綾瀬川の起点─備前堤2024年11月01日 12:55



前の記事で紹介した江戸幕府創成期の代官頭である伊奈忠次の業績の中で現代まで繋がっているひとつが河川の改修です。洪水を防ぐために堤防を築いたというようなレベルではなく、利根川、荒川という現在の関東地方の2つの大河川の流れを変え、埼玉県から東京東部までの広大な湿地帯を人が住み農業ができる平野に変えたという意味で「現代の東京の基礎をつくった」といえるほどの大事業なのです。もちろん、これだけの国家事業ですから基本プランは統治者である徳川家康であり、伊奈をはじめとする技術官僚たちはそのプランを実行しただけともいえますが、現代のようなしっかりした政治官僚機構がない時代ですから、個人の力量による采配が大きな力を持ち、実際の官僚であった代官達の中でも、伊奈忠次や大久保長安のような代官頭と呼ばれる官僚が(当然、家康の権力を背景にしていたでしょうが)強力で独占的な権力をもって事業を遂行していったと思われます。


当時の関東地方の河川をめぐる地形がどうなっていたかというと、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行に南化して東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、渡良瀬川下流部は現在の江戸川の流路に近く、「太日川」(ふといがわ)と呼ばれ、当時の利根川本流とはほぼ平行して南流し、東京湾への河口も異なっていました。利根川本流は現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いでいましたが、北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合流分流していました。下の地図は黒田基樹著『太田道灌』に掲載されている15世紀以前の関東地形図です。上記の「太日川」と「利根川」さらにまだ別の河川であった荒川、入間川の様子もわかります。現在でも埼玉と東京の東部地区は何本もの河川が交流していてなかなか複雑ですが、改修以前はこれらの河川が洪水のたびに合流分離を繰り返す低湿地であったことが地図を見るだけで分かります。




このようななか、徳川家康江戸入府後、伊奈忠次らにより、利根川の河道を付け替える工事が始まります。文禄3年(1594年)に会の川を締め切り、元和7年(1621年)には浅間川を締め切り新川通を開削し、利根川の中流を一本化して加須市旗井(久喜市栗橋の北)で渡良瀬川に接続します。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなり、それまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれました。


その後も変遷は続き、じつは大正、昭和時代まで利根川、荒川の付け替え事業は続くのです。江戸が終わっても大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていました。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となったというじつに長い歴史があります。


荒川についても、寛永6年(1629年)に久下地先(現熊谷市)で締め切られ、利根川水系と切り離されて入間川筋を本流とする流れになりました。慶長年間(1596年~1615年)には「備前堤」が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源となりました。これにより、埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させました。このように、備前堤の建設は荒川改修の開始という大きな位置を占めていますが、この堤は現在地では、伊奈陣屋のある伊奈町から近接している桶川市にあります。


現在ここが「綾瀬川の起点」ということで記念碑がつくられ、すぐ近くには「備前堤の碑」もあります。桶川市教育委員会が作成したこの備前堤の碑には「この堤が伊奈備前守忠次に由来する」ことは書かれているものの「この堤の完成によって下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだという」と桶川地域には利益をもたらさなかったような否定的な記述があり、地域の複雑な事情を感じさせ、これがもし伊奈町にあったらかなり違った記述になったのではないかと思われます。気のせいか、あまり碑の管理もされていないような日陰もののような雰囲気がします(個人の感想?)。

飯能の街と渓谷2024年11月10日 08:49


飯能(はんのう)という街は私が小学生時代に「夏の水遊び場」として何回か来たところです。家族連れで来たとは思うのですが、思い出としては、名栗川(といっていました)の流れを堰き止めて作った巨大な川のプールで、泳ぐというよりはひとりであちこと歩いて遊んだことばかりが残っています。水面を飛ぶ巨大なオニヤンマに目をみはり、弱ってはいましたがヤツメウナギも捕まえました。アブにも刺され、今思えば70年近く前の飯能の自然はとんでもないものだっと思うのです。千葉(勝浦)の海にも(親戚がいたので)いってはいたんですが、名栗川はまた別格の楽しい場所でした。


