「埼玉の津」と「万葉灯籠」2025年02月10日 11:52


埼玉県行田市にかなり大型の古墳が集まっている「埼玉古墳群」と呼ばれる場所があります。古墳というのはたいがいひとつの地域に集中しますから珍しいことではないのですが、世界遺産の百舌鳥古市古墳群などを擁する本場の近畿圏は別として、100メートルを超えるような前方古墳群がこれだけ密集している場所は、少なくとも関東地方ではここだけではないでしょうか。このため、一帯は国の特別史跡に指定されていますし「古代東アジア古墳文化の終着点」というすごいコピーで世界遺産への登録を推進する動きもあるようです。


この場所にはたびたび訪れているのですが、実はすぐ近くにある「前玉神社」には行ったことがありませんでした。前玉と書いて「さきたま」と読みます。ここは「さきたまの地」であり、埼玉県名発祥の地でもあるのです。「さきたま」の語源はわかっていませんが「たまのさき」とか「さきみたま」など、いくつかの説があるようです。


この神社は、埼玉古墳群内の多くの古墳が成立した5~6世紀よりも少しあたらしい古墳のひとつであることが確認されており、現在は古墳公園からややはなれた田園の中に立っています。鳥居の中に小山があり上に社殿があります。注目すべきはこの社殿の前の鳥居の左右に置かれた2つの古風な石灯篭です。よく見ると細かい文字が彫りこんであります。この地には、古代(万葉の時代まで?)には「さきたまの津」とよばれる川の港があったとされていまして、この「埼玉の津」は万葉集にも詠まれています。この神社の一角にあるのは、側面にこの万葉集の「さきたまの津」にまつわる歌が刻まれた「万葉灯籠」で、江戸・元禄年間に地元の氏子により奉納されたものだそうです。歌はどちらも原文の万葉仮名で刻まれていて、国内最古級の万葉歌碑のひとつです。


・埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
・埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 零り置ける霜を 掃ふとにあらし


1首目の歌の意味は、津は船着場・河岸のことで、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられています。2首目には、小崎沼のことがでてきます。小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い冬の早朝の風景を歌ったものです。上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれるもので、作者は、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)といわれています。



歌に出てくる小埼沼はさきたまの津のちかくにあったと思われますが、古代東京湾の入江の名残りで、これも正確な場所はいまなお不明なのですが、かつてそこだと思われた場所に宝暦3年(1753年)忍城主の阿部正允により万葉歌碑が建てられていて、おなじくこの2首の歌が刻まれています。碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようです(行田市・文化財の概要より)。


今回、この場所まで行かなかったので、詳細は不明なのですが、どうやらすでに神社としては成立していないようで、かなり地味な史跡という扱いで、訪問する人も少ないようです。万葉集を愛した先人が郷土の歌に誇りを持ってこの石碑を建てたということは歴史の事実ですから、大切にしてほしいものです。今度は行ってみます。

130名を超える講演会!2025年02月24日 16:12


業界団体、環境団体、文化団体─今まで私が属してきた団体の中ではかなり多くの「講演会」「研修会」などを企画・実行してきましたが、あまりメジャーな業種やテーマでなかったこともあって、参加者が100名を超えるようなものはほとんど記憶にありません。ところがこの2月の末に埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会が主催した歴史文化講演会は参加申し込み者が140名を突破して、途中で募集をストップするというはじめての経験をしました(上の写真)。


テーマ自体は『伊奈忠次~現代日本の基礎を作った総代官』ということで、人物については歴史好きの人なら知っていると思いますが、そう有名な、歴史の中の大人物でもなく、講師の和泉清司氏(高崎経済大学名誉教授)もわりと地道な研究者でそれほど世に知られている人でもないと思います(先生、すみません!)。それがこんなに(私の中で)当たった(!)というのに特に思い至る理由もありませんが、属する団体でも、あるいは今回、新聞折り込み誌ということで提携してもらったミニコミの読者も、2019年ころからコロナの影響で減少していた集会や講演がようやく復活しはじめ、冬のインフルエンザもひといき、春の予感の中で出かける気になった人が多かったとしか考えようがありません。


博物館の講堂は160名収容可能とのことなんですが、当日、メモ用ひじ掛けのついた座席がびっしりという状態でした。あまりいっぱいだと気が休まらないというか、疲れてしまうんですが、さいわい、途中1回の休憩を挟んで、1時間40分ほどの講演は無事に終了しほっとしました。


伊奈忠次というのは、江戸時代のはじめ、まだ徳川家康が「天下人」となる前の三河時代の忠臣で、秀吉政権時代から優秀な才能を発揮して頭角を現わし、特に、江戸に移ったあと、家康のもとで筆頭総代官として大変重要な検地や新田開発、水運、河川改修に取り組み、幕府創成期の財政・社会基盤確立に大きな貢献をした人物です。戦乱が終わり、平和な時代になり社会の大きな発展が求められていたこの時期、日本中の国土改革に大きな貢献をしました。関東地方でも、俗にいう利根川東遷、荒川西遷という当時乱流していたの大河川の改修・付け替えはじめ、知行割、寺社政策などその果たした役割は江戸時代を超え、現在日本のインフラをつくったとの評価もあります。現在も関東各地に残る「備前堀」や「備前堤」と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。忠次の子、忠治も代官として後を次ぎ、伊奈氏は2代にわたり役目を果たします。


この時代の「代官頭」ではもうひとり大久保長安がいます。こちらも街道整備などで力を発揮しますが、特に、石見銀材、佐渡金山などの鉱山開発に名を残しています。この大久保長安については2024年11月11日の「ある講演会のきっかけ」という記事をご覧ください。


この大久保長安の講演会の参加者は60名程度だったので、今回も、少し多いくらいかと予想していましたので、これほど多くの参加者に驚いた次第です。伊奈忠次関連では、講演会から5日後に、陣屋跡が残る埼玉県伊奈町の見学会を開催する予定で、これも現在まで60名の参加申し込みがあり、これも驚きの数字なのです。