「鹿手袋」という地名2018年02月02日 15:54


私の最寄り駅のひとつ北朝霞から武蔵野線で2つ先に武蔵浦和という駅があります。現在はさいたま市南区ということになりますが、旧浦和地区の西部に当たります。埼玉県内でも地価の高い「高級住宅地」ということでも知られていますが、この近くに「鹿手袋」という珍しい地名があります。「しかてぶくろ」という読みになっていますが、古い人は「しってぶくろ」といっていました。

駅をおりてぶらぶらしてみれば、神社の崖下にちいさな池があったり、その続きに沼があったり(白幡沼)、すこし行けば有名な別所沼公園があったりと、なんとなく湿った雰囲気が感じられますが、「しって」も「ふくろ」もそんな湿地帯に由来する言葉だということです。

今度、この辺のまち歩きをしようということであらためて調べてみると、この「鹿手袋」地区が田島排水路と別所排水路に挟まれた文字通りの袋状の土地であることがわかりました。実際に、武蔵浦和駅前からこの田島排水路(現在は暗渠化され、遊歩道になっています)を歩いてみると、北側が鹿手袋という地名、南側が沼影など他の地名であるのがよくわかります。道は南に開く形でゆっくりカーブしていて、この田島排水路がかつてここを流れていた入間川の流路であったという事実を示しているようです。これを知ってみると土地と地名の成り立ちがなんとなく納得できます。

先ほどの神社とは、すこし北にある大宮台地上の睦神社のことですが、この神社の社叢林の解説パネルに『この台地の縁辺にかつて太平洋の暖流が打ち寄せており』というロマンあふれる言葉がきざまれれています。縄文時代以前には東京湾の一部になり、その海が退くと大河が流れ込んで台地の崖を侵食して崖線を形成。さらに流路が変化すると、その名残の沼や小河川が残されてできた地形ということになります。

やがて人間の生活が始まり、江戸時代以降、ここは旧中山道ともすこし離れたのどかな農村だったようですが、昭和になり、1935年に全線開通した新国道(現:国道17号)がこの地を通ったことで状況が変わります。さらに決定なのは、1973年にJR武蔵野線が開業、そして1985年(昭和60年)に埼京線の開通に伴い武蔵浦和駅が誕生したことです。これにより東京・埼玉県北・千葉県という3方面への移動が可能になり、さらに新大宮バイパスの開通もあって交通の要衝になります。

当然、住宅地が増え、農地は減少。このため、小河川は次々に埋め立てられたり暗渠になったりして視界から消え、遊歩道や池のあるきれいな公園の多い高級住宅地として人気を高め高層マンションも立ち並ぶ街の風景が形成されたというわけです。それでも少し歩けばかつての海や河川の流れた地形を感じさせる場所も多く、点在する板碑や石仏などにかつての農業地帯の文化を感ずることができます。

この田島排水路が流れ込むひとつが鴻沼川ですが、この川を遡っていくと、私が暮らしていた大宮の日進町(さいたま市北区)にでます。武蔵浦和駅周辺も、今後、私の散歩道のひとつになりそうです。

上の写真は白幡沼。対岸の崖上は大宮台地です。

ファーブルの登山2018年02月08日 19:45


ヴァントゥ山(モン・ヴァントゥ)はフランス南東部にある標高1900メートル余りの山で、ピレネーやアルプスなどの大きな山脈に属さないため「プロヴァンスの巨人」という異名を持っているそうです。『昆虫記』で名高いファーブルはこの山に25回も登っています。特に登山家でもないファーブルですが、生活の場の近くにあり、植物や昆虫のさまざまな姿が見られる場所としてこんなにたくさん登ったのでしょう。30年間にわたり書かれ続けた『昆虫記』の第1巻に書かれていますから、ぜひとも記録に残したい思い出のひとつでもあったのだと思います。

1879年、ファーブル55歳の時に出版されたこの『昆虫記』第1巻から、当時の登山の様子を知ることができます。この時の登山は1865年8月、23回目のもので、グループは8人。このうち、目的のある研究者は3人だけで、あとは誘いにのった同行者のようです。便利な交通手段のない時代なので前日に麓の村で一泊していますが、これが「カフェを兼ねたかなりさわがしい宿屋」だったらしくファーブルはほとんど寝られなかったと書いてあります。

