「浜辺の歌」謎の歌詞2025年05月12日 20:20


4~5年前から歌のサークルで毎週歌っています。楽譜も読めない私が入っていられるくらいの緩い集まりですが、ピアノやギターのできる人がいるので、それに助けられ、みんなに交じって声を出しているだけというのが実態ですが、演奏するのは『みんなのコーラス』(野ばら社)という本を中心にかなり雑多な日本歌曲や(参加者の)青春時代のポップスなどがメインです。


『みんなのコーラス』に唱歌・童謡・フォークソング・日本の名歌・世界の歌─など様々なジャンルに分類されていますが、日本歌曲の中では、明治大正期につくられ、戦後も学校教育の中で歌われ続けた曲がかなりあり、知っているものが多いとはいえ、当然ながら始めて聞いたという歌もかなりあり、音楽の世界の奥深さの一端を知りました。


その中で、『浜辺の歌』というのは、どこで覚えたのかは思い出せませんが、懐かしく印象深い歌詞とメロディで、歌いやすいこともあって私の好きな曲です。大正時代につくられたものですし、作者の林古渓氏は漢学者らしいのでいかにも古風な言葉つかいで、深い味わいのこもった歌詞になっています。


1、あした浜辺を さまよえば 、 昔のことぞ 忍ばるる。
風の音よ 、 雲のさまよ、 よする波も かいの色も。

2、ゆうべ浜辺を もとおれば、 昔の人ぞ 忍ばるる。
寄する波よ、 かえす波よ。 月の色も、 星のかげも。


「あした」「ゆうべ」「 忍ばるる」「もとおれば」など、いかにも明治風の文語体で雰囲気を感じさせます。普通、歌詞はこの2番まででテレビの「日本の歌」なんかで歌手が歌う場合もこれを歌います。『名曲集』にもこの2番までしか歌詞はありません。しかし、この歌には3番の歌詞があり、さらには4番もあったということを何かの雑学で聞いた覚えがあったので調べてみると、確かにそうでした。


現在「浜辺の歌」の題名で知られているこの歌は、大正2年(1913年)に発行された『音楽』という雑誌に掲載されたのが最初だそうです。その時は「はまべ」という題名で、なんと「作曲用試作」と付記されており、作者の林古渓氏は誰かに作曲されることを前提で書いたようで、当然メロディはまったく存在しませんでした。そして、その詩には3番が書かれていました。次の通りです(日本の唱歌「浜辺の歌」)。
日本の唱歌「浜辺の歌」


3、はやちたちまち 波を吹き、赤裳のすそぞぬれひじし 。
やみし我は すでにいえて、浜辺の真砂 まなごいまは。


しかしこの3番の歌詞が難解なことから、最近は削除されることが多いということです(小学唱歌採用時にそうなった)。確かに「はやち」は疾風のことで「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装というのいいとして「赤裳のすそぞぬれひじし」とは現代人には通じません。それでも「突風が急に波をたて、赤い裳の裾が濡れて冷たく感じる」という意味だととれます。ところが、これを現代では「赤裳あかものすそぞ ぬれもせじ」としている場合もあります。難しいからといってこれではかえって意味が通りません。ここは素直に「ぬれひじし」か「ぬれもひじ」とするべきでしょう。(古渓の原詩では「ぬれもひぢし」との説もあるようですが歌詞としてはすこし歌いにくい)


この3番が難解というのはここでだけでなく、というか、ここ以上に、このフレーズと次の「やみし我は すでにいえて」という言葉の関連がわからないということです。この点について、上の「日本の唱歌「浜辺の歌」では次のような説を述べています。「(これには)理由がありました。というのも、古渓は当初4番まで作詞していたのに、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたそうです。そこで古渓は3番を記載することに難色を示したそうです」。


「音楽」というのは、東京の京北中学校国漢科教師の林古渓が載せた作詞、作曲のための雑誌「音楽」です。この歌が正式に発表されたのは大正7年(1918年)でその時の題名は『浜辺の歌』です。(上の図)表紙の絵には若い女性が長い裾を引きづっていますから、女性の視線であることは確かでしょう。とても浜辺を散歩できるとは思えませんが、だから濡れるのか。


