「フォッサマグナ」を見る2024年08月02日 15:48



この9月に新潟県の糸魚川を訪れてフォッサマグナ地形の露頭が見られる場所に行く予定になっているので、現在、フォッサマグナの勉強をしています。といっても関連書籍を数冊読むだけのことですが、それでも知っているようで知らなかったこの日本地学・地形上の最大問題である地形の成り立ちや難解なその成り立ちについてすこしずつわかってきました。わかったことは発見から150年近くたった今でも謎の多いこと、そのため、この世界にまれな大地形に対する人々の関心が持続しているということです。


私はいちおう地理学科を出ていますので昔から地形や景観には関心があったのですが、その後も自分の関心がいろいろ移り変わってきたなかで、最近になってあらためて日本の文化景観や自然景観をゆっくりながめて自分の人生を終わろうという気持ちになり、機会を逃さず歩き回るようにしています。そこで、このフォッサマグナも糸魚川静岡線も中央構造線も、知識として知ってはいましたが、振り返ると、ここ10年の間に出かけるようになった北アルプスの山々や黒部峡谷もさらに富士山も、この巨大な地溝帯の成立と大きく関係していたことがわかり、多くの日本人同様、知らず知らずにこの地形の魅力にとりつかれていたことをあらためて再認識した次第です。フォッサマグナなんて知らないよという登山者もじつはその地形美の恩恵を被っているわけです。


そこでフォッサマグナですが、これを発見して世界に認識させたのは、明治初期に日本に招聘されたドイツの学者、エドムント・ナウマンです。その頃の日本は近代科学や文化を吸収するため海外(主としてヨーロッパ)多くの人材を招いていました。「大森貝塚」の記事で「日本考古学の父」とされるエドモンド・モースのことを書きましたが、この人物の来日時期も分野もナウマンとほぼ同じで、実は大森貝塚はナウマンも同時期に調査し、シーボルト(江戸時代来日のシーボルトの次男)も論文を書いています。学者同士の先陣争いがあったのです。ちなみに招聘された学者といってもナウマンは21歳の年齢で、その頃の日本の文化的活気や時代の若さを感じます。


ナウマンは、今では、旧石器時代まで日本に生息していたナウマンゾウの化石発見のほうが有名ですが、日本各地を移動して詳細な地質図を作成、これは現在でもほとんど変わりない精密なものでした。調査旅行といってもまだ鉄道や道路のほとんど整備されていない時代ですからその多くは徒歩旅行で、江戸時代の伊能忠敬に匹敵するほどの労力を必要としたと思われます。その旅のなかで、関東地方から中部に向かい、現在の軽井沢から岐阜県側に移動して野辺山付近の峠に差し掛かった時、そこから見た風景が彼に強烈なイメージを与えました。眼下に広がる平坦な低地の向こうに壁のように続く長大な山なみ―今の南アルプスの高山群です。こんな地形が他にあるだろうかと彼は感動したようです。


この地形を詳細に研究したナウマンは数年後にドイツにもどり、この地形をラテン語の「大きな地溝」という意味のフォッサマグナと名付けて発表しました。これが現在まで続く成立論争の始まりとなります。当時は地殻が動く「プレート移動」という考え方は発見されていなかったので、どうして日本のこの場所にこんな特異な地形が形成されたのかについてはよくわかっていなかったようですが、実は今でも、本当のところはよくわかっていないらしいです。ただし、この地形の西の端が糸魚川と静岡を結ぶいわゆる「糸静線」に沿っていることは間違いのない事実です。対して東の端は大まかに新潟県の長岡付近と関東の千葉県(利根川構造線?)を結ぶ線らしいとされていますが、確定するような断層帯が発見されていないようで、さらにこの地溝帯の中に関東山地という古生代の地層の塊があることもあって、はっきりしていないことが多いようです。


しかし、ナウマンの見た長野・山梨の県境付近からの景観は現在でも変わっていないのですから、われわれでもそこに立って同じ景色を見ることができます。というより、八ヶ岳や北アルプス方面に旅行する人々はほとんどこの景観を見ているはずですが、世界にまれな大地形であるという認識がないのだと思われます。私もそのひとりでしたが、7月の終わりに、この付近の入笠山に久しぶりの登山の機会があり、はじめてファッサマグナの地という感覚ででかけました。入笠山というのは八ヶ岳に向かい合うように聳える2000メートル弱の山ですが、冬はスキー場、夏は山頂部の高層湿原の花園という観光地で、ゴンドラで簡単に登れてしまう人気の観光地でもあります。期待通り、到達した平らな頂上からは、東に八ヶ岳連峰、北から南方面に日本アルプスの山々さらに富士山まで望むことができました。


