『フォッサマグナと塩の道』2024年12月15日 09:36


埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会の会報178号(2024/12/10)に、先日の糸魚川でのフォッサマグナパークと塩の道訪問の時の体験などをもとにした記事を掲載しました。



最近、「南海トラフ巨大地震注意報」が話題になりましたが、この南海トラフとは、日本列島上の2つのプレートの衝突によって西は九州、東は静岡県付近まで続いている壮大な海溝のことであるのは知られています。この「南海トラフ海溝」は静岡付近でもうひとつの北米プレートと衝突しているのですが、さらに地形的には駿河湾西部にいたり、そのまま日本列島を直線に縦断して新潟県まで北上して、陸の上でも巨大な溝状の断層地帯を形成しいます。この断層帯のすぐ西には並行する形で南北に日本アルプスの高峰が連なっていて非常に特徴的ですが、これが糸魚川静岡構造線とよばれる大地形「フォッサマグナ」です。このフォッサマグナですが、これを発見して世界に認識させたのは、明治初期に日本に招聘されたドイツの学者、エドムント・ナウマンです。滞在わずか10年の間に日本中を歩き、ほぼ完全な日本列島の「地質構造図」を完成させてもいます。しかし、この偉大な人物とその生涯は、日本国内はもちろん、ヨーロッパでも広くは知られていませんでした。こうした現状をひそかに嘆いていた一人の女性地質学者が最近(2019年)世に出したのが『地質学者ナウマン伝―フォッサマグナに挑んだお雇い外国人』です。著者の矢島道子さんは東大理学部出身の古生物学研究者ですが、この本の序文には「これを読んで天国であなたが微笑んでいただければ、これまでの文献解読や調査旅行の苦労も報われるというものです」というラブレターみたいな情緒あふれる文章が散在しています。


地形好きの私は、ここ数年、夏になると立山・黒部さらに糸魚川と、この大地形の姿を見たいと歩き回りましたが、今年は(多分)最後のアルプスということで後立山連峰の爺が岳になんとか登山の後、この断層面が実際に確認できるという糸魚川のフォッサマグナパークに行くことができました。パークといっても、大断層沿いに流れる姫川の支流、根知川が削りとった段丘の一角が保護してあり、歩いてそこまで行けるようにしてあるだけですが、説明用パネルはいくつか設置されています。 注目のヨーロッパプレートと北米プレートの境界とされる地点の露頭は、保存のため回りの岩石がボルトで固定された異様な空間になっています。崖の中腹から近くに歩いていけそうですが、現在は立ち入り禁止になっています。写真のように断層の中央部の左右の岩石の色が違うのがわかります。左つまり西側が3~4億年前の古生代の岩石、東側が1600万年前の新生代の岩石だそうです。こういうはっきりとした境界は破砕帯ですから、これが地上に露出する場所は非常に珍しいのだそうです。近い将来の地震も予測・警戒されていますが、本当に謎の多い巨大断層帯です。


  物資と文化を伝えた古道─大断層帯は今や地域の観光資源に



フォッサマグナ断層帯は糸魚川から太平洋岸の静岡まで続いて日本列島を2つに区分しています。これは純粋に地形現象なのですが、このラインの東西では食習慣など文化や風俗習慣まで違うという面白い説があります。地形が人間の生活に与える影響かもしれません。さて、関連があるのかどうか、この場所(根知川の谷)のほんの少し先にひとつの古道が、この断層に沿うように南北に走っています。糸魚川から最終地の信州・松本まで、明治以前の生活物資と文化の伝播に使用された交易路で、千国街道、通称「塩の道」と呼ばれます。海岸と内陸部を結ぶ塩の道は日本各地に残りますが、ここは途中に関所もある重要な街道でした。とはいえ、この付近の陸路は険峻な山々と急流に挟まれ、山々の間を縫うように延々伸びていますので、そうでなくても楽ではない上に、日本有数の豪雪地帯ですから、重い背負子を担いで実際の運搬にあたった歩荷(ボッカ)と呼ばれる人足集団の数頭の牛を追いながら歩く苦労は大変だったでしょう。明治に入り国道が整備され、馬による輸送さらに自動車、鉄道による輸送が可能になるに従い使用頻度は減りますが、現在でも、先日の能登半島地震の際には緊急道路の指定がされています。