その後、山歩きをするようになってから飯能に行くようになりましたが、当然、飯能の周囲やその奥に広がる地域が目的なので、駅に降りてもすぐにバスに乗るか、あるいは西武秩父線に乗り換えるというだけの場所になっていました。ただ、「まち歩き」の目的地として飯能の街は意識していましたので数年前から調べてはいました。その過程で街をあるき、入間川(名栗川)の飯能河原にもいき(環境は相当に変化していましたが)久しぶりで子供時代の雰囲気を味わうこともできました。おなじみの「まち歩き」でこの飯能を訪れたのはこの10月末のことです。以下、その模様です。


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良い時期を選んだつもりだったのですが、駅を出た途端に雨が降り出すという展開─天気予報では午前中はくもりの予報でしたが、これだけはわかりません。ここまで来て中止もできず、天候も回復基調ということで傘を差しての出発となりました。それでも29名という大人数、二手に分かれての見学開始です。


飯能は材木と絹織物で栄えた街です。火事の多かった江戸時代には材木の需要が盛んで、入間川や高麗川(最後は荒川になる)の水運により10日ほどで江戸に運ばれる秩父・飯能の材木は「西川材」と呼ばれ、飯能の町も賑わいました。明治以降になると、日本では養蚕や生糸の製造が基幹産業に位置付けられ、昔からの養蚕地であった飯能は、その立地条件を活かしながら発展していきました。今も、昔からの店舗や住宅が残る飯能大通りは、この当時には商業地としてかなりの一等地だったそうで、この通りはもちろん、町全体にそうした繁栄の名残を残しています。これが現在につながり、歩くたびにその良さを発見できます。



午前中の飯能の町中散策では、飯能のNPO法人ハンノウ大学が作成した『歴史建物めぐりお散歩マップ』を使用しました。この地図を駅で各自に配布し、2グループに分かれて時間差のでまち歩としました。道が狭いためですが、思ったより危険はありませんでした。 いただいたお散歩マップは一見ラフのようですが、道路や建物の位置関係は大変正確に書かれていて、この地図に従って歩けば心配なく見学ができるようになっています。集合地点の東町交差点から、(このマップにある)見学建物の数字順に実際の店や家をめぐるという感じです。


町の中央部にある「飯能織物組合事務所」は大正11年の建築で国指定の文化財です。絹の検査や関係する税の徴収は、すべてこの同事務所で行われたということ。その取引で蓄えた財力で、武蔵野鉄道(現西武鉄道)を呼び込むことにも成功しています。洋風でありながら、屋根の両端にしゃちほこが据えられ、独特の和洋折衷様式を今にとどめています。やや老朽化して、保存の必要がありそうです。



これも中心地にある「店蔵・絹甚」は明治30年代後半に建てられた土蔵造りの店舗で、建築当初の様子を残しいて細長く中庭まであります。飯能の歴史を考えるうえでも貴重な文化財でしょう。その他、多くの民家や商店、旅館など、いずれも興味深く、道をあちこち移動して歩きながら埼玉県でも東部南部の商業都市とは違う生活文化が栄えていたことが感じられます。小雨の中ですが、参加の皆さんは感慨深げに見学を続けました。


最後の絹蔵絹甚に入っているうちに雨もあがり、「仲町交差点」から通りを北へ進み、街を少しはずれ、分岐点にある「鶴舞地蔵」で右方向、西武線をくぐり山沿いにある智観寺に向かいました。


智観寺はかつて水戸徳川家に仕え、常陸松岡藩の大名となった中山信吉や中山氏の墓碑が多数おかれています。近くには中山家居館跡(県指定史跡遺跡)もあります。この館は、中世武士団の館跡として著名で周囲には堀や鎮守一二社や守護神が置かれ、中山家に仕える武士の居宅があったそうですが、現在は空濠のほんの一部を残すのみです。中山氏については最後に行った市立博物館にも多くの展示がありました。


中山家範館跡見学後、町中にもどり、飯能河原交差点から飯能河原に行き、ここで昼食・休憩。河原ではそろいの青い帽子を被った小学生がにぎやかに食事中。われわれも食事をしたあと、二手に分かれて午後のコースへ。ひとつは、入間川にかかるいく本かの橋を渡る軽いハイキング感覚で、金蔵寺・八耳堂(太子堂)・軍太利神社へ歩き、最後に飯能市立博物館にもどります。もうひとつのグループは、飯能河原から直接、飯能市立博物館へ向かいます。


