塩の道─昨年の続きを歩く 1 ― 2025年11月12日 16:50
1日目 信濃大町から木崎湖まで
昨年9月の記事『爺が岳からフォッサマグナへ』と同12月の『フォッサマグナと塩の道』で書いた長野県松本と新潟県糸魚川を結ぶ古道である<千国街道─通称塩の道>の続きということで先日3日間の日程で旅行してきました(実質の歩きは1日半です)。この地方は、もう秋の終わりといいた感じで、町はずれの街道から見える北アルプスの山頂部には新雪が鮮やかで、蒼空の下、前景の山塊の紅葉とあいまって実に美しい景色の中を歩くことができました。これは残り少ない人生の珠玉のひと時でした。
3日間の予定で、最初の日はまず大糸線の「信濃大町駅」に到着。この時点ですでに正午前後になっていましたが、ここから午後いっぱいをかけて、できれば「白馬駅」くらいまで歩きたいという目標です。信濃大町駅のある大町市は<立山黒部アルペンルート>の中継地です。大きなホテルもあり、駅前通りは実に多くの商店が軒を連ねています。しかし、地方都市の典型で、その街中を歩いている人の姿がほとんど見あたりません。また、持参した地図(『塩の道トレイルガイド』)での予測と実際の道路の違いは大きく、最初の「追分道標」からしてなかなか見つかりません。そのほかの目標の神社や道標探しと見学にも時間をとられてなかなか歩みが進みません。それでも徐々に地図の読み方や本来の塩の道を探すのにも慣れてきて、この日の目標のひとつである木崎湖に到着した頃にはだいぶ歩くペースがわかってきました。
追分道標は庚申塔
ここまでの道はほぼ市街地から里山の景観ですが、これから青木湖へ向かうあたりから、街道は、整備された道をはずれて少し山側に入ったり出たりを繰り返していきます。これが本来の旧道だと思います。また、大町の市街を出ると、進行左方面ののアルプス前衛の多分標高1500メートルくらいと思われる山塊が迫り、その山肌が紅葉した樹々に覆われていのでようやく山地に入ったことを感じさせます。3000メートル級の北アルプスの山々はその向こうなので、見えてくるのはまだ少し先のようです。
気が付くのは街道の横の小さな水路とそこに流れる水のきれいでその量の多いこと。山々から流れ出る伏流水があふれ、谷間の川に流れ込んで大渓谷をつくるという地形がよくわかります。このほんの狭い土地に道路があり鉄道が走り、残りのわずかな隙間に人家と田畑が続く─日本中の山間地で見られる景観ですが、日本最大の山脈に沿って南北に百数キロ以上続くこの場所は特別です。
「塩の道」の大部分はこんな感じの道です。
この日の中心は木崎湖、青木湖という山沿いの大きな湖をめぐる古道歩きです。木崎湖のほとりには集落や公園などがあり、釣り場などもあり、山里とはいえ明るい雰囲気です。その湖畔の公園で昼食を食べているときに、サイクリングをしている男性に出会いましたが、白馬に住んでいるそうで優雅な生活のようです。この街道を歩いている人にはこの他にまったく出会いませんでした。
道は、木崎湖の左岸を越えていきます。右に明るい湖、左には迫る急な崖、その間を縫う一本の道となります。それでも閉鎖されてはいますがキャンプ場もあり、なんと古城の跡も見られるなど人里離れた山中という感じではありません。総じてここまでの「塩の道」は一部を除いてすべての地点にかつての賑わいを感じさせる雰囲気が残っているようです。これが山中だけを歩く登山道との違いです。
木崎湖をすぎると、地図でも、旧道は舗装された本道と交差あるいは一部は重複するようなルートになっています。山際ぎりぎりまで湖が迫り、一部はトンネルですが大糸線の線路が通り、さらに車の通る2車線の国道があるのですから、もうここに旧街道の跡を残す余裕がなかったのでしょうか。それでもちょっとした平地には人家があり水田がつくられています。
次が青木湖で、湖畔にはさらに険しい山肌が迫っています。その中のやや高所をくねって通る街道は暗い杉木立のようです。ここからが良い感じの街道歩きなのですが、残念なことに時刻も遅くなってきましたので、ここで一番近い「簗場」という駅から、信濃大町にもどることにしました。正午前後からの歩きでしたからしかたありませんが、白馬駅までいくという目標にはるかにおよびません。しかし、無理するつもりはないので無人駅でしばし休憩です。戻った信濃大町駅で暗い中、マーケットまで買い物に出かけました。宿泊はホテルルートインです。
塩の道─昨年の続きを歩く 2 ― 2025年11月13日 14:53
2日目 木崎湖から白馬まで
