の「古文書サイト」本文と関連エッセイで詳しく語られています。発端は「定年を迎え古文書修業の第一歩として、妻の実家の戸籍を頼りに家系図作成を目論んだところ、妻の高祖父が赤浜村（現埼玉県大里郡寄居町赤浜）の名主を務めていたこと」のようで、「（奥さんの高祖父が）名主を務めた慶応4年（1868）・明治5年（1872）の2冊の御用留を複写することができた」のををきっかけに、それから始まったという、古文書初学者の悪戦苦闘は「出会いから公開まで」のページで紹介されています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
現在、同サイトでは「歴史的出来事に関連する御用留を、かいつまんで紹介するのではなく、御用留を記載順のまま全文掲載することで、主観をできるだけ排し、客観性を重視する方針」としているとのことで、 トップページにその趣旨が記されています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
「タイムマシンに乗って、ある時代のある地に降り立てば、その土地の当時の出来事が体験できる。多くの人が一度は空想したことがあると思います」「慶応4（明治元）年と、明治5年の2冊の御用留をはさんで、神仏分離令・江戸を東京と改称・明治と改元・版籍奉還・戸籍法公布・廃藩置県等々、明治政府により社会制度の大きな改革が実行されました」「2冊の御用留を並べることで、明治初頭に庶民の生活がどのように変化していったかを疑似体験してみたい」2025年6月、6年の歳月を経て、ようやく公開することができました。」&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
どうぞ、このサイトを訪問し、歴史の面白さを感じてください。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>両国で「バッグ」を紛失</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/08/26/9873096</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/08/26/9873096</guid>
      <pubDate>Wed, 26 Aug 2026 19:28:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-28T07:14:46+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-26T19:29:42+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
東京都墨田区両国にある江戸東京博物館が約４年間の大規模改修をへて今年３月にリニューアル開館しました。この江戸東京博物館を訪れるという見学会がありシルバーデーで65歳以上が無料になる日に、例の友の会見学会で一緒に訪問しました。この博物館は実は少し前に家族でもいっていましたが、内容は何回行ってもそれなりに興味深いので楽しんだのですが、その昼の食事休憩時（前後）に、私の不注意で自分の背負っていたバッグを紛失するということがありました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
身に着けていたバッグを無くすというのはなんとも間抜けなことですが、中にはその日の朝の両国駅での集合時に参加者30人から集めた参加費約9000円も入っていました。あとは本人の小銭入れや事務用品、資料などですが、そうした実害はもちろんのことながら、紛失したことに気が付かなかったという自分の情けなさや注意力の喪失感で実に不快な感じになりました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
細かいことをいっても仕方ありませんが、（蕎麦屋さんでの）昼食の後ににバッグがないことに気づき、すぐにその店と「両国のれん」という駅中の施設に紛失届を出し、さらにおそらく博物館を出る際に置き忘れてきたのではないかということで、一緒にいた見学会の委員の人たち数名と一緒に江戸博にもどり、会場内を探し、ここでも受付に遺失物の届けを提出しました。場合により、店外で発見の可能性もありますので、少し離れた両国交番を探して、ここではかなり詳しい遺失物届を提出し、遺失物番号をもらい「都内で発見されれば連絡されます」との言葉を受けました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ということでその日は、暑い中、数箇所を歩いて付き合ってくれた友人たちに感謝してあとは連絡を待つだけになりました。水曜日でしたが、翌日の木曜日になっても連絡はありませんでした。次の金曜日の午後、「両国のれん」の警備の人から電話がありましたが、「まだ見つかりませんか？」というお尋ねでした。気を使っていただいているようです。そしてさらに１日おいて日曜日の午後、また「両国のれん」から電話があり、今度は「黒いカバンが見つかったようなので、明日にも本所警察に連絡するように」とのことでした。発見時の状況をきくとほぼ間違いなさそうです。そのさい、遺失物ナンバーを教えられました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
翌月曜日の朝、さっそく、指定された本所警察署に電話しました。代表電話で、事件ではなく遺失物の確認だと告げると、会計課というところに転送され、女性の担当の方に「遺失物ナンバー」を伝えると、しばらくして手元にバッグを持ってきたようで、当方の伝える形状・特徴が一致したということで間違いないでしょうとなりました。さっそく、暑くならないうちにと午前中に押上にある本所警察署に出向き、現物を受け取ってきました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
返ってきたバッグは資料などの内容・中身もまったく紛失前と同じで、実害はありませんでした。現金については小銭も含めてすべて外に出され、警察の会計？に入るようで、そのまま同額が別に返金されました。中２日ほどおいて、施設の方からの届け出のようなので、あの日、蕎麦屋さんに入る前にどこかに置き忘れ、そのまま見つからなかったという感じです。思えば、「なくした」と気づいた時、単純に「江戸博に置き忘れた！」と思い込んでしまったのが間違いでした。思い込みを反省しました。「両国江戸のれん」の担当の方、博物館の担当の方、本当に親切でした。皆様ともども感謝です。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
写真は本所警察署付近から見た東京スカイツリーです。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/08/26/742655.jpg" length="13456" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>槍ヶ岳の岩穴の思い出</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/08/04/9869228</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/08/04/9869228</guid>
      <pubDate>Tue, 04 Aug 2026 18:50:23 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-08T06:41:54+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-04T18:51:28+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;/p&gt;&lt;br&gt;&#13;
連日の灼熱地獄の中で、ときおり、以前に登った北アルプス、槍ヶ岳のことを思い出すことがあります。とはいえ、登頂の感激など良い思い出ばかりではなく、私には頂上小屋を前にした最後の急登の苦しくそして暑かったことが体感的に蘇ってくるのです。目の前には目的の槍の穂先も小屋も見えているのに足元の滑りやすい登山路は厳しく、なにより８月の太陽はこれほどの高地でも容赦してくれません。休みながら一歩ずつの蝸牛のごとき歩みで、同行者に遅れ、あせりますが足が進みません。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
そんな中で途中の少し窪んだ岩場の下に小さな洞窟のような場所があり、そこにあるの修行者が登山中に休んだという岩穴だと誰かがいっていました。なかばふざけて、そこに入って陽をよけて休もうとしましたが、かなり狭く、ちょっと無理でした。どうもこの穴は、（あとで調べると）「播隆窟」という知られた場所のようでしたが、その時は知りませんでした。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
上の写真がその岩穴で、「山岳／アウトドアライター 高橋 庄太郎氏のブログ（http://yiz00776.cocolog-nifty.com/blog/）」に掲載されています。「播隆窟とよばれ、それなりに歴史的なスポットだけに、入り口付近には金属プレートに説明書きが付けられている」とあります。金属プレートには気が付きませんでしたが、そうでないと、そいいう“いわれ”を聞くことはなかったでしょうから、多分あったのだと思います。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
現在、日本アルプスのほとんどの登山道にはいくつもの山小屋があり、登山者はそこで休憩したり泊まったりできますが、江戸期から昭和までこうした設備のない中で、登山者あるいは修行者は山中の岩の窪みで雨風、雷を避け、野宿をしていたようです（播隆窟は小さくてあまり実用的ではないですが）。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
明治から大正期に活躍した作家の芥川龍之介は東京府立三中（現・都立両国高校）の３年生だった1909（明治42）年８月、学友５人で案内人を雇って槍ヶ岳に登頂していています。この経験は作品『槍が岳に登った記』や『槍ヶ岳紀行』として発表されています。最近までこのことを知らなかったのですが、深田久弥の『日本百名山』には東大の同窓生で評論家の小林秀雄のことが何回か出てきますし、川端康成も伊豆山を歩いているわけですから、当時の裕福な大学生に流行した趣味であることがわかります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
登山は今やもっともカネのかからない大衆の娯楽になっていますが、当時は今の海外旅行なみだったのかもしれません。高校生の芥川などでも案内人を雇っていますから、時間と費用をかけて浮世を離れた登山などできるのは、当時でもかなり恵まれた家の子弟だけだったと思います。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