さて、この3番の解釈についてはいろいろありますが、当の林古渓の子息を訪ねた時の記録が鮎川哲也氏の『唱歌のふるさと』という本に書かれれています。鮎川哲也は推理作家ですが音楽についても造詣が深ったようで、これは音楽之友社の雑誌に連載された企画だったようです。子息氏によれば古渓は幼いころ茅ケ崎の海岸で過ごし、三崎の旅館で台風にあった経験もあるようで、当時、湘南の海岸には結核の療養所がありましたから、そこがモデルだろうと鮎川氏は推理しているニュアンスです。


肝心の3番、4番の歌詞については、改作した人物も分かっていたようですが、出版時に連絡も来ないという時代だったようです。本人が「わすれた」といっている以上、どんな内容だったか確かめる方法はありません。


ネットの検索で「レファレンス協同データベース」という中に、同志社大学HOME 研究活動教員によるコラム「浜辺の歌」の謎(2021/09/06) いうものも発見できました。
「浜辺の歌」の謎


内容は以下のようなものです。
「はやち」は疾風のことです。「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装です。疾風で強い波が生じ、赤裳の裾が濡れたのでしょう(「ぬれもひぢし」)。これは女性自身の視点でもいいのですが、その女性を見ている男性の眼差しでも通ります。それに続く「やみし」は、「病んだ」で、「いえて」は「癒えて」です。どんな病なのか、失恋なのか結核のような病なのかわかりませんが、それが原因で恋愛も破局を迎えたとすれば、「むかしのこと」「昔の人」はかつての恋人との記憶と解釈できそうです。それを一人で散歩しながら思い出しているわけです。
最後が難解です。「真砂」は「まなご」とも読むので、「まなご」が二度繰り返されていることになります。「愛子」はいとし子ですが、女性の幼子と見るより、女性そのものがかつての「愛子」だとすると、その女性が今はどうしているのか、と想像していることになります。この「浜辺の歌」は、古渓のかつての失恋の思い出を綴った歌だったのではないでしょうか。これが私の解釈というか想像です。


林古渓氏はもともと漢詩の起承転結を前提に書かれたとのことなので、3番は「転」つまり前2番との内容が打って変わっているのは当然で、静かな浜辺に、急に嵐を思わせる風波がたち、穏やかな気分に昔の怒涛の思い出がよみがえり、その頃愛した人(子どもであれ恋人であれ)のことを思い出す―という流れが3番と4番になっていたと思われます。


3番の歌詞まで歌っている歌手もおおく、倍賞千恵子の若いころの歌声はとてもいいです。


浜辺の歌

二見浦の中央構造線2025年05月19日 15:10


伊勢と鳥羽、松坂をまわる旅行に行ってきました。個人の旅なのでスケジュールに余裕があり、かなり気ままに歩くことができましたが、印象に残ったのは伊勢神宮前の「おはらい町」と呼ばれる参道沿いの賑わいと二見浦(ふたみがうら)の山と海の景観、松阪の落ち着いた街並みといったところ。伊勢に行くのは3回目くらいになるかと思いますが、連休後の平日だったためか、全体的に観光客も少なめで、水を張った田植え前の田圃に囲まれ、どこを歩いてもウグイスの鳴音が聞こえるような、静かな雰囲気が印象に残りました。


今回の旅行では、以前の訪問(かなり前になります)では気にもしていなかったことに関心が向いていました。ひとつは三重県のこの場所を中央構造線が通っているということで、特に伊勢神宮の下宮と二見浦海岸を結ぶ地点をを地図で見ると、山裾と海岸平野が一直線にならんでいて、まさに中央構造線の断層ラインです。中央構造線とは一億年近く前の日本列島誕生期の地殻変動で形成された大断層で、九州から四国、紀伊半島をとおり、長野県付近であのフォッサマグナとつながり、最後は群馬・埼玉県県境付近を通って茨城県の鹿島灘まで繋がっています。とりわけ明瞭なのは地図上でもはっきりわかる紀伊半島から四国を縦断している箇所です。以下の図は長野県大鹿村中央構造線博物館サイト掲載の中央構造線マップ(一部)です。
中央構造線博物館サイトより)