一番上の写真は向こう側が八ヶ岳で、立っている入笠山との間には深く伸びる巨大な地溝帯が諏訪湖まで続き、JR中央線が通っています。その下の写真はその続きですが、一番右(南)に甲斐駒ヶ岳が見えます。甲斐駒ヶ岳は入笠山とつながる山脈でさらにその先には富士山があります。野辺山方面からナウマンが見たのとは方向が違いますが、確かにフォッサマグナを実感することができました。


下の図はナウマンが1885年にドイツで発表した日本の地質図です(矢島道子著『地質学者ナウマン伝』の口絵写真より)。ナウマンは当時すでに精密な日本の地質図を完成させ、この図にも、フォッサマグナと中央構造線がはっきりと示されています。




参考までにその下に現在の Wikipediaに掲載されている「フォッサマグナの概念図」をあげておきます。図の中の「青線に囲まれたオレンジ色の部分はフォッサマグナ、左側の青線が糸魚川静岡構造線、赤線が中央構造線」です。このフォッサマグナ東縁と中央構造線の交わる場所は入笠山から諏訪湖方面に少し行った杖突峠付近とされています。

共感あふれる『ナウマン伝』2024年08月13日 17:20


最近起きた宮崎・日向灘の地震に関連して「南海トラフ巨大地震注意報」が世上をにぎわしていますが、テレビでの説明を聞くとこの南海トラフとはフィリッピンプレートとユーラシアプレートの間の深海にある海溝で、西が九州付近、東は静岡県付近まで続いている壮大な海溝だといっています。地震に関する話はたいていこの辺で終わりますが、この「南海トラフ海溝」は静岡付近でもうひとつの北米プレートと衝突しているために終わっているのですが、地形的には駿河湾で静岡の西部にいたり、そのまま日本列島を縦断する形で新潟県まで北上しています。


当然、陸の上でも大きな溝状の断層地帯を形成しており、その溝帯のすぐ西に並行する形で日本アルプス山脈が南北にそびえたっています。日本列島の東西を区切るようなこの世界地図的な視点もでわかる大地形を「フォッサマグナ」と呼びますが、テレビなどではこの話をあまりすると長野や新潟の方に無用な心配を与えるので(多分)言論封鎖?されているのだと思います。


さて、この重要な地形を発見し世界に報告したのが明治の初めにドイツから日本に招かれて地質学の基礎を築いたエドムント・ナウマンであることは、前回の記事『フォッサマグナ」を見る』で書いた通り、日本に来て3か月後の地形調査旅行の際に、現在の長野県・野辺山付近の光景から見た地形に衝撃を受け研究し、これをドイツの地質学会で発表しました。世界に「フォッサマグナ」が知られる契機です。「フォッサマグナ」と並んで日本の地形を特徴づけている「中央構造線」もナウマンの発見です。滞在わずか10年の間に日本中を歩きほぼ完全な日本列島の「地質構造図」を完成させてもいます。しかし、この偉大な人物とその生涯は、日本国内はもちろん、ヨーロッパでも広くは知られていませんでした。


こうした現状をひそかに嘆いていた一人の女性地質学者が最近(2019年)世に出したのが『地質学者ナウマン伝―フォッサマグナに挑んだお雇い外国人』(朝日新聞出版)です。著者の矢島道子さんは東大理学部出身の古生物学研究者ですが、この本の序文には


「あなたのことがこの十数年ずっと気になって、あなたの日本での足跡を追い続けてきました(略)あなたの仕事は日本ではほとんど忘れ去られ、ナウマンゾウ化石の由来者としてわずかに知られているだけです。(略)お雇い外国人のうち、あなたほど悪く言われている例を私は他に知りません。(略)日本だけでなく、母国ドイツでもほとんど知られていないあなたの足跡を追い続けた結果をこれからお見せします。(略)これを読んで天国であなたが微笑んでいただければ、これまでの文献解読や調査旅行の苦労も報われるというものです」


というラブレターみたいな情緒あふれる文章が散在しています。もちろんナウマンが追い求めた研究テーマについては(彼女も専門の研究者ですから)現代の最新情報まで取り入れた解説がありますが、この本は、地誌地学という固い学問の話かと思いきや、魅力的なナウマンという人物について、その生い立ちから青年時代の日本での活動、母国でのその後の活動、逝去・死後の模様までを丹念に追いかけたすばらしい一冊になっています。


こうした忘れられた科学書への敬愛とあふれた科学評伝で思うのはこのブログで<『種の起源』の旅>と題して2020年に6回にわたり投稿した記事のこと。これは生物研究者である新妻昭夫氏(故人)が、生物学者というより採集家として知られているアルフレッド・ラッセル・ウォーレスという人物の足跡を丹念に探った渾身の名著『種の起源を求めて』についての記事です。有名なダーゥインの陰に隠れ、知られていないこの青年が、まったくの独学で「進化論」という結論に達するまでの物語も感動と驚きの連続です。