芥川龍之介の槍ヶ岳登山は横尾から始まりいくつかの山を越えていたようですが、この時に河童橋（上高地）があり、後の小説『河童』はこの橋のたもとの穴から始まります。また、槍ヶ岳登山の途中には赤岩という巨大な岩の下の洞窟状の窪みで休憩したことがでてきます（下の写真）。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/08/04/73fd5c.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1540,1027,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/08/04/73fd5c.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/08/04/73fd5b.jpg"&#13;
 alt="" title="" width="300" height="200"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この岩屋は、「赤沢岩小屋」と呼ばれる登山の拠点だったようです。これも、高橋庄太郎氏のブログによると、上の写真のような場所です。確かに私がもぐりこんだ「播隆窟」と比べると、数人がキャンプできそうな場所ですが、現在はほとんど立ち寄る人もいないようです。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/08/04/73fd59.jpg" length="13807" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>江戸時代の奉行制度とＡＩ</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/07/14/9865501</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/07/14/9865501</guid>
      <pubDate>Tue, 14 Jul 2026 14:56:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-07T06:00:03+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-07-14T14:57:46+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
また森鷗外からのスタートで失礼します。1915年（大正４年）に発表された『最後の一句』という歴史小説があり、これにも太田蜀山人の随筆『一話一言』という元資料がありますが、タイトルになっている「最後の一句」というのは文中の言葉は鴎外の創作とされています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
あらすじは、元文３年に大阪の船乗り業者桂屋の主人・太郎兵衛が積荷の不正事件で死罪となります。悲嘆にくれるその家族の中で、長女のいち（16歳）をはじめとする５人の幼い子供が「父の代わりに自身と兄弟たちを死罪にしていただきたい」という驚くべき助命の願書を出します。この時の大阪西町奉行佐々又四郎が大阪城代に相談、女房と子供たちを白洲に呼び寄せ、責め道具を並べて圧迫し、一人一人に事情を聞ききますが、いちだけは祖母の話から事情を聞き父の無罪を確信したこと、自身を殺して父を助けてほしいことを理路整然と答えます。なおも、「お前の申立には嘘はあるまいな」と佐々が拷問をほのめかして尋ねても、いちは「間違はございません」と答え、なおも、お前の願いを聞いて父を許せば、お前たちは殺される。父の顔を見なくなるがよいか、との問いに、いちは冷静に「よろしゅうございます」そして「お上の事には間違はございますまいから」と付け加えます。この「お上の事には間違はございますまいから」というのが表題の最後の一句です。願いは聞き届けられ、太郎兵衛は、この時の宮中での桜町天皇大嘗会執行恩赦を名目に死罪を免れます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
小説としては大事なポイントである「お上の事には間違はございますまいから」という言葉ですが、これは鷗外の創作で、この言葉を聞いた奉行などの驚きと警戒の念などの細かい描写には官僚組織から身を引いた当時の鷗外の思いが込められているとされています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ただ、ここで私はこの「最後の一句」に、深入りしません。思うのは、こうした心情に訴えて罪状が軽減されるということが起きたということの意味です。子供たちのこの行動は、戸時代の書物『五孝子伝』などにも「浪速の五孝子」として記録が残るようで事実と思われます。15歳の少女がこうした行動を思いついたわけですから（お上に）こうした嘆願書を出すということは、珍しいことでしょうが、社会的に考えられないことではなかったようで、小説の中にも「目安箱」の制度があるのだからどんな訴えも聞かないということはないのだと奉行が判断する一節があります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
現代の裁判制度の中でも判決に対して心情的な意味で主に刑の軽減を求める嘆願書はあります。この嘆願書は、現状では刑事訴訟法に基づく「情状（量刑を決めるための様々な事情）」を立証するための、数ある証拠の中の一つという位置付けです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ここで出てくるのが「情状」です。量刑を決めるための様々な事情というわけですが、これは個々の裁判での被告の個人的・社会的な事情を裁判官が斟酌して量刑の参考にするということになります。現代の人権意識では親の代わりに自分を斬首してほしいというような歎願が受け入れられることはないでしょうが、子供や恋人の代わりに身代わり自首するようなケースはあるのですから、心情的にはありえます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
大事なのは、こうした人間の情愛・感情を判断・斟酌できるのは情愛・感情を共有できる人間だけだということです。昨今はそれも分からない人もいるようですが、これは別として、こうした究極の判断を「機械」には任せられません。お分かりのようにここにＡＩによる判断の最終基準があるということです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
昨今のウクライナ戦争を報じるメディアの情報によると、戦闘において、人間の兵士の代わりをするロボット兵士（兵器）が実際に登場しているようです。恐ろしいというなかれ、一般市民に無差別殺人やレイプを行う可能性のある人間の兵士より、そうした行為をシステム的に禁止したロボットのほうが安心だという意見もあります。これは自動操縦の自動車の安全装置にもいえそうで、どんな状況でも冷静さを失わない自動運転のほうが事故は少ないという結果もあるそうです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
思わぬ方向に進んでしまいましたが、わかることは、「（もしかしたら悲嘆にくれる母親の心情を察したのかもしれませんが）父の命を救ってほしい」と訴える15歳の少女の一途な気持ちにこたえる心情を持っている奉行が、当時の江戸幕府の官僚制度の中にもいたということです。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/07/14/73d349.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,2560,1440,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/07/14/73d349.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/07/14/73d348.jpg" alt="" title="" width="225" height="126"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&#13;
&lt;P&gt;&#13;
（上）こんなＳＦみたいなものは無いようですが、（下）は本当に計画中のロボット戦闘車のようです。これにＡＩが搭載される日も近いでしょう。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;br&gt;&#13;
 &lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/07/14/73d35a.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,333,500,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/07/14/73d35a.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/07/14/73d359.jpg" alt="" title="" width="112" height="172"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>元箱根の六道地蔵</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/06/18/9860698</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/06/18/9860698</guid>
      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 14:21:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-29T18:46:45+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-18T14:22:14+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
上の写真は「六道地蔵」と呼ばれる箱根の石仏です。巨大な岩に穿った浅い洞窟の中に掘られた仏像いわゆる摩崖仏です。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
小田原と三島の間の箱根路を通る東海道には旧街道が残り、主に江戸時代に造られた石畳道などを随所に残して、そこが「自然歩道」として整備されていることから日本の「旧街道歩き」の精緻のようになっています。しかし、この旧街道ルートは、登山鉄道やロープウェイが通る強羅や塔ノ沢、芦ノ湖観光などの代表的な観光ルートからはずれていますので、意外に通ることが少ないものです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
私も箱根には結構来ていますが、この旧街道ルートを実際に踏破したことはなく、せいぜい観光地である箱根関所跡付近にその雰囲気を感じる程度でした。しかし人生も終盤、心残りのないようにということで、今回は山の会で、地形や道の様子を探りながらの再訪することを考えながらい歩いてきました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
出発は根湯本駅からです。早雲寺までは裏の狭い近道を行きます。この日の朝までかなり雨が降っていたこともあり道は濡れています。畑宿までの２時間弱の緩い登り坂で、途中の新道の並行する旧道の石畳道はけっこう歩きにくいです。それでも当時の旅人には、それ以前の泥道や竹道よりはるかによかったようで、明治に入ってもこの石畳は造られつづけたとのこと。確かにより古い道と思しきあたりでは石の角がすり減っている気がします。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
