三原山は強風でした2019年03月17日 16:27


伊豆大島は高校生のころ行ったことがありますが、その時は海を泳ぐことが中心。今回、は三原山の登山です。ただし、ここは観光地、標高550メートルまでバスで行きますから相当もの足りないとは思いますが、予想外の天候と強風で思わぬ体験ができました。

日曜の夜、22時が出港予定なので、参加者(朝霞の山遊会)9名は20時前に朝霞駅に集合。竹芝桟橋にはかなり早く着きましたが、ここで今回予約をまとめてくれたS氏が東海汽船からの不安な情報を聞かされたそうで、どうも大島到着が予定より3時間遅れるようです。ホテルでの朝食や入浴は無しになります。原因は天候悪化とのことですが、この天候には最後まで悩まされます。大島から先の島へは欠航とのこと。

22時、予定通りさるびあ丸に乗船。格安プランなのに船室は特2等で、カーテンのついた2段ベッドで、すっかり喜んだ参加者は写真を撮ったり子供のようにはしゃいでしまいました。出港直後、デッキからレインボーブリッジやお台場などの東京港の夜景が華やかに見え、順調に思えましたが、全員が静かになったころ船内放送があり「台風並みに発達した低気圧の影響があり、本船は羽田沖で投錨し、明朝6時に出発、大島着は午前9時になります」。

11時過ぎ、ガラガラと錨を降ろす音が響き、消灯。ということで朝まで停泊していたため揺れはほとんどなく船酔いの人もいなかったようです。ただベッドの床が固く眠れなかった人はいたようです。朝、6時過ぎに起きると船が揺れています。外の甲板には出られませんが、荒れる海の様子は見えます。右舷の霧の中に利島(としま)がうかび、やがて天候が回復すると東の空には薄日が差し始め、反対側の水平線には虹も現れました。

午前9時、3時間遅れで伊豆大島・岡田港に到着。派手な黄色の路線バスで直接三原山頂口へ向かいます。他の団体は数人の家族連れだけでしたが、黒いコートに黒い帽子の中年男性が親し気に寄ってきて何やらアドバイスめいたことをいってきます。この旅行者は帰りの船まで一緒でした。

山頂口にはいくつかの店がありますが、そのうちの一軒が昼食場所になりますので1時前には帰ってこないといけません。三原山は直径300メートルほどの中央火口の周りを600~700メートルの火口壁が囲んでいます。9時30分、登山道(?)を歩き出します。坂道ではありますが、溶岩流がつくった荒涼たる平原の中を整備された舗装道路が蛇行しているという感じです。途中、1986年の全島避難時の噴火の際に流れ出たという溶岩の最先端部分を通ります。迫力があります。ただ、時間がないので火口一周はあきらめ、火口内の見学だけに急ぎます。強風は上に行くほど強烈になり、まともに歩けないほどです。先ほどの黒いコートの中年男性も必死に歩いていました。コートの中はチェックの背広姿でどうみても登山とは思えません。

火口壁上に到達するとそこからやっと登山道らしくなります。見渡すと一面の溶岩砂漠の中に地震計などの計測機器(上の写真)や避難用の掩体豪がいくつも出現しますので、ここはやはり活きている火山ということを感じます。ここで小柄なMさんが、吹き飛ばされないように(!)山頂口へ引き返しました。歩き始めると、強風のためか標識が壊れている箇所もあり、少し戻って途中からいわゆる表砂漠といわれる砂礫の堆積した三原山の西側斜面を下ります。斜面は次第に傾斜が緩やかになり、火口壁近くには池もあります。大きく回って山頂口に戻りましたが、途中から砂漠とはいえ背の低い樹木や枯れてはいますが草原もあります。砂の上に小さな動物の足跡がいくつも見つかりましたが、動物園から逃げたキョンという外来のシカが大繁殖していることをあとで地元の人から聞きました。

山頂口の食堂で休憩。やはり我々の他には数名の青年たちがいるだけ。かなり広い店内は静かです。店の女性も「今日は誰も来ないかと思っていた」といっていました。雨風の予報でも来るのはやはり山遊会くらいのものです。