矢島道子さんのこの著作も、新妻氏と同じようにナウマンへの強い尊敬と共感の場に満ち溢れ、故郷ドイツ・マイセンの風景から最後はフランクフルトにある彼の墓石さらに子孫の様子まで紹介しています。明治の日本地質学にあった(しかも矢島さんによればそれが今でもあるらしいのです)ある種の偏見の中で無視されてきたナウマンの業績も、近年になって1994年には糸魚川市のフォッサマグナミュージアムの開館などもあり、広く紹介されるようになりました。


地質学の数億年、数千万年という時間軸の中では、ナウマンの活躍した時代から現在までの140年間なんて本当に微々たるものです。まして人間の名誉や愛国心にもとづく偏見なんてなんと小さなことか。


上の写真は、秩父・贄川からナウマンが眺めて「セカイイチミハラシガイイ」と語ったという風景。です。(ブログ「国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~(https://ameblo.jp/kokuritukouentetudou/)」からお借りしております)

「塩の道」もありました2024年08月30日 16:48


今月に入ってから「フォッサマグナ」関連の記事を2本投稿しました。それと多少は地形的な関連があるとは思いますが、糸魚川と長野を結ぶ大断層に沿う形で、明治以前の生活物資と文化の伝播に使用された重要な交易路がありました。通称を〝塩の道〟といい、糸魚川の海岸地帯から大断層地帯を削るように流れている姫川の急流に沿って山の中を抜け、最終地は信州の松本の塩尻という地になります。塩尻とは塩の道の最終地という意味があるそうです。


塩は人間(というか動物全般ですが)の生活に欠かせないものですが、日本では基本的に海から生産する塩しかありません。そこで古代から深い山中に暮らす人びとはさまざまな方法でそれを手に入れようとしてきました。海岸地帯からは塩の他に魚介類などの海産物が取れ、これは重要な交易品になります。このブログで6月の「東京の2大貝塚をまわる ―」の記事で書いた「中里貝塚遺跡」はこうした商品としての牡蠣などの貝類を加工した場所といわれます。これは当時、各地の平野や山地に暮らす人々の生活を支えたはずです。


上の写真は 長野県小谷村の観光公式サイトより。下の図は『塩の道を歩く』(銀河書房・田中欣一著)所載の地図です。



こうして海岸と内陸の生活場拠点を結ぶ交易路─塩の道は各地にあったと思われ、栃木県など関東内陸部にもその伝承値地があり、岩手県には南部藩の沿岸にあった野田に『塩の道』または『のだ塩ベコの道』と呼ばれる街道があったようです。調べてみると高知県でも「塩の道保存」という活動があるらしいです。明治以前の日本中の海と山間部を歩いて結んだ交易路はほとんどがこうしたものかもしれません。


しかし、その中でももっとも有名なのがこの糸魚川と松本を結ぶ「糸魚川街道」あるいは「松本街道」「千国街道」と呼ばれる道になります。千国は街道の中ほどの中継基地になっている街で松本藩の番所があったとことです。街道といっても大名行列が通る五街道などとは違って純粋に物資や人の往来に使われた道ですが、日本海側から信濃を経て太平洋岸につながる列島横断道なので通行する人の数は多く、沿道の宿場はかなりの賑わいを見せたようです。松本藩はその政策として塩の流通をこの内陸交易路だけにしていたため、瀬戸内海地方などで生産された塩は日本海航路で直江津などに運ばれそこから陸路で内陸に移送されたのです。


とはいえフォッサマグナ沿いの陸路は日本アルプスの険峻な山々とその間を縫う姫川の急流です。標高数百メートルの山々の間を縫うようにして延々伸びているこの街道は、そうでなくても楽ではない上にここは日本有数の豪雪地帯ですから街道各所に残る多くの石仏や休憩小屋・泊込小屋にその実態を忍ぶことができます。


 牛が運んだ塩と物資


実際の運搬にあたったのは重い背負子を担いであるいた歩荷(バッカ)と呼ばれる個人の人足と牛に荷駄を積んで数頭を追いながら歩いた牛追ですが、明治に入り、道が整備され、馬による輸送、さらに自動車、鉄道による輸送が可能になるに従い、徐々にその数は減ります。大正時代頃までは利用されていたようで、最終的にこの道を利用する人はかなり近年まであったのではないでしょうか。


そして、現在になると、この「塩の道」は観光資源としての価値を高めてきます。旅行ブーム、僻地ブームの中で、糸魚川市、小谷(おたり)村、松本市などの沿線自治体は、白馬などのスキー場、登山観光に加えて、塩の道をPRし始めます。「塩の道」全区間を整備し、歩いてまわれる「ロングトレイル」と位置づけ(中心は小谷村の観光連盟や商工会)案内パンフや詳細な地図を作製しています。「塩の道祭り」は毎年春(5月)行われ、秋(11月)には「塩の道ロングトレイル」という、小谷村から糸魚川市を往還する制限時間24時間の80kmと小谷を往還する42kmの2つのコースの本格的なイベントが実施されます。