屋敷跡の見学会も盛況2025年03月07日 13:22


前回「伊奈忠次の講演会が大盛況」という記事を掲載しましたが、その1週間後に開催した関連見学会も、57名という私も過去に経験がないほど参加者数で、これは多少驚きました。伊奈忠次といい、伊奈屋敷といい、さらに備前堤というほとんど観光や研究の対象として地味すぎるテーマに、これほどたくさんの人が関心をもっているのだということに対してですが、さらにいえば中高年齢者の行動意欲が、時、場所とテーマによってまだまだ刺激されるのだということについても認識を新たにしました。


見学会自体は、伊奈忠次が関東での活動拠点とした伊奈陣屋跡地(史跡)を訪れ、その遺構を見学しようというものですが、今回はたまたま屋敷跡の裏門付近に残る「障子掘」が追加発掘中でしたので、埋め戻す前の堀の現物を見ることもできるということが重なったという偶然もありました。


建物などは残されていませんが、当時をしのばせる堀や土塁などが良好な状態で残されており、当時からの神社(頭殿権現社)も現存します。今回は伊奈町の遺跡担当者(生涯学習課)の小杉さん、神田さんに現地で「障子掘遺構」の詳しい説明と屋敷跡全体を歩きながら案内をしていただきました。


以下は埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会のブログに掲載した内容です。


最初に、新幹線が轟音をあげて通り抜ける鉄道高架橋のすぐ脇にある発掘途中の障子堀を見学しました。むき出しの赤土も生々しい発掘現場です。小杉さんの説明によると、この遺跡の障子堀は新幹線建設の時に初めて発見されたようで、この屋敷の地形が沼を控えた要害の地にあることから、岩槻城の枝城的な城として前身の「閼伽井坊」の時代から続く北条氏の築城になる本格的なものであったことを示しているとのこと。発掘された現在の遺構は屋敷跡の北西道路に面していますが、今後さらに奥まで研究をすすめたい意向のようです。


今回、発掘されていた堀も深さが3メートルほどあり、その堀底には、掘った土手を障子の桟状に区画してある様子がはっきり見え、水の入った状態であれば攻撃側の行動は相当困難になると思われます。幅の狭い堀でも十分防御に有効なものだと納得できます。「障子」の意味は形だけでなく、障害物ということのようです。こうした地下の遺構は通常は保存のため埋め戻されますが、今回は特別に見学できました。


続いて屋敷跡の散策でも歩きながら担当者に説明をしていただきました。散策マップ(地図)も用意され、散策路が案内されているので、静かな林や草地の中を楽しんで歩けます。屋敷跡と思われる場所の下に残る高さ数メートルはある空堀の跡や二の丸跡の平地を歩きました。最後に敷地内に残る数少ない建築物である頭権現社前で全員で記念写真を撮りましたが、これは壮観でした。


11時半過ぎ、屋敷跡を後にニューシャトル・丸山駅にもどり、内宿駅へ移動。そこから県民活動センターに向かい、昼食後に簡単な研修会を実施ました(伊奈忠次が開始した関東の河川改修史と友の会の今後の見学会の目的地について)。



会合後、午後2時過ぎ、ほぼ全員で綾瀬川土手を歩き、伊奈忠次が開始した関東の河川改修の歴史の中に登場する「備前堤」に向かいました。荒川の瀬替えにおいては最初に綾瀬川が締め切られていますが、当時は綾瀬川が荒川の幹川だったようです。そこを「備前堤」という堤防で閉め切り当時の荒川と切り離されました。この「備前堤」という名は伊奈備前守忠次に由来します。幅4メートル、高さ約3メートル、長さ約600メートルほどのこの堤(土手)は今でも残ります。この堤の完成によって下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになりましたが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだといいます。このため、出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、備前に堤にされた説明パネル(上・桶川市教育委員会)には、備前堤の効果よりも桶川の被害のことが強調されています。


説明パネルの後ろが「伊奈堤」となっている道路です。


備前堤を見学後、ニューシャトル・内宿駅で解散となりました。

太田・金山城とは2025年03月24日 15:37


群馬県太田市は国産自動車大手スバルの本社工場がある場所として知られていますが、そのスバルの工場のすぐ北側では平地が終わり、いくつもの丘陵が連なっているのがわかります。これが足尾山地で日光山地に繋がる関東北部の大山塊が始まります。この太田の地と渡良瀬川を挟んで隣接する足利は、ご存じのように、足利尊氏や新田義貞など鎌倉末期から室町時代までの中世の激動期に、動乱の主人公を生み出した地域になります。