朝、7時過ぎの大糸線に乗車して昨日の簗場駅まで移動します。この日は快晴の予報だったのですが、夜明け前から濃い霧が立ち込め、民家の屋根も濡れています。信濃大町駅の待合室で、家族を送りに来たらしい高齢男性に訪ねてみると「いつもこんなもの。寒いから霜がふる。今朝は零下2度だった」ということです。この日の東京ではまだ一桁の気温になっていないはずで、標高700メートルでも長野の山地は違うものです。下旬になると雪が降り出すのでしょう。
簗場の駅に降りても深い霧の中で、GPSを使わないと位置が分からないほどです。中綱湖という小さな湖の近くを歩いているうちにだんだん気温が上昇して霧も薄くなり、湖面から水蒸気のような霧があがり、遠くの湖岸の紅葉した木々も目に入るようになりました。ひと一安心です。あたりに人家も見え始めて、どう間違えたのか、歩いていたこの道は湖岸一周の市道のようです。おかげで働いている集落のひとと出会い、道を聞いたりできましたが、この日あった地元の人のほとんど全員から「クマに気をつけてください」といわれました。クマ被害の報道は私も聞いていましたが、この付近でもかなりひんぱんに「野外放送」されるようです。
霧の中を迷いながら、中綱湖を過ぎ青木湖畔に到着しました。ここでも紅葉している木々の向こうの湖に立ち込める霧(ガス)を眺めながらの湖畔一周です。道は整備されていて快適ですが、途中のキャンプ場にも人影が見えず、湖岸まで迫るけわしい原生林の中はなんとなく不気味です。遠くから人の声が聞こえて、近づくと、山際につくられた公衆トイレのどこかでラジオが鳴っているのでした。気にもしなかったクマの存在が急に身近に感じられます。鈴も持っていますが、ここは大きな声で歌をうたって気分をあげました。道は一部、湖岸に出るルートがあり、釣りにでも来たのでしょうか、地元の人に「塩の道はあっち」と教えてもらいました。
湖の南岸に着いたあたりで、道が湖岸からやや山中に入ります。一帯はかなり太いスギ林になります。ここからが佐野峠とよばれ、古道の雰囲気を色濃く残している場所のようで、歩いていくと、路傍の木の陰に地蔵像がたたずみ、道を少しはずれた藪の中に菩薩菩薩像がまるで埋もれるように置かれています。どうやら観音札所のひとつになっているようで、ここを通った人々の心の有様を現している気がします。街道は古来そのままの道かと思いますが、道幅はかなり広く、牛や馬の隊列が通ったことが偲ばれます。
今ではこうして訪れるのはモノ好きな旅人だけでしょう。付近にはまったく人の気配がなく、山側の斜面林はアルプス前衛の千数百メートルの深い山に直接つながっています。私はのんきなのか、クマの恐怖もすぐに忘れて、実感として、実に気持ちのいい場所だと感じました。こういう経験ができるのもあと何年くらいだろうかと余計なことを考えてしまいます。
しかし、現代の白馬地区は観光の街でもあります。さらに旧道を進んでいくと巨大な構造物に遭遇しました。大糸線のトンネルです。この付近には旧道を残す余地がなかったのか(地図も)線路をまたいで進むようになっています。そこを過ぎると「白馬方面のスキー場」用のリフトも目に留まります。
途中で休憩後、さらに進んだ大糸線の踏切のあたりでちょうど保線工事をやっているらしい、2人連れの高齢の作業員と出会いました。電車は1時間に1本も通らない日本屈指のローカル路線なので作業員もヒマみたいで、すこし会話。ここでもクマの話がでました。
線路をわたって道がやや広い平地のほうに蛇行。そこで振り返ると、ここではじめて白い雪をかぶったアルプスの山々を眺めることができました。感動です。五竜岳から白馬岳までの峰々のようで、ここからはずっと、この山々が遠くに見えていました。近くの民家の方に聞くと雪はほんの数日前に降ったそうで、そういえば最初の日に見た鹿島槍ヶ岳はまだ白雪していなかったので、初雪の微妙な時期だったのかもしれません。旅人の私にはアルプスの白い峯はあこがれを誘いますが、土地の人々には雪の季節の到来でうれしくないのかもしれません。しかし、そこに登山やスキーなどの需要があり、清冽な水の流れがあるわけで、生活の質は簡単にいえません。
道はまた飯森駅付近で大糸線をまたいで山麓にもどり、山村を通り抜けます。飯森神社や十王堂に置かれたたくさんの石仏や庚申塔、道標が目につきます。これらはすべて街道のそこここに置かれてあったものでしょう。こうした多くの石造物がこの街道の特徴だと説明版に記してあります。近世から明治以後のわりと新しい年代表記が多いので、多分、昭和以降つい最近まで「塩の道」が使われてきたことを示しているようです。雪深い冬、一本の道の在りかを示すものはこうした道路の左右に置かれた石仏だったのではないかという想像が浮かびます。松本市の塩の道の出発点に「牛つなぎ石」なるものがありますが、道標だって利用したでしょう。