当時のヴァントゥ山はかなりのハゲ山状態だったようで、最初の登山道から相当の悪路、難路の連続で、ファーブルは『道路工事に使う割り石を(2000メートルまで)積み上げた』ような山だという表現をしています。中腹になるとやっとブナなどの広葉樹林体があらわれてきます。ファーブルのことですから植物の垂直遷移については細かい説明があります。1時間以上かかってブナの森を抜けた場所に清冽な泉があり、一行はそこで昼食休憩をします。彼らの食欲は素晴らしい。持参したお弁当の中身が全部書いてありますが、かなり豪勢です。羊の干腿肉と山の様なパン、ニワトリ(肉)、チーズ、サラミソーセージ、油漬けのオリーブ、メロン、壺入りのアンチョビそして当然ワイン。デザートということでタマネギ―日本のと違って塩をつけて生でかじるのだそうです。ヨーロッパ人ですから当然肉食中心なのですが、こんなに食べてワインを飲んで大丈夫かと思います。

1時間ほど休んでから稜線を歩き、一度山頂に行っててから少し下にある小屋に向かう予定をたてます。山頂の反対側は切り立った断崖になっているようで石を投げて遊んだりしています。山頂でファーブルはジガバチの一種が何百匹も固まって石の下に潜んでいるのを発見し、確かめようとしますが、その時に急に雨が降りだし、おまけに白い霧が湧き出て一行の視界をふさいでしまいます。天候の急変は山の常ですが、独立峰のこの山ではさらに多いのだそうです。いま歩いてきた森林のある方角に戻って登山道を下ればいいのですが、白いガスの中でまった方向がわからない状態になってしまいます。うっかり反対に歩けば恐ろしい断崖です。登山家でない彼らは磁石も地図をもっていません。この山に20回以上来ているファーブルが頼りですが、本人もまったくわからない状態になります。

結局、彼らは身体のどちらが濡れているかで最初に雨の降ってきた方向を確かめ、森林帯にたどりついてからはファーブルの知識で生えている植物の種類で道を探し出し、無事に小屋にたどり着きます。登山道といいましたが、当時は、夏になると羊飼いに連れられた羊たちも登ってきたそうでまったくの生活の道だったようです。また小屋といっても石造りの小屋は屋根に穴が開き、煙が充満した部屋の中で、木の葉を重ねた上に寝るという始末で、とうとう2日目も睡眠不足で下山となったようです。一行8人のなかで、研究者以外の5人は2度と山に登ろうとはいわなかったそうです。
(写真は「wikipedia」よりの転用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A5

「ユガテの里」とは2018年02月16日 17:09


地元の山の会「山遊会」で奥武蔵の山を歩きました。奥武蔵地域には、埼玉県で最古の慈光寺など多くの神社寺院が山中に静かに佇んでいます。黒山三滝など修験道の聖地でもあります。相当前には歩いた記憶があるのですが、最近はバスで回ってしまうようなことが多く、これを機会にひとりでも行ける場所は歩いてみたいと思います。

今回、廻った中で気になったのは東吾野駅から1時間ほど歩いた場所にある「ユガテの里」です(上の写真)。標高は290mとのこと。ここは、謎の集落とか桃源郷とかネット情報がありますが、低い山に囲まれた盆地状の平地で、畑やユズやウメの小さな果樹が植えられています。数は少ないですが集落なのです。現在はここで休憩するハイカーが多いようでベンチやトイレもあります。

さt、地名「ユガテ」についてです。「湯ガ手」「湯ガ天」などいろいろな字があてられていますが、正式解釈ではユガテの語源は「高い平地」ということなのだそうです。アイヌ語源とか詳しいことはわかりません。お湯がでたとかの伝説?は「湯」という漢字にひかれて後から生まれたものだと思います。こうした山中の小さな集落は次第に消えていくような気がします。

この日の最終地は桂木観音ということになっています。着いたのは正午過ぎ。峠の頂上にあり、付近には開放的な空間が広がっています。昼食後、石段を登って観音様へ参拝。無住のようですが、大きな観音堂の前に置かれた縁起には「行基菩薩が東国行脚をした時、ここに立ち寄った」とありました。観音様は見えませんが千手観音とのことです。行基といえば、あの空海よりも前の時代に西国を中心に活躍した僧侶ですが、関東にもその足跡の伝説があるようです。

さて、今回は予定を変更してバスに乗らず越生まで歩くことになりましたが、そのおかげでひと山越えた先にある虚空蔵尊というこれまた古そうなお寺に立ち寄ることができました。真言宗のお寺で石段前の高札には御本尊三体がこれも行基作と書かれています。狛犬の一体が牛というのも珍しいところです。