増水した須雲川や避けて途中の急坂区間をバスで乗り切り、甘酒茶屋まで進み、休憩後、ここからも石畳歩道など旧街道の雰囲気を感じながら芦ノ湖畔の元箱根港に到着です。のどかな雰囲気から一転、観光地の雰囲気です。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この元箱根からも、いわゆる「鎌倉古道」と呼ばれる湯坂道方面に続く旧道が延びています。今回の旧道歩きは当初からこの近くに残る「箱根仏群」に立ち寄るのが大きな目的でした。小涌谷を経て箱根湯本へ帰る路線バスに乗車してすぐの「六道地蔵」バス停で降ります。一面何もない草原が広がり芦ノ湖方面には小さな池が見えます。これが精進池で、ふとみると道のわきに「箱根石仏群」という色褪せたパネルがひっそりと建てられています。以前あったという「石仏館」は終了ということで、今や立ち寄る人もないのかもしれません。無情なようですが、こののさびれた風景は石の地蔵にはふさわしいのかもしれないと私には感じられました。石仏群は旧道をはさんで広がっていて、六道地蔵はすぐ先にある素朴な地下道を通って街道を越えた反対側にあるようです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/06/18/73a328.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1647,927,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/06/18/73a328.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/06/18/73a327.jpg" alt="" title="" width="300" height="168"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/06/18/73a32c.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1108,1477,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/06/18/73a32c.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/06/18/73a32b.jpg" alt="" title="" width="300" height="399"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
狭い広場の先、崖沿いの草に半分隠れるように見えるのが地蔵堂でしょうか。建物に近寄るとお堂の中の暗闇に星の光る白い点が見えます。お堂は浅い洞窟を覆うように建てられていて、中心に六道地蔵が白い岩の台座に座っています。暗い中で、よく見ると岩一面に浮き彫りされていることに気がつきます。これが摩崖仏─岩に刻まれた仏像です。星の光と見えたのは菩薩の額の白毫（びゃくごう）でした。暗さに慣れてきても全体はそう明瞭には見えませんが、白い石に掘られた蓮の花びらに座り、右手に錫杖をもっているのは間違いなく地蔵菩薩です。座像は珍しいかもしれません。大仏とはいえませんが、ひとの倍位の背丈はありそうで、静かな顔がまっすぐこちらを見ています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
私がこのような洞窟の中の仏像を始めてみたのは九州を訪れた40年ほど前のことです。ＪＲ大分駅からバスで30分ほどの距離にあった低い崖の中腹に掘られた洞窟でした。当時はまだ臼杵大仏が国宝指定される前だと思いますが、まして有名遺跡でもないこの場所には訪れる人もなく閑散として、探さなければ場所もわからないほどでした。しかし、外光を浴びてかすかに輝く石仏（廬舎那仏だったと思います）の存在感には息を飲む思いでした。宗教的というより美的芸術として素直に感動したのだと思います。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
その後、旧街道歩きや見学会で多くの野仏、石仏に出会う機会が増えましたが、今回この箱根で出会った「六道地蔵」は、大分の摩崖仏以来のすばらしい経験でした。箱根の六道地蔵は再建されたというお堂に保護されていますが、近くにお寺や施設はありません。また、この箱根石仏群には他にも応長地蔵（火焚地蔵）など、いくつもの貴重な石仏が残り「六道地蔵」と同じ国の重要文化財に指定されているものもありますが、六道地蔵以外はほとんど野ざらしで芦ノ湖畔の旧街道脇にたたずんでいます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この場所は江戸時代以前から東海道が通っていましたが、時に火山性の有毒ガスと思われる現象で旅人が亡くなったそうです。そこで、地獄と呼ばれここが六道（地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上）に分かれる辻だと考えられていたとかで、無名の修行僧がここにあった箱根火山の噴出岩に心を込めて仏像を刻んだのだと思います。精進池という名ものもその名残でしょうか。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この地蔵群を超えると道は東に曲がり、湯坂道とよばれる尾根道をたどって箱根湯本に向かう山道になります。今回の須雲川沿いの道ができる以前のいわゆる「鎌倉古道」です。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/06/18/73a329.jpg" length="17140" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>美しく怖いシャクナゲの花</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/05/28/9857053</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/05/28/9857053</guid>
      <pubDate>Thu, 28 May 2026 18:17:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-28T19:46:39+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-28T18:18:12+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/05/28/737994.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1374,1007,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/737994.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/737993.jpg" alt="" title="" width="300" height="219"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
５月の中旬、伊豆半島の天城山に登ってきました。天城山は伊豆半島最高峰の万三郎岳（1406m）を含む天城連山の総称で、原生林や池が広がり、豊かな自然が残されているので私も観光などでたびたび訪れていますが、登山は初めてです。東伊豆の伊東駅からバスと車で約１時間の「天城高原」地区はゴルフコースが有名ですが、天城山を縦走するハイキングコースも整備されています。有名な場所なので手入れがされていると思ったのですが、万三郎岳、万二郎岳をめぐる周回コースのかなりの部分の登山道がかなり荒れていて、丸太などで設営されていますが、ほとんど歩けないような場所もあります。特に縦走後半の下り部分では、標高差も少なく地図上では平坦に見えるのですが、思わぬ時間がかかってしまいました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
もっとも、これには登山者（私のこと）の高齢化に伴う肉体の限界もあり、致し方ないのかもしれません。文句をいいましたが、今回の登山道はすべて温暖林の豊かな樹々に覆われた樹林で、まさに「涼しい環境と豊かな自然が魅力」といううたい文句通りの山歩きになりました。ただ途中に無数にある林の中の小流や谷川といった水の流れがほとんど枯れていて、岩石の河原を横切るということが多く、今年の冬の水不足を実感しました。また、そのせいで、登山後の２日間、脚の筋肉が痛かったです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&#13;
さて、天城山といえばシャクナゲです。日本中の山に咲くおなじみの花ですが、季節は５月、中高度の岩山という条件にあう今回の天城山系は「アマギシャクナゲ（天城石楠花）」という固有種もあるこの花の本場でもあります。「淡いピンク色の上品で美しい花」となっていますが、どの花も本当にきれいで、濃い緑の森の茂みの中に見え隠れするその姿は立ち止まってしまうほどの美しさです。&#13;
&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&#13;
シャクナゲは常緑性の花木で日本各地に自生していますが、この原種が19世紀中期、プラントハンターによって中国から西欧にもたらされ、その花の美しさと豪華さで当時の人々を驚嘆させ、数多くの交配が行われてきたそうで、今や世界各地で無数の園芸品種が作出されているそうです。ツツジの仲間は日本中の道路や植込みにも植栽されていますから、その花の株数も数限りなくあるわけで、シャクナゲを含めたツツジ属というのはおそらく日本で一番多く植えられている植物だと断言します。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/05/28/73799b.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1108,1477,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/73799b.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/73799a.jpg" alt="" title="" width="300" height="399"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/05/28/737996.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1108,1477,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/737996.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/737995.jpg" alt="" title="" width="300" height="399"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