女性のアドバイスによりほんの少しですが大島公園によって椿祭りの雰囲気を味わうことになり、13時10分のバスで大島公園に。最初の予定では1時間くらいの余裕があったのですが、この日も引き続く強風の強風の高速船が欠航になり、そのため10分間の待ち時間で岡田港行きのバスに乗車。せっかく島の人たちの民謡をほとんど見ることができませんでした。

帰りの船は行きと同じ船で午後2時半発。まだ波浪はありましたが、好天気の昼間、デッキに座って海上を行き交う貨物船を眺めて過ごせましたので、船酔い気味のひとも少しはよかったのではないでしょうか。東京湾に入ると景色はさらによくなり、三浦半島越しに富士山のシルエットがくっきり浮かび上がり、金黄色の夕陽が西側斜面に沈んでいくのを十分に堪能することができました。竹芝桟橋到着は午後8時。

ライフ「人間世界史」とは2019年03月20日 16:31


昭和41年(1966年)、今から53年前(驚き!)、当時18歳になったいたかどうかの私は、多分、新聞の広告を見てのことだと思いますが、『ライフ人間世界史』という歴史シリーズの申込をしました。発行元はタイムライフインターナショナルとなっています。タイムというのはアメリカのよく知られた雑誌、ライフは同じく写真誌で、当時はひとつの会社になって、「世界の料理」とか「人類の歴史」などの、このような写真をふんだんに使った大型本シリーズを発行していたようです。

最1巻(古代ギリシャ)の定価は1200円、当時でも結構高かったのではないでしょうか。よく私に買えたものです。ただし、全巻完結するのが4年後ですから、2~3か月に1回の配本で、多分郵送で送られてきたと思います。全巻といいましたが、実は、最初の予定(計画)ではこれは30巻ということになっていたのですが、最終的には20巻、「概説:20世紀」を入れても21巻に縮小されています。

A4版の大きなサイズの箱入豪華本。ただし、歴史といっても半分以上のページが写真や図版ですから、来た時に少しは眺めて?はいましたが、ほとんど本文は読まず、なんとなく断ることができずに、いつか役に立つだろうというような漠然とした感じで、半世紀の間ずっと書棚の飾りになっていました。

今になって、積年の未読滞貨を一掃しようと思い始めてあらためてこの「人間世界史」を開けてみると、当時感じていたよりもさらに内容は高度で、使用されている数々の写真やイラストも実に美しいことに気が付きました。世界的な写真家を使用できるライフ社ですし、コンピュータなどない時代、イラストはすべて手作業で描かれた一種の芸術品です。内容についてはわかりませんが、(上に表紙画像を示した)「日本」の巻についていえば、同社の専属ライターが執筆しているようですが、記述は正確でわかりやすく、信頼性は十分と感じます。本文監修は井上光貞氏で、これはいうまでもなく当時の第一級の歴史学者です。全体の美術監修も富永惣一氏、序文は駐日大使としても有名だったのエドウィン・ライシャワー氏というそうそうたる顔ぶれです。

執筆が西洋人であることから、日本の歴史記述も西洋歴史との比較があったり、西洋(人)から見た日本人や日本文化に対する印象が挟み込まれていることがあり、これもまた面白い発見になっています。この分なら、他の巻もそれなりの水準であることは確かだと思われます。

こんなに豪華なシリーズが刊行できたのも当時のアメリカとその国の出版社の力が最大だった時期だからだと思います。それが、刊行開始後の4年間に状況は大きく流動してしまったようで、これが30巻から21巻への変更の理由と思います。

まずは国際情勢。このシリーズ刊行開始の2年前の1964年に、アメリカのベトナムへの本格介入が開始されます。いわゆるベトナム戦争です。また、1956年の第2次から1967年の第3次まで中東でも戦乱が続きます。この影響かどうかは別として、当初予定していた「初期キリスト教」「ヘブライ文明」「オスマントルコ」「植民の時代」「東南アジア」の各巻が中止になり、「中国」は2巻から1巻に減っています。おそらく現地での取材の困難さや歴史記述の妥当性などが作成の妨げになったことが考えられます。発行とりやめになったのは他に「理性の時代」「マヤ・インカ」「北米インディアン」の各巻です。南北アメリカも当時は紛争が絶えませんでした。

