関東にも巨大古墳あり2025年07月30日 17:22


先の記事に書いたように、この6月に関西(堺市など)に行き「百舌鳥古墳群」と「古市古墳群」という2つの世界遺産の古墳群を見学しました。どちらも日本を代表する古墳群だけあって、どの古墳も歴史があり、しかも大きく立派です。なかでも、最大の仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は全長が約486mもあり、想像の通り本当に小山のように大きいです。次に巨大なのが応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)でこれも425mあります。


どちらも、近づいてもその全貌がすぐには確認できないというサイズです。世界遺産内にはわりとこぶりな古墳もありますが、総じて、関東のそれも私の見聞する範囲にある古墳と比較して大きいようです。ちょっと存在感がありすぎるほどですが、これが街の中のそこここに普通にあるのが信じられない感じがします。


かなり前に、この他の関西の古墳(特に飛鳥地域)も回ったことがあるのですが、その時にも気づいていたことは古墳の廻りの堀(周壕)に水がはってあり、それがかなり広いことです。これは灌漑用の溜め池に使うために広げたようで、古墳群の記事で写真を載せたニホンザイ古墳の堀のように農業用水と接続しているのが普通のようです。


これは関西のこの地域(紀伊半島北部)に大きな河川が少なく、基本的に日照りの時期が多かったためだと思われます。関東の古墳でも少し大きな古墳には周壕がありますが、どうも水は張っていなかったといわれています。関西の古墳のイメージから周壕には水があるという感覚があったようで、埼玉県行田のさきたま古墳群の稲荷山古墳なども以前は水掘で囲まれていましたが、現在は(古墳)作成時の状況に合わせるということで水を抜いています。

話を古墳のサイズに戻すと、この「さきたま古墳群」はいちおう全国的にも有名ですが、金錯銘鉄剣など歴史的価値は別として、古墳の大きさという単純な比較では、関西の世界遺産古墳群にまったくかないません。専門家は別として一般的な歴史マニアが古墳に対して持つ価値観はその大きさと古さです。比べるのも変ですが、埼玉古墳群中最大の二子山古墳でもその全長は132mですから、上記の2大古墳との差は明らかです。一方その成立年代についていうと、関西の古墳には、3世紀中期と推定される明日香の箸墓古墳などがありますので、5~6世紀を中心とする埼玉古墳群とは格が違います。


ただし、サイズだけなら埼玉古墳群からさほど遠くない北関東(群馬県太田市)に東日本最大の「太田天神山古墳」があります。墳丘長は約210mと、さすがに上の2つの古墳とは違いますが、これは3大古墳と呼ばれる(仁徳、応神古墳ともうひとつ履中天皇陵古墳=これも百舌鳥古墳群にあります)があまりに巨大すぎるためで、そのほかは200m台でも充分巨大なのです。


この太田天神山古墳にも周濠が確認されており、全域は364m×288mにもなります。ということでこの太田市の古墳はそれなりに古代史愛好家の中では有名で、わたしも過去に一度訪問したことがあります。その時は小山のようなその本体の一部を眺めたという記憶があるばかりですが、今年の秋に、ここ太田の金山城と渡良瀬川を挟んだ足利市の足利居館などをめぐる見学旅行を企画していまして、その下見ということで先日、現地に行きました。


夏の暑さ、今にも雷雨になりそうな天候の中、太田市郊外の田園地帯にあるこの国史跡の古墳に近づくのですが、近くだと思われる場所に着いても駐車場が見つかりません。太田市のホームページにはその場所が記載され、墳丘への道も示されているのですが、近くの女性に訪ねてようやくわかりました。要するに、付近のどこにもこの古墳への案内や説明パネルがないのです(見つかりにくいのか?)。訪ねた付近の人もあまり関心がないようでした。これは、堺の世界遺産古墳群訪問の記事にも書きましたが、どうもこういう地味な文化財というのは地元に人気がありません。おそらく、訪ねてくるのはちょっとマニアックな人々だけで、地元の経済にも観光にも寄与しないためでしょう。



ようやく、古墳への道を見つけ、墳丘の中央部の下に見える鳥居らしきものが多分入口と見当をつけました。そこに向かい歩きますが、周濠部分と思われる場所は中央に農業用水が流れ、あとは休耕田か耕作放棄地のようで一面雑草に覆われています。鳥居の前に着くとようやく古墳の説明パネルがありました。文字は読めますが、いかにも古びた感じ、地元の文化財を誇るような雰囲気ではありません。鳥居の中央には参道のような細い道が通っていて、その坂を上がると、粗末な社殿ともいえない小屋が立っています。以前の天神様なのでしょうか。ここが前方部のようで、鳥居と垂直の方向に向きを変えると、少し先に後円部と思しき高まりが観察できます。

一般的に、関東の古墳は宮内庁管理ではないので、このように古墳の墳丘に立ち入ることができる場合が多いです。例えば、埼玉古墳群の丸墓山古墳や稲荷山古墳などは昇降用の階段がつくられているほどです。ただし、関東でも、その他の多くの史跡指定された古墳については文化財保護の観点から、(天皇陵古墳との推定がされる仁徳古墳陵などとは違いますが)自由な侵入を許していないことが多いと思います。


それでは、この天神山古墳はどうかというと、じつはまったく保護されていません。それも「管理をしているが、頂上での参拝を認めます」というのではなくて、まったくの放任つまり無管理の状態で、ほぼ町の郊外にある雑木林と同じ扱いです。ただし、案内版には「史跡」と書かれており、大事な文化財であることが感じられるようにはなっていますが、柵やロープがあるわけでもないので、どの箇所からの侵入も可能です。古墳といっても(地上から見れば)現在はただの雑木林に変わっていますから、少し前までは薪炭用林として使用されていたのかもしれません。この地域ではわざわざ自然を求めて訪れる人もなく、最初に述べたように観光の名所としても価値は少ない。要するにほったらかしにされている感じです。


それでも私たちのように古墳になにがしかのロマンを求めて訪ねる人もいるわけです。日本の古代史の謎―ヤマト王権の勢力下の東日本で、すぐ近くの埼玉古墳群の権力者と覇を競ったかもしれない毛の国(上州)の支配者の存在の証です。


上の写真のように(太田市のホームぺージより)、上空から見ると、巨大で立派な前方後円墳であることがわかります。この古墳は男体山ともよばれ、近くには女体山古墳もあります(右上に見えている)。荒れ地の周壕に水をため、墳丘部の樹木を少し整備すれば、太田市自慢の景観になると思います。目の前にぞびえる太田金山城との観光セットをお勧めします。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2025/07/30/9792677/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。