このシャクナゲは、平地の庭園にも普通に見られますが、標高2000メートル以上のほとんど森林限界というような、しかも岩だらけの場所に生えていて、春には綺麗な花を咲かせます。その理由ですが、その厚い葉には「毛茸」と呼ばれるふわふわとした毛が生えており、これが厳しい山岳環境での強い日差しや乾燥、風から身を守るようです。さらに、なんとその葉や花、蜜などには「グラヤノトキシン」という強い神経毒が含まれいて、誤食すると人間にとっても危険なほどだそうなので、当然シカなどの野生動物の食害からも守られているという、まさに「きれいな花には毒がある」を実践しているわけです。この「きれいであり、シカなどの食害もない」というのが現代日本でもっとも身近な植栽に利用される理由だと思えます。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/28/73799c.jpg" length="31891" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>寒山拾得</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/05/02/9852153</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/05/02/9852153</guid>
      <pubDate>Sat, 02 May 2026 14:22:26 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-02T14:33:40+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-02T14:33:40+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
中学校だったと思いますが、国語の教書に「寒山拾得」という短い話が載っており、その中には２人の子供のような姿のお坊さんが笑いながら佇んでいるような奇妙な挿絵が掲載されていたのを覚えています。この『寒山拾得』というのが森鴎外の小説というのはどこかで聞き及んだ覚えがありますが、改めて全集版の中にこの、短い物語を発見し、『寒山拾得縁起』という、関連というか、同時に、この小品作成の契機となったことを書いたエッセイも読むことができました。&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
寒山拾得というのは、古代中国の寺に残る唐の時代頃の伝説来な僧侶・詩人とのことです。豊干・寒山・拾得の作として多くの漢詩が残っており、実在の人物とする見方もありますが、詳しいことは不明だとのこと。詩とともにいうか、それ以上に有名なのが「寒山拾得図(禅機図断簡)」という、上の図の国立博物館所蔵の「寒山拾得図(禅機図断簡)」で、同館のホームページ掲載のものです。教科書に掲載されていたのもおそらくこの絵でしょう。ここには、特に難しいものはなく、自由で楽し気な生活のイメージだけが残ります。この絵があってこその寒山拾得伝説といえるのではないでしょうか。&#13;
&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
もちろん、鴎外の小説もこの絵の生み出す、２人の子供のような僧侶の陽気で反権威的な生き方にあこがれるような雰囲気をもっています。唐の時代に頭痛に悩む官吏・閭丘胤が豊干禅師に導かれ、文殊菩薩と普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得という二人の奇妙な風狂僧に会う物語です。寒山と拾得の隠遁生活と無の境地、そして「道」への問いかけを描いた作品です。 「唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである」で始まり、閭丘胤という台州の主簿というかなりの高官でありながら実在したのかしなかったのかわからないが、実在しないと話にならないのでいたことにする、というひとを食った設定で始まることでわかるように、鷗外の中では力を抜いた楽しんで書いたと思われる作品ですが、その理由はほぼ同時に書かれた『寒山拾得縁起』というエッセイで明らかになります。&#13;
&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
「縁起」によれば、この寒山拾得については自身の子供に説明を求められて即興的に書いた話だというのです。この『縁起』の最後に、寒山が文殊菩薩の化身というこの意味が２人の子供にわからず、説明のために当時「メッシア」（救世主）と話題になっていた人物のこと例えに語るも、それも子供には通じないので「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」というのが最後のオチみたいになっています。この部分も教科書にあったように記憶しているのですが、確認できません。もちろん、いくら簡単に書いたといっても鴎外の小説ですから、難解な部分や語句が登場します。教科書版はどちらも抄録だったかもしれません。&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この寒山拾得図を鷗外は自宅に飾っていたというますから、この楽しい世界を好んでいたのでしょう。よくいわれるように、鷗外は自身が陸軍のほぼ最高の高級官僚であり、常日頃、役人世界の通俗さを感じていながら、小説など精神の世界ではまったく異なる自由な内面を探求するという、複雑な精神生活を送っていました。しかもその２面性を鷗外は破綻なくこなし、豊かな家庭生活も送りました。この『寒山拾得』に登場して、自由人たる禅僧に対して堅苦しい名乗りを行って、笑われてしまい呆然とする官吏・閭丘胤の姿は、確かに形式ばった官僚への風刺や皮肉というレトリックを感じさせますが、されにそれを超えて、ただただつまらぬ狭い世間を笑い飛ばしてしまう豪快さを感じさせます。&#13;
&#13;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
寒山詩は唐代の隠者文学として、当時の禅僧からよく読まれたそうですが、それは隠者たちのあいだで、現世の価値観の愚劣さを強く批判する考えがあったからで、その点が、鴎外のこの作品の主題を解く鍵になるとされています。&#13;
&lt;p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/05/02/73434e.jpg" length="25260" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>Ｅメールが届かない！</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/04/25/9850773</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/04/25/9850773</guid>
      <pubDate>Sat, 25 Apr 2026 17:05:58 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-07T11:37:26+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-25T17:07:31+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
このブログの見学会の記事でおなじみの団体のお世話をしていますが、会から会員への情報連絡は数年前からホームページに掲載しさらに定期的にＥメールによる通信を組み合わせるというそれなりに現代的な方法に切り替えています。利用しているＬＰというレンタルサーバーにはホームぺージの他に「メールマガジン機能」があり、500人規模の登録のメルマガジンを複数作ることができるので「Web会報」という形で２か月に一度、定期配送しています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ところが、２週間ほど前の４月10日に送信したこの会からの情報が一部の会員に届かないということが起こりました。ややこしいことに無事に届く会員もあり、実は私自身のメールアドレスにも届くものとそうでないものがありました。私の場合、２つのメールアドレスがあり、一方に届いていたので、すぐには気がつかなかったのです。(上の図は私の使用しているメールソフトの受信画面）&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
　●２つのネット会社と４回の情報のやりとり&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
今回の連絡には５月の総会などの案内も含んでいますので少しあわてました（後述のように同じ内容でホームページもありますので致命的ではありませんが）。とりあえず役員を中心の10数人に（通常のメール送信で）着・不着の確認を行いました。その結果わかったことは驚くことに不着つまり届かなかった会員のほうが多かったのです。こういうことはこれまでなかったので、これは送信側の問題だろうと考え、サーバーのメンテナンスに連絡をとることにしました。この会のネットの運用は、先に書いたようにホームページ運用も含めＬＰというレンタルサーバーを使用しています。このサーバーの中の「メールマガジン機能」はわりに簡単な設定で利用でき、これまで特定のアドレスに届かないということはありましたが、ほとんどは不注意によるもので大規模は問題はありませんでした。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ユーザーページの中にサポートの項目がありますので、まずはネットで質問を送信しました。最近はほとんが最初はAIによる自動対応です。メールアドレスの間違いや迷惑フォルダ機能による間違いがないこと、先月まで正常に受信していた多くのユーザーが一斉に不着になったことなどを説明すると、カスタマーサービスに連絡をするようにとの案内が出ました。いよいよここからが人間との話し合いです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
このあと、ＬＰのカスタマーサービスに、このメールマガジンが届かない件について正式に調査をお願いしました。２日後に「配送ログを確認したところ、宛先側のサーバーにて受信が拒否されている状況でした。」との回答がありました。拒否の理由はメールあるいはドメインの形式が不明あるいは無い？ということでしょうか。前回までは届いていたので不思議なんですが、まずは、受信側のサーバーに問い合わせということで私のメールも対象なので、すぐに（送受信に利用している）asahi-netのサポートに問い合わせしてました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
asahi-netのサポートは以前も使用したことがあります。今回は２回やりとりを行い、結果として、当方から送ったＥメールのソースコードを解析してもらい、以下の結果になりました。ほとんど意味はないと思いますが、記録として載せておきます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
　　　＊&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
