爺が岳からフォッサマグナへ ― 2024年09月16日 13:46
9月の初めに富山・新潟県境への登山。そのあとに糸魚川まで移動して「フォッサマグナパーク」見学と短い「塩の道歩き」を体験しました。ここ何カ月の間、調べていた場所に、ほんの少しですが、行くことができたわけです。
後立山連峰の爺が岳(2669m)は、少し前のNHK特集の『日本アルプス誕生』で回転隆起という壮大な造山運動の結果できあがった山という説を見て以来、憧れていた場所ですが、北アルプスの山の中ではそれほど困難な場所ではないという情報もあって、最後の日本アルプス登山にしようと思っていたのですが、山の会の人たちはその先にある日本百名山の鹿島槍ヶ岳(2889m)にも登る(というかこちらが目的)の人たちなので、その手前の山小屋まで同行することになりました。結果として、最後の日の下山行程が長くなり、かなり苦労するというおなじみのパターンを繰り返してしまいました。
ライチョウには会えました
爺が岳への登頂は2日目のことで、3日目の帰り道でも山頂付近を通過したんですが、今回この山はあくまで目的地でないのでほとんど時間がとれず、造山運動の証拠である垂直断層などの特徴的な岩石群を目にすることはできませんでした。しかし、広大なハイマツ樹林帯の上に現れる白く荒々しい岩石群はいまなお成長を続けている大地の生気を感じました。また折よく濃霧の中で4羽のライチョウがすぐ目の前に現れ楽しい思いをしました。そこから登山口扇沢までの数時間は長く大変なことになり、長時間の山歩きは無理だとあらためて悟った次第です。
登山口の扇沢から大糸線の信濃大町駅まではバス便ですぐでしたが、問題は大糸線です。特に、ここから糸魚川駅までの大糸北線は日本屈指の過疎ローカル線です。まずは南小谷駅まで乗車。これですでに乗客は数人のワンマン線になり、南小谷では降りる人はいませんでした。(下山が遅かったということもあって)午後6時過ぎということもあり、暗く、閑散とした駅に待つこと1時間半ほど、ここからは非電化区間でたった1両のジーゼルカーです。大糸線は日中の時刻表がほとんど空白と思えるほど極端に便数が少なく、バス代替を含めてもほぼ1時間に1本という感じ。糸魚川には午後8時過ぎに到着。それでも10人くらい、ほとんど旅行者と思われる客が降りましたが、驚くことに改札口は無人で切符を渡すこともできませんでした(ちなみに次の日の登りに乗った時にも10数人の客がいましたが、これもほぼ旅行者のようで、もう大糸線は観光路線化するしか生き残る方法はなさそうです)。
塩の道の起点から歩きだしたが―
糸魚川で泊まった駅前のホテル「ジオパーク」はなかなかいい感じのビズネスホテルで、また来る機会があればと思ったほど。次の日は朝早く出発。まずは日本海を見るために海岸へ。しかし国道沿いの海辺には無数のテトラポッドと護岸堤防で固めれれていて、特設の展望施設に登ってはじめて海が見えました。遠く東の能登半島は鮮明でしたが、西の佐渡島ははっきりしません。たまたま居合わせた青年は金沢から来て、昨日、雨飾山に登ったそうです。駅にも雨飾山のポスターがありましたが、この付近の名山という感じのようです。
近くの道路には「塩の道の起点はこちら」という標識があり、歩いていくと、小さな道の脇に鮮やかな看板が建てられ、東西方向の北国街道(ここでは加賀街道)と垂直に交わる一角に「糸魚川道路元票」と白く刻まれた石柱がたっています(写真)。付近の街道沿いの町並みはほぼ同じ高さの2階建てで、道沿いに雪除けの軒が張り出して、古街道にふさわしい美しい街の景観を形成しています。
そんな一角から歩き始めたわけですが、海沿いで涼しいとはいえまだ暑苦しい上に、昨日までの登山の疲れで足が重く、しかも(運悪く、昨日から)スマホの充電ができないので、写真用に節電するためGPS機能を使えず、初めての場所なのに、地図はあれど道が分からず、この日の目標としては山間部を抜けて「フォッサマグナパーク」に到達する予定でしたが、1時間ほど進んだところで(いろいろ地元の人に聞いたりしましたが)あきらめて糸魚川駅に引き返し、大糸線で2つ先にある根知駅まで移動、そこから徒歩15分くらいでいける同パークを見学することにしました。
パークといっても、根知川という姫川の支流が削り取った段丘の一角が保護してあり、歩いてそこまで行けるようにしてあるだけで特別の施設などがあるわけではなく、建物ひとつありません。説明用パネルはいくつか設置されていて、ここがどんなところなのかが分かるようにはなっています。注目のヨーロッパプレートと北米プレートの境界とされる地点の露頭は、回りをボルトで固定された異様な空間になっていました。崖の中腹から近くに歩いていけそうですが、現在は立ち入り禁止になっています。ただ、下からも十分に見えます。写真のように断層の中央部の左右の岩石の色が違うのがわかります。左つまり西側が3~4億年前の古生代の岩石、東側が1600万年前の新生代の岩石だそうです。こういうはっきりとした境界は破砕帯ですから、これが地上に露出する場所は非常に珍しいのです。
フォッサマグナと呼ばれる、この断層帯はここ糸魚川から太平洋岸の静岡まで続き、さらに海に入ると南海トラフの海中谷にもつながり、日本列島を2つに区分しています。これは純粋に地形現象なのですが、このラインの東西で日本の文化や風習まで違うという面白い現象があります。地形が人間の生活に与える影響と思います。
このパークまでは少数ながら見学者がありますが、先に行く人は見当たりません。この根知川の谷を少し先まで上流に遡ったところにあるのが「塩の道」で、上記の糸魚川の道路元票からいくつかの低い峠を越えるとこの場所に到達します。しかし、ここに関心を向けるひとはあまりないようです。塩の道の地図で見ると「仁王堂番所跡」に出るのですが、特に何か変わった場所ではないので無理もありません。少し登った道(写真)もまぁ普通の道路。少し進むと古道風の道も現れます、
この道を南下して(フォッサマグナに沿うように)100キロほど進むと目的地の松本(塩尻)にいたります。これが、江戸期以前からから戦前まで塩を含む日本海の様々な物資を運んだ道路で、場所により「千国街道」「松本街道」「糸魚川街道」と呼ばれ、松本藩による関所もつくられるほどの重要な輸送路でした。明治期までは人の手(歩荷=ぼっか)と牛追いによる人力でした。
姫川沿いの道路や鉄道の開通によりこの塩の道の役割は終わりましたが、現在でも生活道路、緊急道路としての役割はもちろん、最近は、これを地域活性化の手段として活用しようということで、沿道の小谷村などが中心となって「塩の道トレイル」がPRされています。目の前の北アルプスの雄大な風景を眺めながら、安曇野の里山を歩き、驚くほど多くの石仏など道路沿いの文化財を楽しむという、この街道歩きはけっこう人気があるようです。私も今回の中途半端な「移動」を反省し、あらためて踏破してみたいと思います。
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