「塩の道」もありました2024年08月30日 16:48


今月に入ってから「フォッサマグナ」関連の記事を2本投稿しました。それと多少は地形的な関連があるとは思いますが、糸魚川と長野を結ぶ大断層に沿う形で、明治以前の生活物資と文化の伝播に使用された重要な交易路がありました。通称を〝塩の道〟といい、糸魚川の海岸地帯から大断層地帯を削るように流れている姫川の急流に沿って山の中を抜け、最終地は信州の松本の塩尻という地になります。塩尻とは塩の道の最終地という意味があるそうです。


塩は人間(というか動物全般ですが)の生活に欠かせないものですが、日本では基本的に海から生産する塩しかありません。そこで古代から深い山中に暮らす人びとはさまざまな方法でそれを手に入れようとしてきました。海岸地帯からは塩の他に魚介類などの海産物が取れ、これは重要な交易品になります。このブログで6月の「東京の2大貝塚をまわる ―」の記事で書いた「中里貝塚遺跡」はこうした商品としての牡蠣などの貝類を加工した場所といわれます。これは当時、各地の平野や山地に暮らす人々の生活を支えたはずです。


上の写真は 長野県小谷村の観光公式サイトより。下の図は『塩の道を歩く』(銀河書房・田中欣一著)所載の地図です。



こうして海岸と内陸の生活場拠点を結ぶ交易路─塩の道は各地にあったと思われ、栃木県など関東内陸部にもその伝承値地があり、岩手県には南部藩の沿岸にあった野田に『塩の道』または『のだ塩ベコの道』と呼ばれる街道があったようです。調べてみると高知県でも「塩の道保存」という活動があるらしいです。明治以前の日本中の海と山間部を歩いて結んだ交易路はほとんどがこうしたものかもしれません。


しかし、その中でももっとも有名なのがこの糸魚川と松本を結ぶ「糸魚川街道」あるいは「松本街道」「千国街道」と呼ばれる道になります。千国は街道の中ほどの中継基地になっている街で松本藩の番所があったとことです。街道といっても大名行列が通る五街道などとは違って純粋に物資や人の往来に使われた道ですが、日本海側から信濃を経て太平洋岸につながる列島横断道なので通行する人の数は多く、沿道の宿場はかなりの賑わいを見せたようです。松本藩はその政策として塩の流通をこの内陸交易路だけにしていたため、瀬戸内海地方などで生産された塩は日本海航路で直江津などに運ばれそこから陸路で内陸に移送されたのです。


とはいえフォッサマグナ沿いの陸路は日本アルプスの険峻な山々とその間を縫う姫川の急流です。標高数百メートルの山々の間を縫うようにして延々伸びているこの街道は、そうでなくても楽ではない上にここは日本有数の豪雪地帯ですから街道各所に残る多くの石仏や休憩小屋・泊込小屋にその実態を忍ぶことができます。


 牛が運んだ塩と物資


実際の運搬にあたったのは重い背負子を担いであるいた歩荷(バッカ)と呼ばれる個人の人足と牛に荷駄を積んで数頭を追いながら歩いた牛追ですが、明治に入り、道が整備され、馬による輸送、さらに自動車、鉄道による輸送が可能になるに従い、徐々にその数は減ります。大正時代頃までは利用されていたようで、最終的にこの道を利用する人はかなり近年まであったのではないでしょうか。


そして、現在になると、この「塩の道」は観光資源としての価値を高めてきます。旅行ブーム、僻地ブームの中で、糸魚川市、小谷(おたり)村、松本市などの沿線自治体は、白馬などのスキー場、登山観光に加えて、塩の道をPRし始めます。「塩の道」全区間を整備し、歩いてまわれる「ロングトレイル」と位置づけ(中心は小谷村の観光連盟や商工会)案内パンフや詳細な地図を作製しています。「塩の道祭り」は毎年春(5月)行われ、秋(11月)には「塩の道ロングトレイル」という、小谷村から糸魚川市を往還する制限時間24時間の80kmと小谷を往還する42kmの2つのコースの本格的なイベントが実施されます。

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