２か月前に直接届いたメールのヘッダより、システム上の差出人アドレスが&lt;magazine-return-48-pu8n-tki=asahi-net.or.jp@mm.junosaitama.net&gt;だと確認できました。／@前は都度変更になる可能性が高いため、ドメイン「@mm.junosaitama.net」で****の配送記録をお調べしたところ、着信エラーが確認できました。／・エラー内容：Rejected by no getting sender domain records／送信元のレコードが見つからないというエラーで、SPF、DKIM、DMARCなどの設定が不足しているために、セキュリティ上のポリシーで受信拒否されたと考えられます。大変お手数ではございますが、配送元にドメインの設定についてご確認いただけますと幸いです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
　　　＊&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ここで＜jp@mm.junosaitama.net＞というドメイン（発行元のネット上の住所）名が出てきました。これで謎がとけました。これは昨年（2025/03）の更新時に新規継続をしないで中止したドメインです。そのかわりに現在は＜https://junosaitama.main.jp/＞というサブドメインを使用しているのですが、この旧ドメイン名がメールマガジンの初期設定の中に残っていて、送信されるそれぞれのメールのヘッダ情報に書かれていました。そこで、こんどは受信したそれぞれのメールサーバー側がこの情報によりサーバーを調べて、（３月までは存在したが４月には）存在しない─そこで怪しいメールという判定をして「受信拒否」したのではないでしょうか。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
一度中止したドメインがどのくらい残存するのかを調べてみると＜GoogleのAI＞の回答では&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ホームページのドメインが有効期限切れなどで「有効でなくなった」場合、即座に削除されるわけではありませんが、最終的には削除（廃止）されます。ドメインは、有効期限が切れた後、一定の猶予期間を経て、最終的に誰でも取得できる「空きドメイン」の状態になります。 ／ドメインが有効でなくなった場合でも、即座にデータが完全に消滅するのではなく、一定の「猶予期間」を経てから削除される仕組みになっています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
また、その猶予期間については１年間ではないかという&lt;MSのAI&gt;の回答が次の通り&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
結論として、「ドメインが失効してから約1年間は復旧可能な猶予期間が続き、その後に完全に無効化される」という流れは、多くのドメインで一般的な挙動です。／あなたが経験した「ほぼ1年後に無効になってエラーになった」という状況は、典型的なケースに当てはまっています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ただ、ここで最後の疑問が残ります。それでは、ドメインが失効しているのになぜ有効なメールと無効なメールがあるのかということです。これについては、それぞれのメールサーバーの仕様（機能）によるとしか思えません。これが現時点の結論です。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
　●メーリングリストにより送信は再開&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この間の経緯ついては、約10日後に全会員に説明の連絡を出しました。その中で「これまで使用していた「メールマガジン形式」の配送を中止、あらたにメーリングリスト形式のＥメールを送信することになりました。形態は違いますが、会員の皆様はこれまでと変わらず着信した情報をお読みください」としました。メーリングリストもＬＰの機能ですが、登録したメールデータがほぼ同じように使え、かえって運用も柔軟になると思いますので切り替えた次第です。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/04/25/7331c6.jpg" length="27234" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>敵討ちで寺社巡りの謎</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843375</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843375</guid>
      <pubDate>Sat, 21 Mar 2026 14:06:19 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-26T11:47:44+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-03-21T14:07:06+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
われわれは今でも旅行や見学会というと、目的地でなくてもその行程の中にある有名な神社やお寺にお参りします。近くに出かけるときでも、ごみごみとした人出の多い場所や施設を敬遠するようになると、特に理由はなくともその地域の寺社にいくことがあります。現代人にとっては古い歴史や文化財・自然に触れるような思いがするからだと思います。昔のひとはどうだったかというと、江戸時代の名所絵図などを見ても、各所の風景や自然とともに神社仏閣をたずねてあるくということが多かったようです。ただしそこには明らかな時代による目的の違いがあるようです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
現代人は寺社に自然や清らかさ、静寂といった精神的な慰めの要素を求める割合が高いでしょう。しかし江戸以前の人たちにとっての寺社仏閣参りにはもっと切実で直接的な要望・願いがあったのではないでしょうか。例えば寺社の境内で定期的に開かれる縁日などの市場には普段購入できない工具や資材、珍しい食べ物を扱う屋台が並び、現代のデパートや専門店のような役割があったことが想像できます。これは1950年代くらいまで続いていたかもしれません。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
さらに、これは現在ではほぼ「お遊び」の領域になってしまったような「占い・お神籤」や「お守り」の価値が想像以上に高かったことです。病気を直す医学が不十分で、広範なコミュニケーション手段も皆無の時代、不安を解消し、何かを求めるには寺社の神託にすがる以外にありませんでした。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
もうひとつ、現在ではあまり意識されませんが、寺社地というのは人々を引き寄せる特別の空間であったことです。人びとが自分の村や町を離れることは難しく、広範な地域を結ぶ交通機関もありませんでした。寺社以外に人々が日常的に出会う場所はほぼありませんでした。そしてそこは同時に多くの情報が集まる場所でもあり、群れ集う人たちに訪ね、噂話に耳をすませば、現代人がテレビやネットで得るような情報が得られたに違いありません。伊勢参りに集う人たちで農業技術の相談が行われたというのは有名ですが、そのほかの情報も拡散したでしょう。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ひとが情報を求める必要性―そのもっとも切実なのが誘拐された子供や失踪した親兄弟の捜索そして犯罪者被害者による「犯人捜し」でしょう。森鷗外に『護持院原の敵討』という短い歴史小説があります。敵討は「かたきうち」と読み、仇討ち（あだうち）ともいいますが、江戸期には「主君や直接の尊属を殺害した者に対して個人的に復讐を行う日本の制度」とされ、武士には条件により公権力から正式に認めれていた行為です。しかし、この敵討の難しさはなにより目的の敵である人間をどう探し出すかという点にあります。警察力による捜索がない時代、どうのようにして目的の人間を探し出すのか。この小説には敵を探す旅で日本中を放浪するさまが描かれていますが、彼らがよりどころとしたのが各地のこうした神社仏閣でした。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
　　　　＊&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
小説では、姫路城主酒井雅楽頭の江戸上邸の大金奉行、山本三右衛門が侵入した盗賊により殺害され、その息子と姫路にいた三右衛門の弟、賊の人相を知る町人の３人が仇討ちの許可を得て出発します。特にあてはなく、上州方面という噂により、まず高崎に向かいます。本文からその後の捜索を追ってみます。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
結局、高崎（上州）では足跡が知れないので、前橋へ出ます。藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を一宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。松坂を立って、武運を祈るために（伊勢神宮に）参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ（噂をきいた）四国へ渡った。讃岐国丸亀に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山へ祈願に登った。すると参籠人が丸亀で一癖ありげな、他所者の若い僧を見たと云う話をした。が、それは別人であった。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると　舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。長崎行の舟に乗った。長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
周防国宮市に二日いて、室積を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。しかし敵ではなかった。姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。ここで息子の宇平が精神に異常をきたして行方不明になる。宇平を尋ねて歩く際に玉造豊空稲荷の霊験の話を聞き、頼んでみると「敵は春頃から東国の繁華な土地にいる。宇平の事は御託宣が無い」と云った。こう云っている所へ、一行は江戸からの便りを受け取る。「浅草でそれと思しき男の消息がみつかった」というものである。その知らせを受けて急いで江戸にもどり、浅草寺から両国の花火の日に敵を見つけ、助太刀と江戸にいた娘のりよが加わって神田の護持院原（現在の錦町辺り）で仇をうちます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
