東浦和に残る古道2025年04月22日 17:50


さいたま市緑区と聞いても場所のイメージがわきません。埼玉県南部の3つの市が合併して「さいたま市」が誕生してから25年たちましたが、旧大宮に育った身としてはいまだに与野とか浦和という言葉がどこかについていない地名に接すると?となります。地元の人は一応「町」の名前が住所表記の一部に残りますから見当が付くのでしょうけれども、少し離れるとわからず、しかも新しい行政単位である「区」がこれまたなじめません。北とか西とか桜とか、どういう考えで他の政令区市と同じ言葉を採用したのかさっぱりわかりません。話を戻して「さいたま市緑区」ですが、方角でもなく歴史的地名に関連したものでもなく、いわゆる旧浦和地区の東部に属しますから「東区」でもよかったんでしょうが、何か意味をもたせたかったようで、そういえばここは自然豊かで緑が多いということで名付けられたんじゃないかと推察します。私の子供時代の意識では「浦和の僻地」であり、野田のサギ山が有名でした。中学生の頃、浦和で最後の電灯がひかれた家があるという話があり、本当ならまさにこの地域だったのでしょう。


そこでこの地域の主要なJR駅名である「東浦和」と聞くと、やっと位置関係がはっきりしてきます。この路線が開通する前、おそらく見沼田んぼを見下ろす高台の上は、畑や雑木林に囲まれて大きな農家が点在するという風景だったと思われますが、現在はかなりの高級感の漂う住宅街で、ここから10キロほど西にいった浦和駅沿いの雑然とした街並みとはかなり景観が違います。小さな公園や下町風の商店街は見当たりません。


新しく造られた街の感じですが、石仏研究者によるとこの中でも中尾、尾間木地区などは天台宗別格本山の吉祥寺や本山修験派の中心寺院であった玉林院などがあり、修験者の行き交う地域だったようです。本山修験宗とは、修験道の一派で、総本山が聖護院門跡(京都)に置かれています。天台宗寺門派から独立し、昭和21年に「修験宗」として設立、後に「本山修験宗」に名称変更されています。ただ、この地の玉林院は明治の神仏分離令で廃寺となったままです。


この地を歩く機会があり、同行の碩学者からこんな話をきき、少しの感慨をもちましたが、確かに新しい街の随所に古い寺院や墓が残り、その中に幾多の石仏や石碑が草木の中にうずもれて忘れられたように残されています。特に、玉林院墓地跡にあった地蔵菩薩石仏は延宝3年(1675年)と古いだけでなく彫刻の美しさも実にすばらしいものでした。



この場所も含みますが、大谷口地区の玉林寺末寺の信成院からその墓地跡の石仏群に続き、さらに第2産業道路に沿って低い段丘の上を通っている細い道は、道標の役割をはたしたと思われる庚申塔が斜面林の中に傾いてたたずみ、古道の雰囲気を残しています。


上の写真がそれですが、下はこの道が産業道路に合流する場所です。この区間は西の中山道と東の日光街道を結ぶ箇所にあります。日光は修験の聖地ですから、そこを目指す修験者がここを通ったと思われます。



そしてそこから産業道路尾を越えた広ケ谷戸の路傍には、これも古く(寛文4年=1664年)市の指定文化財になっている庚申塔が残されています。童子、鶏、邪気、猿を配した非常に装飾性の髙いもので、庚申塔が指定文化財になるのはなかなかありません。浦和市のままの表示ですが、早くさいたま市に変更してほしいものです。


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