毛呂山町の北向地蔵 ― 2019年02月13日 19:37

2月の初旬、飯能方面への山登り。西武秩父線の東吾野駅から出発して物見山、日和田山方面をまわって高麗駅まで丘陵地帯を歩こうという計画です。登山というよりハイキングですかね。この地域は飯能市(吾野)、日高町、毛呂山町が入り組んでいますが、大雑把にいえば高麗の里でしょうか。
縄文時代中期(約4500年前)の住居跡が発見されるなどかなり古くから人びとの生活が営まれていたようですが、なんといっても平安時代の渡来人入植に始まる歴史を持っている場所です。しかしこの山中の狭い平野では生活は厳しかったようで、それを物語るのが、途中、いくつかの登山道の傍らや昔の生活道路と思われる踏跡で見かける雨乞塚や仏塔、お地蔵様、水神碑などの遺跡や石像物です。
その中で印象に残ったのは、毛呂山町から吾野方面への分岐点に祀られている「北向地蔵」です。立派な地蔵堂のなかに3体のお地蔵さまがきちんと並んで赤い頭巾をかぶって可愛いです。かなり風化しているようですが、地蔵とともに「右:白子より子の権現、左:横手より大山道」という表示が刻まれていて道標(道しるべ)の役割も果たしていたようです。今でもハイキングコース上の位置確認ポイントになっています。
毛呂山町教育委員会作成の解説文が地蔵堂の脇に建てられていますが、最近(2018年1月)新しくつくられたようで、以前より内容が詳細になっています。それによると、江戸時代の天明3年(1783年)の浅間山噴火による天候異変で日本全国に飢饉が発生して、この地方も大きな被害を受けます。天災や疫病をなくすためには神仏にすがるのがこの時代の人々です。天明6年(1786年)に野州・岩舟町(栃木県栃木寺)の岩船地蔵尊から分身を譲り受け(いわゆる勧請)ここに祀ったようです。その際にお地蔵様を岩船地蔵の方角である北方に向けて安置したことから「北向地蔵」と呼ばれているようです。こう呼ばれる地蔵尊は全国にかなりあるようです。
いまでもていねいに管理がされ、登山者の多くの人が手を合わせていきます。秋の彼岸花観光シーズンにはかなりのひとが訪れるものと思います。
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