最初の太刀で切りつけたのが女性（被害者の娘）だったことでこの仇討ちは江戸で有名になり、助太刀をした叔父山本九郎右衛門によって綴られた「山本復讐記」が残っています。森鷗外のこの小説もこの記録をもとにしているとみられます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
お分かりのように、江戸の事件ですが、関東から甲州、信濃、尾張、大阪、山口、四国、九州と全国各地を移動して各地の目付で様子をきいたりしますが、その間に、書いてあるだけでも、三峯権現、身延山、善光寺、一宮、伊勢神宮、象頭山、阿蘇神宮、熊本清正公、大宰府天満宮、安芸国宮島、玉造豊空稲荷その地の有名な寺社に参拝しています。先に言ったように、行楽ではなく人の集まる場所で様子をうかがいまた神託を受けてその後の捜索の参考にしているのです。最後の玉造豊空稲荷のお告げは結果的に的中していたことになりますが、逃亡というのも意外に常識的なものなのかもしれません。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
小説の元になっている実際の事件の起きたのが天保４年（1833年）12月の年末、仇討ちが天保６年７月の夏なので１年半程の意外に短い期間にこれだけの距離を歩いていることになり、江戸末期の交通や通信の発達具合もわかります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
上の絵は歌川豊国の『両国花火図』（江戸東京博物館ホームぺージより）。当時の賑わいがわかります。こうした中で必死で人探しをする者もいたのでしょう。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/03/21/72e3f0.jpg" length="15698" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>柳原通りの柳森神社</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/02/28/9838972</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/02/28/9838972</guid>
      <pubDate>Sat, 28 Feb 2026 12:32:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-03-01T09:29:51+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-02-28T12:37:14+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ＪＲ秋葉原の駅から昭和通りを日本橋方向に向かって歩くとすぐに神田川の流れが見え、そこに架かるのが和泉橋です。以前の職場に近いこともあって、この付近はなじみの場所で、対岸の神田川の道を柳森通りということも知っていました。通りに置かれた地名掲示板に書かれていたからです。江戸の地形や歴史に興味を持つようになってからは、この通りが「江戸名所」だったこともわかって多少は注意していましたが、今回「まち歩き」で江戸城見附を順に回ることになり、最初に「浅草橋門」の跡を通って神田川沿いのこの通りを歩き始めているうちに「柳森神社」というこれも名所の古い神社があることを知りました。和泉橋から隅田川方面にほんの数分戻るだけなんですが、意外に知らない人も多いみたいで都会の中の見えざる文化財の多いことがここでも分かります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この柳森通りは神田川の土手に柳の木を植えたことからはじまっていると思っていましたので、神社は当然その後に置かれたことになります。しかし社伝によれば 「室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建した」ということになっています。すぐ先で隅田川に合流する神田川は江戸幕府の初期に駿河台の丘を開削してここに流れるようになったわけですので、どうも柳の森が先にあり、後になってから神田川堀割の際に現在地に移り、柳の木も堀の土手に移植されたということのようです。さらに時代がたち、徳川綱吉の生母・桂昌院が江戸城内に建立したといわれている福寿神祠が境内に置かれ、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれたとなっています。場所柄からしても日本橋に近く、船で浅草方面に簡単にいけますから、当時かなりの賑わいだったことが偲ばれます。神社のホームページに掲載された江戸名所図絵（下の絵）を見ると確かに柳の植えられた土手から川岸におりた場所に稲荷が鎮座しています。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
今でも、実際におとずれると、参拝する人の列は多くありませんが、絶えませんし、決して忘れられた場所ではないようです。しかし、ほとんどの人が無関心なのは、メインの和泉橋通りからはずれ、しかも神田川の両岸には商業ビルやマンションが隙間なくたちならび、元の土手（通り）から一段低くほとんど見えないこの神社の存在感はあまり感じられません。「神田ふれあい橋」という小さな目印の先にある本当に小さな鉄の橋で川を横断すると、土手越しではありますが、神社の屋根が見えます（上の写真）が、この橋はほとんど目立ちません。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/02/28/72b828.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,306,203,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/02/28/72b828.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/02/28/72b827.jpg" alt="" title="" width="300" height="199"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/02/28/72b817.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1477,1108,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/02/28/72b817.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/02/28/72b816.jpg" alt="" title="" width="300" height="225"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
柳森通り（いわゆる土手）から神社境内を見ると確かに一段下がっているのがよくわかります。境内の一番奥にあるのが稲荷神社です。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/02/28/72b6e6.jpg" length="14182" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>鎌倉の古道「切通し」</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/30/9833805</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/30/9833805</guid>
      <pubDate>Fri, 30 Jan 2026 18:10:26 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-02-03T11:55:50+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-01-30T18:11:51+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
神奈川県の古都・鎌倉はかなり訪れています。。また、「鎌倉アルプス」と呼ばれる丘陵地のハイキングコースも２～3回は歩いています。その中で気になった「やぐら」についてはこのブログに記事を書いたことがありますが、鎌倉の地形の大きな特徴である「切通し道」については語る機会がありませんでした。今回、この切通し道のひとつである「名越の切通し」に行くことができました。連続する３つの溝状の古い道は、時代を経て変化しているとはいえ、中世の素朴な街道の雰囲気をそのままに残し、史跡の名にふさわしい保存状態だと思いました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この切り通し道は、鎌倉の中心部から「平成の巡礼道」と呼ばれる衣張山の山道を越えて、三浦半島・逗子の海に通じる峠にあたります。現在、この下を横須賀線のトンネルが通っていますが、山越えの道に通じる傾斜は今でもかなりの急角度ですから、交通の要衝であると同時に軍事上でもかなり有効な「関所」の役割を果たしたことがわかります。ただ、以前の見学会で通った「朝夷奈切通し」では切り立った崖の中にいくつもの「やぐら」があったように思いますが、ここではあまり見ませんでした。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/30/727fa3.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1477,1108,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/30/727fa3.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/30/727fa2.jpg" alt="" title="" width="300" height="225"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/30/727fa5.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1108,1477,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/30/727fa5.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/30/727fa4.jpg" alt="" title="" width="300" height="399"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
一般に言われるように、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われています。江戸のように開けた場所では、敵の侵入を防ぐのは大河川や人工的な堀割です。平地の乏しい鎌倉では、物資運搬のために山などと切り開いて造った道＝切通がそのまま城壁の役割を果たしたと思われます。この鎌倉の古道のなかでも、「名越切通し」と同様な「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺切通し」「朝夷奈切通」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ主要な要路でした。明治以降は車道として道路拡張が行われましたが、この名越の切通しのように一部の切通しは当時の古道の姿を残しています。歴史の街、鎌倉らしい景色を散策することができる場所として保存されているのは後世の人間にとってありがたいことです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
