〚ローマ帝国衰亡史〛の運命2020年07月14日 14:31


新型コロナ感染症の影響でつい先ごろまで自粛を強制され自宅周辺を歩き回ることしかできず、6月になってなんとかスポーツジムや近くの山歩きに出かけることができるようになりました。ただし講演会や見学会などの社会的団体活動は一切できませんので不自由さはさほど変わりません。さらに7月に入ると近所の散歩も暑いうえに、今年の梅雨は異常に長く(特に西日本中心ですが)当地でも、ここ2週間ほどはほとんど連日雨が降っているような感じです。九州地方などではかなりの洪水被害が出ていますから「天気が悪い」などとのんきなことをいっている場合ではありませんが、7月末には東北方面への旅行を企画しているので梅雨明けが気になるところです。

このように外へ出られないので、先日から家に積んである本の中から気になるものを探し出して読んでいるのですが、実は、私の貧弱な蔵書のなかでかなりのボリュームを占めながらほとんど読んでいない書籍がかなりあるのです。その中のひとつをたまに取り出して読んでみようとはするのですが、内容に入りこめないまま数ページも進まずに本棚にもどしてしまいます。こんなことを20年以上続けけています。書名は〚ローマ帝国衰亡史〛といい、なんと全11巻もあります! 著者はエドワード・ギボン(Edward Gibbon 1737年~1794年)というイギリスの歴史家で、ほとんどこの『ローマ帝国衰亡史』の著者として知られています。

●時間も余裕もなかったのに

いつ購入したかははっきりしませんが、第1巻は1976年に発行されていまして私の本は1986年の第13刷となっていますから、多分1990年前後(昭和64年頃)に購入したものと思われます。とすると私が40歳前後の時ですかね。当時、独立して仕事を一人で始めた前後ですから、そんなに読書をする時間も気持ちの余裕もなかったと思うのですが、どうもその頃、こんな結構堅い本をいくつも買っています。多分、読むというより気分転換で買い物をしたという感じですかね。

もちらん、中身を見ないで買ったわけではないので、最初に読んだときはそれなりに面白かったという記憶があります。多分、翻訳者が中野好夫氏ということに惹かれたんじゃないかという気がしますが、西洋世界の知識が詰め込まれたこのとんでもない分量の古典の翻訳書がなんとなく読めたのはまったくこの中野好夫という人のおかげだと思います。それで1~2巻のいくらかは読んでいたと思うのですが、途中からは読むという気力は無くなってしまいましたが、何となくこの膨大な著物を所有したいというマニアックな感覚は続いていて、おまけにAMAZONNでの古書購入が簡単になったこともあってとうとう最後の11巻まで購入して書棚の飾りとして現在に至っているわけです。

読み続ける気力がなくなったというのも変ですが、その理由は、ローマ帝国の滅亡という、浮世離れしたテーマにもありますが、根本的には文章の難渋さがあります。中野好夫氏という碩学で名文家の存在があって成立した翻訳・出版事業じゃないかと思うのですが、実はそれが途中で二転三転するという運命があり、要するに読みにくい翻訳になってしまったのです。「意味が伝わらないわけじゃありませんがちょっとね」という感じです。この辺も含めてが、この〚ローマ帝国衰亡史〛翻訳の変遷です。いうまでもなく内容にはほとんど関係はないのですが、これも何かの意味があるのかなということで記録してみます。

第1巻の「訳者後書」で中野良夫氏はこう述べています。「(18世紀に書かれた)2世紀前の歴史書など時代遅れであることはいうまでもない。そうした多くの弱点にもかかわらず本書はギボン自身がその自伝の一節で回想している有名な一念発起の決意で明らかなよう、あくまでそれは人間史の流れ、国家間の運命に対する深甚な感情移入をもって書かれたものであることは間違いない。歴史よりもむしろ文学と見る所以である」として(本書は)「今後も時代を超えて生き続ける」と書いています。確かに説明によれば、ヨーロッパの多くの政治家や思想家がこの〚ローマ帝国衰亡史〛を愛読していたという事実があるそうなので、これが中野氏の翻訳の動機でしょう。他にはすでにある日本語訳の出来があまりよくないということもあるようです。さて、このようにして中野良夫氏は準備期間をへて、1976年(昭和51年)に第1巻が出版され、続いて1978年に第2巻が出ます。