この素朴な街道の各所に残る石仏や休憩小屋・泊込小屋でその実態を偲ぶことができますが、沿線自治体ではこの「塩の道」の観光資源としての価値を評価し、全区間を整備、歩いてまわれる「ロングトレイル」と位置づけ、案内パンフや詳細な地図を作製しています。日本アルプスの景観を見ながらフォッサマグナに沿って進むというこの地の魅力は大きいと思います。夏の暑さの残る時期だったので、今年は少ししか歩けませんでした。来春の再挑戦を予定しています。


この記事では、20249/16でも掲載した「フォッサマグナパーク」(上の写真)と長野県小谷村の公式サイトから転載の街道の風景(下の写真)を掲載しました)


富士山の樹海と碓氷峠2024年12月30日 13:20


11月の終わりと12月中旬の山歩きで「碓氷峠の旧中山道」と「青木ヶ原樹海」に行きました。ともに偶然みたいな機会ですが、どちらももっと時間をかけていってみたい場所でしたので、とりあえずの記録をつくっておきます。


旧中山道はかなり広い


碓氷峠の旧信越線跡に残るトンネルや橋梁(通称メガネ橋など)は一度行ったことがありますが、その時には旧中山道の山路はほとんど歩いていないので、今回、旧軽井沢から熊野大神宮・松井田峠を通って歩く旧中山道は始めての道ということになります。横川から碓氷峠を越える道というのは明治期に開通した鉄道でも苦労したほどのかなりの急こう配ですから昔の旅人は大変だったと思います。横川の関所から一度数百メートルの高度を登ってしまえば比較的平坦な稜線の道とは思いますが、1000メートルを超える高地ですから真冬や真夏はさぞ大変なことだったでしょう。山路とは言え天下の街道ですから、長い間行き交う旅人や観光客により踏み固められていて、まるで長い土塁のように、今や工事車両も通れる広さになっています。使われなくなった幾多の古道とはちがいます。晩秋のことで落ち葉が厚く散り積もって歩くのも大変でした。


道は途中から本道を離れ、線路跡が残る(旧)信越線に向かって斜面を下っていきます。紅葉も最終期ですが見事なものです。碓氷川を渡り、信越線直下の遊歩道に出ます。この辺が碓氷峠観光のハイライトなんでしょうか。メガネ橋(写真)とトンネルは明治時代に造られた煉瓦建築の傑作で国の文化財になっています。そういえば、この碓氷峠を越える旧中山道自体も国指定の史跡になることが最近の文化財審議会の答申でほぼきまったようです。できるだけ、現状のまま保存してほしいと思います。


この橋とトンネルを通る「アプトの道」(旧信越線の廃線跡を遊歩道にしたもの)はここからさらに軽井沢寄りの「熊ノ平」まで続きますが、今回は横川方面に下りました。全部の半分くらいの距離ですがそれでも5つのトンネルをくぐります。途中に、先ほどの旧中山道につながる分岐があり、徒歩の「古道歩き」は横川駅からここまで舗装道路で来てここから山道を通って旧軽井沢方面に向かうようです。


 樹海は今でも怖い?


富士山の北麓、西湖と河口湖の南に盛り上がっているのが足和田山です。五湖台とか三湖台とかの見晴らしの良い展望台をもち、最後は富士の青木ヶ原珠海を一望にできる紅葉台という絶好の場所にレストハウスが立っています。山行の目的は富士の眺めなので樹海はいわばおまけ。いちおう樹海のなかの鳴沢氷穴がルートに入っていましたが、駅に向かうバス停に行くのにこの樹海の一部を横断する「東海自然歩道」を抜けるのが近道ということで歩いたようです。


しかし、ご存じのように樹海の中というのは、地表には溶けて固まった溶岩がうねうねくねくねと続き、暗い樹林の中には「自殺防止のポスター」なんかが立っているというけっこう気持ち悪い場所です。おまけに時刻もかなり遅かったので暗くなるとまずい。ここを早く抜けようと一行はかなりの速足なので写真をとる時間もないくらい。樹林の中には小さな風穴やら氷穴やらが無数にあり、確か火口もあったはず。そういうところ通じる道にはほとんど通行禁止のロープが張ってありますが、もう少し時間をかけて見てみたいと思った場所です。