現在の鎌倉が、「風致保存地区」などの政策で、近代化が進む都市の中にこの切通しなど中世の自然や歴史景観を保存しようとしているのは評価できますが、住宅のすぐ隣に古びた寺院や樹林の中の古道が残されているため、道は狭く、道路の傾斜は急で、住むには大変かもしれません。また、聞くところでは外来種害獣の被害も大きいそうで、この日も住宅地を走るタイワンリスを数回目にし、山上の名刹・早川寺の本堂裏の崖ではアライグマの鳴き声を聞きました。
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/30/727f9f.jpg" length="18677" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>小田原城の「総構」とは</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/29/9833609</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/29/9833609</guid>
      <pubDate>Thu, 29 Jan 2026 13:07:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-02-03T12:05:01+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-01-29T13:10:09+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
年初に神奈川県の箱根と小田原を旅行したのですが、その中の半日、ひとりで小田原西部の丘陵地を歩き、気になっていた「小田原城総構（そうがまえ）」遺構を見学しました。総構とは、いわゆる戦国時代末期の豊臣秀吉の小田原攻めにさいして小田原北条氏がその防御として造成した全長９キロに及ぶという長大な土塁のことで、多くは失われてしまいましたが、西北部にはその痕跡が残り、中には深さ10メートルの巨大な堀切が連続して残っている場所もあります。最近になって小田原市がこの遺構の観光地化を図っているようで、現地に行くときれいな説明パネルも設置されています。まだ観光客は少ないかもしれませんが、この日も私を含めてそこにいた見学者（というより歴史マニア）はその規模の大きさに驚きました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
小田原駅西口からかなり急な坂道を登ると、20分足らずで、のどかなミカン畑の広がるなかこの総構の遺構が次々に現れます。この道は詩人・北原白秋の別邸があったことから「白秋の道」と呼ばれる散歩道ともほぼ重なっています。「稲荷森」（下の写真）と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、「小峯御鐘ノ台大堀切」（上の写真）「山ノ神堀切」などの壮大な堀も現存します。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
北条氏が敗れ、徳川の時代になると、現在も残る小田原駅近くの近世城郭だけが小田原城とされていますが、防御構造としてのこの大構は、江戸城における外堀のように城の一部分をなす重要なものだと思います。戦国時代最後の巨城とされる小田原城ですが、その建設の中で「総構」と呼ばれる壮大な土塁軍が建設されたということになります。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
「天正14年（1586）、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となったことで、決戦に向けて小田原城の普請が進められました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する＜三の丸新堀＞が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
そして、天正16年（1588）、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城（群馬県）を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これがこの総構です」（小田原市公式サイト）。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/29/727dd0.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1477,1108,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/29/727dd0.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/29/727dcf.jpg" alt="" title="" width="300" height="225"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
３ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなくこの総構の存在があったからでしょう。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/29/727dcd.jpg" length="21074" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>都内の古代東海道と古道</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/10/9829647</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2026/01/10/9829647</guid>
      <pubDate>Sat, 10 Jan 2026 17:15:46 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-01-10T17:59:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-01-10T17:19:01+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
１月初めのまち歩きで「隅田川七福神めぐり」の企画を立て、その下見に浅草の対岸にある向島地区を訪れた時のこと。東部伊勢崎線・堀切駅から江戸下町の路地を思わせる道を歩いている途中、正福寺の隣に「首塚地蔵尊」という興味深い場所があることに気がつきました。説明には＜首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」。天保四年（1833年）隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、首塚といったと伝えられています＞という記載があります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/10/7259f1.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,780,596,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f1.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f0.jpg" alt="" title="" width="300" height="229"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
さらに、実はこの地蔵堂のすぐ前を東西に横切る道は「古代東海道」とされ地図に記載されていることもわかりました。はるか古代、律令制の時代にここを通過した古道のコースが残っているのです(上）。ご覧のようになんてことない道で、もちろん、遺跡などはまったくありませんが、ここ隅田川左岸地区は武蔵と下総の国府を結ぶ古代東海道（奥州街道）の道筋で、平安時代から幹線道路が通過し、隅田の渡船場があったのです。伊勢物語の古歌や能曲の梅若山王権現の舞台にもなっています。震災、戦災で大激変した街ですが、道中にあるこの「首塚」は古代東海道筋の近隣でどんな惨劇があったのかは不明ですが、何かロマンの一端を感じさせます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この古東海道については、品川の高輪地区を歩いた時に、江戸時代の海岸沿いの東海道より古い東海道筋が高輪地区を通っていることを知りましたが、最後はこの地を経て下総の国に繋がっていることを再認識しました。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
東山道から東海道へ&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
群馬県（古代は上野国）から埼玉県北部を通って東京・府中まで通じる東山道武蔵道があったことは知られていますが、この東山道は奈良時代になって、都と東国を直接結ぶ東海道（国府経由ルート）に組み込まれます。さらに、８世紀末の宝亀二年（771）、それまで東山道に属していた武蔵国は東海道に属することになったのです（『続日本紀』に載せる太政官奏）&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/10/7259f3.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,887,883,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f3.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f2.jpg" alt="" title="" width="300" height="298"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
この古代東海道は江戸時代の５街道のひとつであり日本橋で終わる東海道とは異なり、相模国の夷参駅（座間市付近）から下総国までの経路でその間に四つの駅であったとされています（上の地図=多摩市史：東山道から東海道へ）。その中の豊島駅と井上駅の間にこの隅田地区があります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