昨年の夏に、ファッサマグナの大地形ということで、長野県の伊奈から新潟県糸魚川付近の大断層に由来する山々や街道(塩の道の一部)をめぐることができました。今回は、その続きではありませんが、同じくナウマン博士の発見した中央構造線のライン上に立てるのは楽しいことです。JR伊勢駅から参宮線に乗ると二見浦駅までまさに一直線です。その先の海岸沿いの大小の岩が有名な「夫婦岩」で、神社にもなっていて各地から観光客がやってきます。この2つの岩の間から夏至の日の太陽が登るなどの、地殻変動とは関係ない自然現象の不思議さもあってパワースポットとか霊的力の場所とかいわれますが、それはそれとして、どうもこの夫婦岩は別々の岩石のようなのです。上の中央構造線博物館サイトにはこんな記述があります。


「夫婦岩の大きい方の岩や、海岸の陸側の岩は、すべて三波川変成帯の緑色片岩です。大きい方の岩と、こちら岸の岩の片理面(板を重ねたような面)の向きを見ると、同じ向きに一致しています。もとは、ひとつながりの岩だったものが、波に侵食され、海面上に頭が残ったものが夫婦岩であることがわかります。小さい方の岩は、岩種も片理面の向きもちがうので、据え直したものと思います」


確かに近づいてみると、大きい岩(夫岩?)の岩石の傾斜面は陸地側の岩と同じ傾斜角度をしていて同じ地層にあったことがわかります。三波川変成帯という地層の緑色片岩ということです。一方で小さい岩はいかにも不自然に立っている感じがします。この夫婦岩は江戸時代からの名所だったようですから、かなり古い時代に何か細工がされたのかもしれません。(夫婦岩は一直線に海に落ち込んでいる=下の写真)




なお、中央構造線の上に日本古代からの神社が並んであるのには理由があるという説があります。例えば、愛知県の「とよがわびより」の「こぼれ話」の中に


「中央構造線」上には、高野山や伊勢神宮、豊川稲荷といった有名な神社・仏閣が点在しています。これには、
・「中央構造線」上が地形的に交通の要衝になりやすいから
・「中央構造線」での地震災害を鎮めるため
・「中央構造線」で起きた地震災害の被災者の鎮魂のため など
 様々な説があるようです。
 そこにもうひとつ、「中央構造線」が強力なパワースポットだからという説もあります。


何かこうした人間の文化的な活動と地殻上の巨大運動との間に目に見えない関連があるのか──フォッサマグナによる日本の東西地域の分断の謎については意味がありそうなんですが、中央構造線による日本列島の縦の分断(外帯/内帯)はどうでしょうか。

伊勢参道の観光文化財2025年05月26日 17:13

当然ながら伊勢神宮にもいくつかの謎があります。一番の問題は、皇室の祖先しての「天照大神」がなぜこの地に祀られているかということです。『古事記』や『日本書紀』その他古文献解釈による研究はたくさんあるようですが、この近畿と東海の中間に位置する伊勢の地には弥生時代以来の多くの遺跡があり、壬申の乱のときには伊勢の勢力が大海人皇子を助けたという記録もありますから、古来から皇室との関係は深かったわけです。


10数年前、奈良県の古代文化の里である明日香の地の遺跡巡りをしたときに「三輪そうめん」の老舗のご主人から「ここ(三輪)から真っすぐ東を眺めると伊勢になります」といわれたことがあり、なんとなく別々に考えていた伊勢と大和の地理が一致するような発想の転換がありました。その後、三輪から長谷寺までのいわゆる「大和・山野辺の道」を歩いた時、長谷寺への新道から外れた細い道が古くからの「伊勢街道」だとわかり、その通りの落ち着いた趣に感動したこともありました。今回、松坂では伊勢街道から分岐する初瀬街道という古道も目にしました。関東の人間にはよくわかりませんが、大和と伊勢は地理的にも文化的に意外に近い関係にあるのですね。


