小田原城の「総構」とは2026年01月29日 13:07


年初に神奈川県の箱根と小田原を旅行したのですが、その中の半日、ひとりで小田原西部の丘陵地を歩き、気になっていた「小田原城総構(そうがまえ)」遺構を見学しました。総構とは、いわゆる戦国時代末期の豊臣秀吉の小田原攻めにさいして小田原北条氏がその防御として造成した全長9キロに及ぶという長大な土塁のことで、多くは失われてしまいましたが、西北部にはその痕跡が残り、中には深さ10メートルの巨大な堀切が連続して残っている場所もあります。最近になって小田原市がこの遺構の観光地化を図っているようで、現地に行くときれいな説明パネルも設置されています。まだ観光客は少ないかもしれませんが、この日も私を含めてそこにいた見学者(というより歴史マニア)はその規模の大きさに驚きました。


小田原駅西口からかなり急な坂道を登ると、20分足らずで、のどかなミカン畑の広がるなかこの総構の遺構が次々に現れます。この道は詩人・北原白秋の別邸があったことから「白秋の道」と呼ばれる散歩道ともほぼ重なっています。「稲荷森」(下の写真)と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、「小峯御鐘ノ台大堀切」(上の写真)「山ノ神堀切」などの壮大な堀も現存します。


北条氏が敗れ、徳川の時代になると、現在も残る小田原駅近くの近世城郭だけが小田原城とされていますが、防御構造としてのこの大構は、江戸城における外堀のように城の一部分をなす重要なものだと思います。戦国時代最後の巨城とされる小田原城ですが、その建設の中で「総構」と呼ばれる壮大な土塁軍が建設されたということになります。


「天正14年(1586)、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となったことで、決戦に向けて小田原城の普請が進められました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する<三の丸新堀>が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。


そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これがこの総構です」(小田原市公式サイト)。



3ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなくこの総構の存在があったからでしょう。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。


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