ハイキングコースの一行はまずは河原からすぐに入間川の上流の渓谷沿いの遊歩道を散策スタート。すでにここから吾妻峡が始まっているのです。この吾妻峡は市内に近いわりに観光化されていないほぼ手つかずの入間川(名栗川)の自然渓谷で、木々と巨石群、清流に出会えます。両側の河岸段丘は高さ20メートルくらいありそうで崖はかなりの急坂になっています。


ただしややハードな付近は歩かずに適当なところで河岸段丘沿いの道路にあがりました。川沿いの道を歩きだすとすぐに金蔵寺や八耳堂にでます。金蔵寺は鎌倉時代の当地の豪族・大河原氏の菩提寺ですが、今やその面影はなく、境外仏堂であった八耳堂だけが残っています。八耳堂は太子堂とも通称され、保元年間(1156-1158)に創建されたと伝えられ、現在の堂宇は文政3年(1820)に再建されたものとのこと。横手に不思議な池があり、堂宇横には、飯能市有形文化財に指定されている宝篋印塔が置かれています。さらに、その奥には軍太利神社があり、そのまま大河原氏が城砦として使用したとされる龍涯山に続いています。いまや見学者もあまりいませんが、飯能の歴史の古さを物語っているようです。


飯能博物館では「飯能の山旅」という企画展が開催されており、興味深い旅行パンフレッ


トや古い絵地図が展示されていました。

ある講演会のきっかけ2024年11月11日 12:55

先日(11月3日)埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会で講演会「大久保長安~鉱山開発・街道整備に残した実績と謎の生涯」を開催しました。この講演は今年の春ころから企画していたもので「江戸幕府創成期を支えた2人の総代官─伊奈忠次と大久保長安」を取り上げ、同じ講師である和泉清司氏(高崎経済大学名誉教授)により2回連続の講演になります。1回目の大久保長安に続いて、伊奈忠次については、次回、2025年2月に開催することにしています。


大久保長安は、八王子の街づくりを行ったことが知られていますが、今年世界遺産登録された佐渡金山(今年7月)や石見銀山(2007年)などの開発に手腕を発揮していますが、他にも中山道・東海道など伝馬交通制度の確立や検地・町立など幅広い業績で幕府の基礎を築いたとされます。その一方で、その死後に一族が過酷な断罪を受けるという波乱の生涯により多くの謎を残している人物です。


大久保長安だけでは、関東特に埼玉県のひとにはあまり馴染みがないかもしれませんが、伊奈忠次であれば、利根川や荒川の付け替え(利根川東遷、荒川西遷)、知行割、寺社政策など、江戸時代を超え、現在の関東のインフラをつくったとの評価もあり、埼玉県内をはじめ関東各地には「備前堀」や「備前堤」と呼ばれる用水や堤防が残っていますが、これはいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。


講師の和泉先生は徳川幕府成立期の経済社会史研究の第一人者ですが、特に代官文書などを関東・東海ばかりでなく九州まで後広範に調査・収集解読しています。この日も、大久保長安の甲斐時代から関ヶ原合戦後の関東などの領国支配、金山銀山開発の経過とその推移が及ぼした影響、さらに東海道、中山道などの伝馬・交通政策を詳しく説明。さらに家康大御所時代の「年寄衆」としての役割なども触れ、知られている以上のその実力ぶりを発揮したことに言及しました。さらに最後に、死後の過酷な糾弾には、江戸幕府内の権力争いがあり、それに利用されたとして、その後、幕末以後に大久保長安の功績は見直されているが、現在まで偏見が残っているとして、正しい評価をするべきと述べたのが印象的でした。


この講演会の企画のきっかけですが、たまたま八王子にある揺籃社という出版社が今年(2024年)に『定本・大久保石見守長安』を出版したことを私が知っていて、その著者の和泉清司氏が数年前に『伊奈備前守忠次』という著書を(出版社は違いますが)出していることも知り、この江戸幕府創成期を支えた総代官のふたりを同じ講師で取り上げられるのではないかと考えたわけです。


そして、この揺籃社の親会社は清水工房という印刷会社で、その創業者の清水英雄さんは私が20代のころから知っていて、その後の自費出版ネットワークという団体の活動の中では長くお世話になっていた方なので、今でも情報だけは受け取っており、その中でこの『大久保長安』のことも知ることになったという経緯があります。長い人生の中のいくつかの触れ合いで生まれたイベントということになります。