現在では、なぜこの北関東の地で歴史の転換点となるような人物が現れたとも思われるかもしれませんが、古代から中世まで、日本の政治権力の中心だった京都大阪といった先進地域から武蔵の国やさらにその北の国々に向かう主要道である東山道がこの地を通り、ここで南に進んで武蔵国府や相模鎌倉へと向かう南道が分岐していたのです。この道筋は後世まで「鎌倉街道」として残ります。


当時の海岸と湿地帯の続く関東に向かうには、北から南に向かうこの経路のほうが最適だったのでしょう。中世になってもこの地の重要性は変わらず、中世、戦国期から江戸時代初期までここに有力な勢力が地位を占め、いくつもの城郭を建設しました。


そのひとつとして今に残っっているのが、ここ太田市の「太田金山城(あるいは新田金山城)」です。平野から盛り上がる標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った実に堅牢な戦国時代の山城です。関東の城の多くには「石垣」はほとんどないとされており、多くが土塁で守られています。しかし、この金山城の発掘調査で、こうした城郭史の定説が覆されました。奇跡の城なんです。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所で、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られています。かなり壮大な規模です。


城全体は、平成4年(1992年)からの史跡環境整備事業に伴い、発掘調査が始まり、石垣を多用した山城の姿である最盛期の石組みや施設が復元されていますので、曲輪や虎口がしっかりと組まれた石組みで守られていた様子がよく分かります。本廓付近の井戸や2つの大きな丸い池も残っており、本格的な籠城戦にも耐えうる城であることも見て取れます。樹齢800年という大ケヤキもあります。



城の歴史は以下が記録に残っています(Wikipediaより)。

1469年(応仁3年)8月には新田一族であった岩松家純が五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入る。
1528年(享禄元年)頃に横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺し、実権を握る。
1565年(永禄8年)7月15日頃、横瀬成繁が由良に改姓。
1574年(天正2年)9月21日頃、由良成繁が上杉謙信の軍と金山城にて戦う。
1580年(天正8年)9月20日、武田勝頼が新田・館林地域を攻撃。
1584年(天正12年)2月19日までに由良国繁・長尾顕長兄弟は北条氏に従わないことを理由に糾明され、この日より母妙印尼を中心に一族家臣含め金山城に籠城するものの、同年春までに開城し、後北条氏に降伏したと考えられている。
1585年(天正13年)5月26日、由良国繁、桐生城に退く。
1587年(天正15年)9月2日、後北条氏、金山城の普請を10月中に終わらせるよう命じる。
1590年(天正18年)5月2日、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、秀吉家臣の前田利家らが金山城を接収。同年7月11日に北条氏照・氏政を自害させた後、8月1日に秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5,435石を与え、城主を失った金山城は廃城となった。

心霊スポット? 小崎沼2025年03月31日 17:01


何回か前の記事「埼玉の津」と「万葉灯籠」で、埼玉県行田市にある小埼沼のことについて書きました。さきたま古墳群近くにあり、今や消えようとしている「小埼沼神社」の中にある小さな池のことです。この3月末に行ったま「ち歩き」の最後に、有志の数人とともにこの小埼沼神社と小崎沼に行くことができました。


前玉神社からはけっこう歩きます。歩いている場所の遠くに行田タワーがそびえるこの地は、埼玉県名発祥の地「埼玉(さきたま)」です。


関東平野の真ん中─見渡す限り平坦な畑作地帯ですが、現在はけっこう住宅が広がり、車の往来は盛んです。目指す小崎沼神社はそんな風景の中に残された小さな林の中の雑木と竹が生い茂る荒れ果てた祠でした。




石造りの鳥居には枯れ木と枝がかかって半分見えません。ほとんど人が立ち入らないようで、社殿は傾き、無残というしかありません。そういえば付近の道路の標識も「埼玉県指定旧跡 小崎沼」とだけ記されていましたから、神社としては廃止されたものと思われます。「心霊スポット」とされた様子もなんとなくわかります。


それでも、同じ敷地内にある「小崎沼」のほうは手入れがされているようで雑草もそうひどくなく、池も、水はありませんでしたが、底の白い石が見えるほど綺麗な感じです。


そして、万葉歌碑のほうには新しく見える花も添えられていて、この旧跡を守る人がいることが感じられて安心しました。石碑はまるで墓石のように立っていますが、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られているはずです。


碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようです。(行田市・文化財の概要による)。


近くには行田市で一番古いという「盛徳寺」があり、庚申塔など付近の石造物がたくさん収められていました。しかし、目の前を通る2車線の道路が狭く、危険でほとんど歩道を歩くことができません。通る人の姿も少なく、いまや埼玉の地も安心できるのどかな場所ではないようです。