●出版社の倒産

ここまでは順調だったのですが、第3巻を前に、なんと出版社の筑摩書房が倒産してしまいます。あの頃、いくつかの大手出版社が社内紛争などにより倒産していますが、出版業自体は好景気ということでどこも別会社などになってすぐに再建しています。これでなんとか3巻が出ますが、1985年出版の続く4巻の後書の冒頭には「中野好夫氏は今年2月に長逝された」という言葉が書かれています。中野好夫氏はこの巻の完成を待たずに亡くなったわけで、その跡を継いだのは朱牟田夏雄氏です。中野氏と同じく英文学の大家でおそらく中野氏の古い友人ですから、この訳の後任を本人より依頼されたのでしょう。この辺から翻訳の微妙な味わいが変わってきますし、私もほとんど読むことはなくなり、かなりながい間そのままになっていました。いつごろでしょうか。少し時間(余裕?)ができて久しぶりに〚ローマ帝国衰亡史〛の続きを購入しようとすると、朱牟田夏雄氏の翻訳は5巻、6巻で終わっており、訳者は中野好之氏という名前になっています。

●翻訳者が次々に・・・

後書によれば後を継いだ朱牟田夏雄氏も1987年に亡くなり、3番目に後を継いだとのこと。名前からも想像できるように中野良夫氏のご子息です。結局、彼が、父親始めた事業の最終ランナーとして翻訳・刊行を続け、すでに平成に変わって5年目の1993年、18年がかりの翻訳事業が終了しました。世の中には息の長い事業がたくさんありますが、ダムやトンネルなどの土木工事も数年から10年以上かかる長期作業が普通ですが、これを行うのは企業体です。多くが個人の仕事である出版(翻訳)というのははるかに短く、時によると数カ月以内で企画から制作までされれしまうのもの多いとききます。中には、このように個人の人生の運命までが影響するような長い期間をかけて実現する作品もあるということです。

紅葉台のヤマユリ2020年07月20日 18:23


日曜日、本当に久しぶりに太陽が顔を出しました。盛夏になると太陽の光も多少は敬遠気味になりますが、今年は例え暑くとも日の光が欲しいという気持ちになるような陰鬱な日々が続いておりました。おまけにテレビも新聞もさらにわれわれの日常会話も、話題はというとじめじめとうっとおしい新型コロナ感染症のことばかり。ほとんど半年くらいこのテーマは続いています。

ということで、時間はあまりなかったのですが、登山に出かけました。とはいえ、私がひとりで安心して行ける場所はほんの数か所しかありませんが、本日も代わり映えしませんが、最も手軽な高尾山から小仏城山への縦走です。場合により景信山まで足を延ばします。午前9時半過ぎに家を出て、中央線高尾駅に10時半過ぎ到着。私はいつもこの駅から甲州街道を30分ほど歩いて登山口に向かいます。稲荷山登山口から歩き始めますが、連日の雨続きでしたから登山道は泥濘と化しています。新しく購入したAKUの軽登山靴を履いてきたのですが、たちまち茶色い泥だらけになります。

空はいつの間にか青空優位になっていました。このコースは基本的に樹林帯を歩きますから日差しはそうきつくありませんが、それでも大変です。一人ですので30分くらいおきに水を飲みながらゆっくり登るのですが、なんだかまだ2か月間の自粛期間の体力の衰えが続いているようで疲れます。さらに、発汗作用によるエネルギーの消耗が加わりますが、これは、私にとってはほぼ熱中症みたいに作用するものと思われます。毎年のことで、経験しても治るもんじゃないのかな。

これもいつものように高尾山頂上には登らず、5号路を経由して城山方面に向かいます。ここまできてやっと少し元気になってきました。そして紅葉台付近でヤマユリが咲いているのを見つけました。ここから一丁平付近までの登山道わきにはヤマユリの群生が見られます。多分、人の手で植生されたものと思いますが、昨年の7月末に来たときは(すでに梅雨明けで猛烈に暑かったですが)すばらしい光景を見ることができました。

今年は少し遅いのかもしれませんが、咲残ったアジサイとともに鑑賞できたのは幸いです(上の写真)。ヤマユリは山地に生える日本特産のユリで、初夏に咲きはじめると思います。低地の雑木林などにも見られますが、そもそも林自体が身近でなくなっていますのであまり野生種に出会う機会はありません。一丁平に着くと時刻はもう午後1時半でしたので、ここでウグイスの鳴き声を聞きながらカツサンドを食べ、最後は城山を通り過ぎて、小仏峠から甲州街道旧道で下山しました。小仏川の源流も水量が豊富で、音を立てて流れる渓谷の上を涼しい風が吹いていました。途中の湧き水には靴を洗うためのブラシまで用意されていることに気づき、かなり厚くこびり付いていた粘土を落としました。