この付近から大糸線の西側山麓の平地が広く、その先のやや低い山陵、その向こうに雪をいだいた北アルプスの峰々が広がります。広大な大地の展望をゆっくり歩く中、「絶景五竜岳」というガイドブックの文字が目にとまりました。正面に雪をかぶった五竜岳とその北方の峰が一列に見える場所のようです。少し前に渡った橋の上からはさらに北方の白馬連峰も視界に入りました。この辺り白馬の語源となった「代掻き馬(しろかきうま)」の雪形が良く見えた場所のようで、確かに、かなりの豊かな耕地が広がっている地域です。
まもなく白馬の駅に到着。すでに午後2時を過ぎ、2日間の歩行で私の足もだいぶ疲れているようですので、ここで引き返すことにしました。残念ですが、大糸線の便数は極端に少なく、帰りのことを考えると、白馬で休んで戻ったほうがいいと考えたためです。しかし、白馬の駅の近くの店はほとんどが閉まっています。スキー客が来訪する冬まで観光客は少ないでしょう。かろうじて開いていた喫茶店で食事をして時間をつぶし信濃大町まで帰りました。実は、塩の道は、難関である「大峰峠越え」を含めて、ここからが本格的な山道になるのです、次回がもしあれば、今度は春、この駅から出発してみたいと思います。
鐘楼2題 ― 2025年11月24日 18:21
・中世の風格─鑁阿寺
博物館友の会の「バス見学会」で、秋の一日、北関東を訪れ。太田市の山城─金山城と足利氏の足利氏居館(鑁阿寺=ばんなじ)、太田天神山古墳などを見学してきました。私が中心になっての見学会自体がここ数年ありませんでしたので、事前準備がけっこう大変でした。ただし、参加者30名の多くがいつもの「まち歩き」や「街道歩き」の参加者でしたので、あまり気も使わず、和気あいあいという感じでした。
今回、印象に残ったものにひとつが、足利氏館─鑁阿寺の鐘楼でした。本堂は国宝指定の建築物で見学者がほぼ全員訪れますが、すこし離れた場所にひっそりと立っているのが上の写真の鐘楼です。いわゆる鐘つき堂ですね。
「足利氏館」は、この地の豪族・2代足利義兼が12世紀末頃築造した「館」で国指定史跡です。中世豪族の居館のたたずまいを今日に残し、その規模はやや東西に長い不整方形状のおおむね2町四方。周囲に下幅8~10m、上幅2~2.5m、高さ2~3mの土塁と幅4~5mの濠がめぐり、土塁は設けず、見事な橋と門をが置かれています。日本100名城にも選定されています。
本堂は国宝ですが、この鐘楼もそれにおとらぬ重要文化財です。寺の伝承によれば、この鐘楼が建てられたのは、本堂と同じ建久7年(1196)だそうです。その後、再建されていますが、その時期はわかっていません。金網で塞がれているので中は全く見えないのですが、その中央に鐘が吊り下げられ、四方吹放しとなっています。ただし、鐘は江戸時代の天明鋳物の再鋳です。「木鼻(きばな)や斗栱(ときょう)をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物」(解説より)です。写真は、その部分がわかるように明暗を調整しています。
お寺の鐘楼なんてあまりじっくり見学することがありませんが、鑁阿寺のこの鐘楼は見ただけで古風で力強さを感じさせ、いかにも鎌倉時代や中世というものを実感させる建築物です。
・ 山上からの鐘の音─弘法山
その20日ほどあと、今度は地元山の会で神奈川県・秦野市の「弘法山」を訪れ、ここでもその頂上で「鐘楼」に出会いました。ただし、こちらの鐘楼は特に文化財指定などもなくかなり傷んだ様子でしたが、釣られている鐘は堅牢そうでした。いまでもその音を響かせているのではないかとも思われましたが「秦野市のホームページ記事」によると「時刻を知らせる『時の鐘』として、江戸時代から1956年(昭和31)まで秦野周辺地域の人々に親しまれてきた」そうで、今ではそれが鳴ることはないようです。また、1757年(宝暦7)に最初に鋳造されたものの、その後、火災に遭い、現在の鐘は1801年(享和元)に再鋳されたものだそうです。
戦時中、金属品として供出されそうになったところ地元の人々の強い反対で残されたということですから(同記事)この鐘もそれなりの歴史をたどっています。今では、山麓の大用寺に鐘楼門付きの立派な鐘があるようです。山頂から響けば本当に「山のお寺の鐘がなる」でした。
弘法山のあと、反対側に山を下りて参加者みんなで「ミカン狩り」を楽しみました。なんと、この場所は10月終わりにも家族で来た場所でしたが(もちろんその時は登山は無し)ミカン農園は別でした。












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