つまり、難しいことはなく、古代大和のひとびとが太陽の上る東に向かっていくと到達するのが伊勢の海で、そこには美しい海岸があり、その先の広大な太平洋から朝日が昇ることに感動して、太陽のための祠を建てたとしても不思議はないでしょう。


 「おはらい町」と「おかげ横丁」の魅力


さて、今回の旅行では、伊勢神宮ではなく、参拝を終えてからそぞろ歩く鳥居前のいわゆる「おはらい町」の様子に感激をしました。宇治橋から続く約800mの参道で、主催者のホームページによれば「昔ながらの風情を残す土産物屋や飲食店が軒を連ね、江戸時代の人々が憧れた<おかげ参り>の雰囲気を楽しむことができます」という感じです。



これは本当で、写真を見てもらえばお分かりのように、伝統的なつくりの商家や旅館風の家が軒を接していて、現在そのほとんどが飲食店や伊勢土産の販売を行う店ですが、看板も屋根もいかにも江戸時代の伊勢参りの人々が目にしたであろうような景観そのままですから楽しくなります。 こうした参詣町は日本中にあり、参道の店構えも多くは伝統的な形式で、その風情を十分残しているところも多いです。この伊勢「おはらい町」もそのひとつではありますが、町全体の一体感が違うような気がします。もともと伊勢神宮内宮の鳥居前町であったおはらい町には、明治初期まで「御師(おんし)」と呼ばれる下級神官の館が立ち並んでいたとのこと。御師とは、各地を巡って伊勢参拝を勧誘し、参拝者にはその案内を行うほか、宿を提供してもてなしました。これは富士山や立山、出羽三山など多くの有名な信仰の地にはどこでもいたもので、こうした人々が日本中を回って参詣客を呼び込み、地元にあっては宿泊や参詣の案内をつとめていました。なかでも、この地の御師は庶民への御祓いや神楽も行っていまて、「御祓い」をする館が立ち並んでいたことから、「おはらい町」と呼ばれるようになったといわれています。


ただし、この街の景観がいまのようにきれいに整えられたのには現代の努力があります。
「門前町おはらい町の特徴は、木造建築で揃えられた町並み。おはらい町の建物は、1990年(平成2年)から始まった「伊勢市まちなみ保全事業」によって切妻・妻入り、もしくは入母屋・妻入りで統一されました。神宮社殿の建築洋式が切妻・平入りであることから、おはらい町の建物も神宮社殿に合わせて作られています。「ぬれガラス」と呼ばれる防腐塗料で黒く塗られた外壁と、独特の形をした「伊勢瓦」を使用された屋根が、古き良き伝統的な雰囲気を醸し出しています。」
(「内宮おはらい町地区のまちづくり」)より


また、このおはらい町の中ほどに「おかげ横丁」という一角があります。ここは1993年に開丁した街並みのことを指しますが、この「横丁」はまた別個の誕生物語をもっています。


「明治以降、御師制度が廃止されたことや自動車での参拝客が増えたことなどから、おはらい町は徐々に活気を失っていきました。昭和50年~60年代の来訪者は年間約20万人と、現在(2019年は590万人)と比較すると30分の1程でした。 この状況を危惧した(株)赤福が、おはらい町に伊勢路の伝統的な街並みを再現しようと開業したのが「おかげ横丁」です。第61回神宮式年遷宮の年、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。伊勢の暮らしや文化を体感できる場所として横丁を整備すると同時に、おはらい町の電線の地中化や石畳への舗装などにも取り組みました。開業時は27店舗でスタートしたおかげ横丁ですが、その後も少しずつ店舗を増やし、現在の店舗数は55店舗となりました。」(サイト:「おかげ横丁」より)


伊勢に行くといたるところに「赤福」の看板が目につきます。街の衰退に危機感をもったその赤福の経営者が中心になって、それまでの伝統的な力を増幅して、近年の観光ブームの中で盛り上がっている日本の神秘的な伝統のひとつである伊勢神宮とそこを訪れる「お伊勢参り」の人たちのための新しい観光文化財をつくりあげたわけです。