梅雨の晴れ間の高原歩き2020年07月27日 18:17


このところ、新型コロナ感染症の影響による自粛で地元会の山歩き活動も停滞していたのですが、ようやく6月になって自粛が解禁され、6月後半には「飯能アルプス」という奥武蔵方面の山歩きが再開されました。ところがその後と今度は今年の異常な長梅雨に悩まされ7月前半の山行は中止になっていました。ようやく、7月後半の「籠ノ登山と池ノ平湿原」登山が行けることになりました。これも前日午前までの予想では雨となっていて危ぶまれましたが急転して回復、実現です。今年の梅雨の異常はどうやら世界的な気象異変のようです。

今回の参加者は11名で信越・高峰高原へ向かいます。ビジターセンターには午前8時過ぎに到着し、“花の山”という期待に応えてニッコウキスゲなどの咲いている登山口からさっそく登り始めました。高速道路走行中には雨が降り出したりして心配していたのですが、いくつかのトンネルを抜けて佐久盆地に入ると一部に青空も見えてきてひと安心の感じ。この登山口自体がすでに標高2000メートルもありますから、かなり涼しく感じます。

水ノ塔山・籠ノ登山は浅間山の西方にあり、カラマツなどを主体とする針葉樹林と豊かな高山植物群が有名な美しい山稜地で、一帯はスキー場として大規模に開発されています。山稜自体は風化した溶岩ド―ムとのことで切り立った岩山の水ノ塔とその先の東西の籠ノ登がピークになっています。

最初の目標地・水ノ塔山までの登りは最初ゆっくり、両側の豊かな下草の間にシャクナゲが群生し、その奥にカラマツやトドマツ、シラカバが点在する林が続いています。「クマ出没注意!」の警告板がありましたが確かに生物相も豊かな感じがします。しばらく歩くと大小の岩石が転がる「うぐいす展望台」に到着。確かにウグイスの声は聞こえましたが、雲とガスに邪魔されてあまり遠くの展望は望めません。そこからは積み重なった岩の急な登りになります。左側は切り立った崖で、時折雲が晴れると緑の斜面とはるか下の草原が見える開放的な景色になるのでかなり気持ちがいいです。

午前10時分すぎ、最初のピークである水ノ塔山(2202メートル)に到着しました。狭い場所で、各自が岩の上にひな壇のように並んでの記念撮影になりました。ここでも浅間山や黒斑山など遠くは見えませんが、登山口の高峰温泉が見えます。こんな短時間で高山帯の雰囲気が味わえるのは素晴らしいことです。ここから東籠ノ登山へは稜線のアップダウンをたどって行きますが、先ほどとは違う雰囲気の樹林帯歩きになります。ときおり南側の斜面が無残に崩れたガレ場に出ますが、この辺りは山腹のかなりの部分が大きくえぐれて赤い土砂がむき出しになっています。この崩壊は中腹の林道まで続いているかなり大規模なものです(最後の林道歩きで確認できましたが、相当の土石流が発生していました。昨年の台風の影響もありそうです)。ようやく到着した東籠ノ登山の頂上はかなり広いですが、ここも大小の岩石に覆われています。見晴らしは大変良いのですが、この日はやや残念。ただ、雲はそう厚くはないのでそれなりに雄大な山岳の雰囲気を満喫できます。まだ赤くないナツアカネの姿も観察できましたが、それよりはるかにアブやハエが多く飛び回っていて閉口しました。

昼食後、急斜面を一気に降りて中腹の池ノ平湿原に出ます。この高層湿原には中央を横断してから周囲の高地(三方ケ峰)を廻る観察道路が設けられていまして、ここだけでも十分にハイキングコースの資格があるようです。季節の花や蝶を目当てのカメラマンの姿があり、なんとカモシカも悠然と現れ、ここでも自然度の高い場所であることがわかります。

三方ケ峰の稜線上にはシカの食害防止のため保護されたと思われるコマクサの自生地が何カ所かあり、赤い花を咲かせていました。楽しく一周した後、元のビジターセンターまで1時間ほど中腹の林道を歩いて戻り、この日の登山を終了しました。最後の最後に豪雨に遭遇するというハプニングがありましたが、梅雨空の中、予想以上に快適で充実した活動だったと思います。