古代の道はこの東海道だけでなく、東山道が失われた後も上野国と武蔵、下総、常陸、相模などの国を結ぶ道がいくつも存在しました。この隅田地区には隅田川の渡し場があり、東西を結ぶ交通の要衝でした。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2026/01/10/7259f5.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1477,1108,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f5.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259f4.jpg" alt="" title="" width="300" height="225"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
古代東海道の近くにも南北方向、東西方向に古道があり、隅田川堤防に沿うこの道もそのひとつとして記録され、説明版が立てられています。現在の堤防には防災機能を備えｒ壁のような高層住宅が連なり、隅田川も見えす、道は一直線に伸びています。付近に残る古道の曲がりくねった路地と対照をなしています。&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2026/01/10/7259fe.jpg" length="15685" type="image/jpeg"/>
    </item>
    <item>
      <title>ＡＩの時代</title>
      <link>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2025/12/24/9825893</link>
      <guid>http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2025/12/24/9825893</guid>
      <pubDate>Wed, 24 Dec 2025 16:49:08 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-12-30T12:11:56+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-12-24T16:52:39+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;br&gt;&#13;
数年前から日本も世界も「ＡＩの時代」になっています。同じような「ＩＴ」という言葉がビジネスやハードウェア視線での（利用技術の）変革だったのに対して、今度は完全にコンピュータの本質の革命という感じがするところがかなり違います。&lt;br&gt;&#13;
&lt;br&gt;&#13;
コンピュータの高度な情報処理機能についていうと、少し前は「人工頭脳」「人工知能」という厳かな日本語の言い方がありましたが、今はＡＩが一般的なようです。このなんでも使えそうな曖昧な呼び方になってからというもの、明けても暮れてもＡＩのことが出ない日はありません。特に2022年頃からChatGPTをはじめとした生成AIというシステムが登場してから、驚くべきスピードで経済、社会、教育、軍事など私たちの生活と仕事に浸透してきているようです。ようです、という曖昧な言い方ですみませんが、私自身の生活には実際にその恩恵も被害もほとんど関係ないからです。確かに何かの調べ物で、ネットの検索時にその片鱗に触れることはあります。それは自然言語で対話しながら、あたかも人間に質問するように操作することができるようになったことへの驚きです。これは以前の「単語の繋がりでの検索を繰り返す」手法にくらべて画期的です。しかも、生成A氏はかなり断定的な言い方というか自信にあふれた口調で結論を出しますので、それが正しいのだと信じてしまいます。事実はそうでないことがあるのは、現実の調査結果が絶対に正しくないのとほぼ同じです。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
それは、その結果をもとにさらに別の視点（情報）を追加して、生成A氏を再追及していくことによってより正解に近づけることは可能かもしれませんが、これが本当に私たちの生活を豊かにするのかどうか、考えている間もなく、コンピュータサイエンスは進んでいくでしょう。何しろ、生成A自身が自ら知識を増やしていく機能（ディープラーニング）をもっているからです。どうも、人間の脳の神経回路を模した多層ニューラルネットワークを用いてデータから自動的に特徴を抽出・学習するのだそうで、人間の思考がそう簡単に模倣できるとは思えませんが、本当に実現すれば途方もない「人工頭脳」ができあがり、しかも日々進化し続けます。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&#13;
&lt;br&gt;&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2025/12/27/723987.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1717,842,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2025/12/27/723987.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2025/12/27/723986.jpg" alt="" title="" width="300" height="147"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&#13;
&lt;div class="msg-pict"&gt;&lt;a href="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/imgview/2025/12/27/723989.jpg.html"&#13;
 target="_blank"&#13;
 onClick="return asablo.expandimage(this,1200,518,'https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2025/12/27/723989.jpg')"&gt;&lt;img src="https://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2025/12/27/723988.jpg" alt="" title="" width="300" height="129"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
ところで、フィクションの世界に目をやると、特にSF小説では、すでにこの「人工頭脳」が大活躍しています。ただし、ほとんどの場合、この、「人工頭脳」はある時、人間の支配をうけなくなり、あろうことか自分を創造した人間を排除しようとさえします。一番有名なのは1968年の叙事詩的SF映画『2001年宇宙の旅』（原題：2001: A Space Odyssey）という映画と小説に出てくる、人工知能「HAL9000」型コンピュータとの闘いではないでしょうか。この作品はSFの巨匠アーサー・クラークの原作（原案）をもとにスタンリー・キューブリックが映画化、さらにその後クラーク自身が小説を書き、いすれも評判を読んだ大作です(上の２つは作品の一画面)。&#13;
&lt;br&gt;&#13;
作品の中では「コンピュータとの闘い」は主要テーマではないと思いますが、全体を通して人間の意識の進化みたいなものが流れていますので、その中では非常に象徴的な役割が感じられます。人工知能「HAL9000」は木星に向かう宇宙船のすべてを管理する役目を追っているのですが、ここで人工知能でよく出てくる「命令されていない思考」あるいは「命令に忠実すぎる思考」を実行しようとして人間の乗員を排除しようとします。そこで船長のデヴィッド・ボーマンはなんとか難を逃れ、逆に「HAL9000」の思考回路を遮断します。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
この映画のテーマ─人間（というか宇宙）の意識の誕生の神秘については、この作品だけでは結論が出ていません。その13年後の『2010年宇宙の旅』（現代：2010 Space Odyssey　Two）で一応の疑問は解消されます。宇宙をただよう永遠の生命元素がある─しかしそれも最初は肉体を持った生物ということなので謎は持ち越されます。そして、もうひとつの謎─「HAL9000」の反逆についての説明はあまり明確でないように思えます。一応の説明は、「HAL9000」には木星に到達後に乗務員に知らされていない作業を実行する命令を与えられており、それが困難になった段階で思考回路に矛盾を生じ暴走を始めたというものです。先の「命令に忠実すぎる思考」ですね。こんなことは当然予想可能と思うのですが、よくある例として、自動運転の車が避けられない事故で歩行者ＡかＢかを選ぶという究極の選択をしなければならない場面で、それを「人工頭脳」がどうするかという問題があります。「人工頭脳」はたとえ数百分の１でも助かる可能性を判断基準にするかもしれない。しかし、それが自分（運転者）と幼い子供との選択だったらどうなるか。そこまで基準をつくるのか。これは先の「HAL9000」の矛盾と同じような哲学的？な問題です。多分、最後は人間の判断はしないということになるんじゃないかと想像します。人間には一時の過ちを後悔して一生苦しむようなことがありますから。多分、ＡＩは後悔しないと思います。&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
&#13;
最近、このAIもそうですが、量子コンピュータや常温核融合、ナノレベル半導体などほとんど理解不可能な科学技術が生産の世界に入ってきました。子供のころのSF小説が実現しそうな勢いなので、なんともそれについていけそうでいけないあるいはついて行きたくないという不思議な気持ちがあります。科学技術の進歩には興奮する一方で、歴史も文化も自然も、できることなら変化しないでほしい。まことに混然とした心の中であります。&#13;
&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
（上の写真は『2010年宇宙の旅』のカバー。右の人物がクラーク。この本（翻訳）の出版は1982年─2010年はもちろん2001年もはるか未来だった。一度は執筆をやめたクラークだがワードプロセッサによって意欲をとりもどしたと後書で述べている）&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br&gt;&#13;
（生成AIは作曲もできます。これはある「YOUTUBE」の中に掲載されている楽曲です。ウクライナの戦局にかかわる番組ですが、その最後に、パロディというか風刺というか、さまざまなジャンル風の曲が流されます。&#13;
[&lt;a href='https://suno.com/@sumaito'&gt;「すまいと/Sumait」&lt;/a&gt;]　）&#13;
&lt;/p&gt;
</description>
      <enclosure url="http://mylongwalk.asablo.jp/blog/img/2025/12/24/723574.jpg" length="5198" type="image/jpeg"/>
    </item>
  </channel>
</rss>
