太田・金山城とは2025年03月24日 15:37


群馬県太田市は国産自動車大手スバルの本社工場がある場所として知られていますが、そのスバルの工場のすぐ北側では平地が終わり、いくつもの丘陵が連なっているのがわかります。これが足尾山地で日光山地に繋がる関東北部の大山塊が始まります。この太田の地と渡良瀬川を挟んで隣接する足利は、ご存じのように、足利尊氏や新田義貞など鎌倉末期から室町時代までの中世の激動期に、動乱の主人公を生み出した地域になります。


現在では、なぜこの北関東の地で歴史の転換点となるような人物が現れたとも思われるかもしれませんが、古代から中世まで、日本の政治権力の中心だった京都大阪といった先進地域から武蔵の国やさらにその北の国々に向かう主要道である東山道がこの地を通り、ここで南に進んで武蔵国府や相模鎌倉へと向かう南道が分岐していたのです。この道筋は後世まで「鎌倉街道」として残ります。


当時の海岸と湿地帯の続く関東に向かうには、北から南に向かうこの経路のほうが最適だったのでしょう。中世になってもこの地の重要性は変わらず、中世、戦国期から江戸時代初期までここに有力な勢力が地位を占め、いくつもの城郭を建設しました。


そのひとつとして今に残っっているのが、ここ太田市の「太田金山城(あるいは新田金山城)」です。平野から盛り上がる標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った実に堅牢な戦国時代の山城です。関東の城の多くには「石垣」はほとんどないとされており、多くが土塁で守られています。しかし、この金山城の発掘調査で、こうした城郭史の定説が覆されました。奇跡の城なんです。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所で、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られています。かなり壮大な規模です。


城全体は、平成4年(1992年)からの史跡環境整備事業に伴い、発掘調査が始まり、石垣を多用した山城の姿である最盛期の石組みや施設が復元されていますので、曲輪や虎口がしっかりと組まれた石組みで守られていた様子がよく分かります。本廓付近の井戸や2つの大きな丸い池も残っており、本格的な籠城戦にも耐えうる城であることも見て取れます。樹齢800年という大ケヤキもあります。



城の歴史は以下が記録に残っています(Wikipediaより)。

1469年(応仁3年)8月には新田一族であった岩松家純が五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入る。
1528年(享禄元年)頃に横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺し、実権を握る。
1565年(永禄8年)7月15日頃、横瀬成繁が由良に改姓。
1574年(天正2年)9月21日頃、由良成繁が上杉謙信の軍と金山城にて戦う。
1580年(天正8年)9月20日、武田勝頼が新田・館林地域を攻撃。
1584年(天正12年)2月19日までに由良国繁・長尾顕長兄弟は北条氏に従わないことを理由に糾明され、この日より母妙印尼を中心に一族家臣含め金山城に籠城するものの、同年春までに開城し、後北条氏に降伏したと考えられている。
1585年(天正13年)5月26日、由良国繁、桐生城に退く。
1587年(天正15年)9月2日、後北条氏、金山城の普請を10月中に終わらせるよう命じる。
1590年(天正18年)5月2日、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、秀吉家臣の前田利家らが金山城を接収。同年7月11日に北条氏照・氏政を自害させた後、8月1日に秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5,435石を与え、城主を失った金山城は廃城となった。

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