ただし、それ以上に考えられるのがタイムライフの社内的事情です。雑誌ライフ(Life)は、フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心にした報道雑誌で、最盛期には850万部を発行したという勢いがありましたが、なんと、1972年12月29日に通算1862号で休刊してしまいます。理由はいろいろあるでしょうが、1960年代にカラー放送が始まり、多きく台頭したテレビとの競争に負けたというのが実態でしょう。ニュースを写真で見せるという印刷物が放送電波媒体に負けた―いわばメディア戦争ですね。

最終的には、①古代ギリシャ②ローマ帝国③蛮族の侵入④信仰の時代⑥ルネサンス⑥探検の時代⑦宗教改革⑧啓蒙の時代⑨王政の時代⑩近代ヨーロッパ⑪ビザンティン⑫イスラム⑬メソポタミア⑭古代エジプト⑮アフリカ⑯ロシア⑰古代アメリカ⑱インド⑲中国⑳日本に「概説(20世紀)」が入ります。ヨーロッパ中心なのは当時としては当然でしょうが、日本・中国以外のアジアがまったくなく、肝心のアメリカも近代がありません。

記述内容も、決して研究書ではなく、わかりやすいですが「概説」という感じです。ただ、繰り返しますが一定の水準にはなっていると思われます。50年後の今、何とか楽しめるのは、内容もありますが、きれいな写真もさることながら、本文文字が当時としてはかなり大きめであったことです。同じく本棚の飾りになっている百科事典(ジャンルジャポニカ)が、インターネットのおかげでほとんど存在意義を失っているのに加えて、文字が小さいために開くのさえいやになっているのと比較すれば相当ましです。いずれにしろ栄枯盛衰、諸行無常の世の中です。

水のない川を歩く2019年03月22日 19:53


少し前の記事に「さいかち窪」のことがあります。私の地元・朝霞市内を流れている黒目川の源流のことですが、これが2019年の11月でした。その4か月後、この場所を30名ほどの集団で「探検」し、ほぼ同じルートで歩いてきました。前回よりさらに川は渇き、とうとう2キロほど先の所沢街道まで本格的な川の流れをみることはできませんでした。今年の冬がいかに乾燥していたかということでしょうが、親水公園に水がないという皮肉な結果でした。

当日、小雨も予想されましたが北朝霞駅前には30人の市民や会員が集合た。西武線小平駅には午前10時過ぎに到着。さっそく、お彼岸でにぎわう小平霊園を横切って歩くと、新青梅街道に面した一角の雑木林が保存されています。「さいかち窪」です。道路を渡ると黒目川が出現しますが、当然、この日も水はまったくありませんが、ここからしばらくの間は川の再生事業で造られた立派な護岸と遊歩道が設置された「さいかちの道」が続きます。

途中の天神神社はかつて東京の名水といわれたほどの湧水があったようですが、現在は乾燥しきっています。武蔵野台地の自然の変化を感じます。一行は、どこから水が出現するだろうと期待しながら進みますが、昨年11月に水のあった地点を通過してもだめ。道路の様な川底を眺めながら東久留米西団地付近の「しんやま親水公園」に到着しても水はありません。ここには近くの焼却施設からの排水が流れ込んでいるようで、はじめて川に水が流れています。

予想と異なり風は強いですが、青空がのぞく暖かな陽気になり、開花直前の桜並木の下で休憩となりました。しかし、川の水量は少ないようで、やがて消えてしまいました。新所沢街道を過ぎても水はなく、とうとう氷川神社も過ぎて所沢街道まできました。ここで黒目川は一時地下に入り、親水公園とはお別れです。ところが、蛇行した黒目川が所沢街道を超える都大橋あたりから急に水が流れ出しています。地下に湧水があるのでしょうか。そこからは大小の魚やカルガモ、サギが見られる黒目川になります。このあと、一行は東久留米駅まで歩き、午後2時すぐに解散しました。