『平家物語』を楽しく再読2018年02月19日 14:53


このブログの216/02/11の記事に「『平家物語』をきちんと読んで記録をつけてやろうと思い始めた」と書いてありますが、なんとその後の2年間、ほとんど進展していません。『平家物語』は高校生の頃から好きでしたので、2年前のブログを書く前にも読んではいたのですが、古文を読む素養がないもので、きちんと読んでいたかどうかは疑わしい。時間ができたのを機会にこんな決意をあらためて表明?したということです。

もともと『平家物語』は、古典文学としては非常に読みやすい、つまり難解でないという特色があります。琵琶法師が話して聞かせる芸能として成立したということが大きな理由かと思います。ストーリーも単純ですし、歴史=年代記そのままでない創作の部分もあるようでその分理解しやすい。実は、私は、新潮日本古典集成というシリーズの中の3巻セットを持っていまして、繰り返しになりますが、一応、通読はしているんです。しかし、この古典シリーズにはいいかわるいかは別として、本文の横に色刷りで難解な文節への現代語訳が掲載されています。このため、ついつい現代語訳のほうに目がいってしまい、原文(古文)を読んだとはいえない気がしていたわけです。

また、新潮日本古典集成版は「八坂流」とよばれる写本を基本にしています。『平家物語』にはもうひとつ「覚一本」と呼ばれる系統があります。実際にはさらに様々な写本があるわけですが、この「覚一本」のほうが広く流布されていまして、作品論などの引用にも使われることが多いと思います。覚一とは『平家物語』を集大成した中世の琵琶法師といわれています。

ということで、もう一度読むならこの「覚一本」でと思っていたわけですが、これが1冊に納まっている『平家物語 覚一本 全』と、まさにぴったりのものが見つかりましたので購入。480ページという大冊です。頭注はついていますが、本文は原文のみですから、文字は大きいですが、確かに、すらすら読めるとはいきません。調べながら楽しんで、少しずつ、中世と現代を行き来する時間をつくりたいと思います。

上の図は国会図書館デジタルコレクションの中の「平家物語」より:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590758

近所の巨木2018年02月23日 13:21


大きな樹木には心惹かれるものがあります。私は格別のマニアではありませんが、先日の熱海・来宮神社のクスノキの巨木には感動しました(http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2018/01/31/8780061)。数年前には、尾道から今治に至る「しまなみ海道」観光で立ち寄った大山祇神社の、これもクスノキの大樹に驚きました。クスノキの巨木は西日本に多く、日本一の巨樹も鹿児島県にあるクスノキで、これはぜひ見たいものです。

私の住んでいる近くでの巨木となると、すぐに思い出すのはさいたま市浦和・玉蔵院の大ケヤキ。これは近くに行くたびに鑑賞します。関東地方では大きくなる樹としてはケヤキやイチョウが目立ちます。大宮・氷川神社参道にも数本、ケヤキの巨木があり、これは月に数度は触れる巨木です。

住まいでの一番近くでの巨木となると、歩いていける範囲では埼玉県志木市の寶幢寺(ほうどうじ)があります。真言宗の古刹なのですが、境内に巨木が多く、遠くからでも目立ちます。寺の前には「寶幢寺古木あんない」という掲示板が建っていて、樹種と直径、高さが記された番付表が記されています。それによると横綱は長屋門近くのイチョウの木で太さ5.67メートル。ついで大関は山門近くのケヤキの大樹で太さは4.82メートル。関脇、小結もケヤキになっています。大関のケヤキは樹高では一番で37.5メートルもあります。一般に人間界での巨人とは身長の高いひとをさしますが、巨樹の世界では胴回りの太さをいうようです。上の写真で、右に見える太いのが大関のケヤキの木。その左に枝だけ見えているのが横綱のイチョウです。

この「寶幢寺古木あんない」は教育委員会の調査によるものらしいですが、寶幢寺境内には直径3メートル以上の木が10本ありますから、志木市内はもとより、近隣の市町村を含めても珍しい巨木の寺院ということになるかもしれません。

この寺のある場所は武蔵野台地と荒川低地の境目にあたり、10メートル以上の崖下には川越と江戸を結んでいた新河岸川という運河が流れています。武蔵野台地は江戸期になると牛馬の放牧場や牧草地になり、一面の草原と雑木林になったといわれていますが、それ以前には(少なくとも数百年以前には)こうした大木の茂る森林も存在したのでしょう。