平ケ岳でスマホを落とす2020年08月14日 09:29


ようやく記録的に長い梅雨が終わったと思ったら、今度は猛暑で、ぐったりする日々です。そんな中、上越国境の百名山のひとつ平ケ岳に登りました。山中に山小屋のない場所ですので、1日目は午前11時に朝霞を出発、その日は旅館に1泊、次の日の早朝から登山してその日に帰るという楽なような大変なようなスケジュールでした。あとで記しますが、おまけに、山中でスマホを落とすという失敗もありました。以下、おなじみの地元の山の会に投稿したブログ記事からです。

●平ケ岳は豪雪で水源の山

上越国境という通り、この平ケ岳は北の新潟県側は只見川の源流、南の群馬県側は関東の大河川・利根川の源流地帯で、まさに太平洋と日本海の中央分水嶺山塊の一角にあり、その中で一番高い山です。ご存じのように世界数の豪雪地帯であり、頂上付近には池塘が発達し、美しい高層湿原が形成されています。また多くの谷が刻まれ、水量が豊富なため昭和20年代から電源ダムがたくさん建設されていて(社会科で習った只見特定地域総合開発)その建設事業で造られた道路やトンネルを利用した観光が開始されてから登山や釣りなどが盛んになってきたようです。それまでは登山に行く人も少なく、深田久弥は『日本百名山』の中で「登りに3日、下りに2日かかった」と書いていて、昭和30年代でもほとんど登山道もなく、藪を漕ぎながら歩き、下りは銀の採掘用につくられた江戸時代の道跡も辿ったようです(かつてこの地域の山中には銀鉱山があり銀山平とはそれで開けた場所なのでしょう)。

現在でも正規ルートと呼ばれる鷹ノ巣の登山口からの登山は往復12時間以上かかるといわれる超健脚者向けコースです。ところが最近は、この他に中ノ岐林道という別のルートを旅館のバスで送迎してもらう宮様ルートとよばれる裏道ができて利用する人が増えています。実はわれわれもその「裏道」を歩きました。

ということでわれわれは関越道の小出インターを出て、只見川沿いの銀山平に向かいましたが、その間に、9つのトンネルをくぐり、特に最後のトンネルは中で曲がりくねりアップダウンあり水滴が雨のように降るというすごいものでした。ダム建設で造られたということがよくわかります。銀山平は只見川沿いの別天地でいくつかの旅館が「登山と釣りと温泉」を売りにしています。

●9つのトンネルを越えて

われわれが泊まったのはその中の「伝之助小屋」です。小屋といってもきれいな民宿旅館です。その夜は新型コロナに気を付けながら、豊富な山菜や鱒料理という地元の山のご馳走と地酒・荒沢岳をいだだきます。「良き山に登り良き酒を酌む」という深田久弥の色紙が飾ってありました。そして午後7時過ぎに就寝! ここの標高は700メートル以上あり、暑くはありませんが、寝られずいるうちに、午前3時前、起床して食事。なかなか食欲がでません。午前4時、暗い中、予定通り、小型バスで出発。我々の他に、夫婦2人、男性2人連れの総勢14人で、間隔をあけるので車内はほぼ満席です。バスは最初、只見湖に沿った樹海ラインと呼ばれる国道を約30分走り、中ノ岐林道入口からはほとんど舗装されていない悪路を約1時間ガタガタとかなりの速度で進みます。途中、いくつもの沢を越えますが、道路の上を水が滝のように流れているところもあり、あらためてこの地の水資源の豊富さを感じます。

林道の終点が登山口で、ここはすでに標高1300メートルほどあります。他の旅館のバスも到着していて、予想以上の数の登山者です。午前5時30分過ぎ、登山開始。少し行くと滝のように水が流れている谷川があり、2つの細い橋が架かっています。薄い木製の板で増水時には流れて破壊を防ぐとかでひとりずつ渡ります。そこから先はかなりの急登の連続です。基本はブナやシラカバ、マツなどの樹林帯ですが、切り開かれた登山道の周囲はササやシャクナゲなどが密生しています。土壌がえぐれているうえに豪雪のための変形樹が多く、低くたれた枝が邪魔をします。へりの草つき部分を歩く箇所もかなりあります。さらにこの暑さです!。

この中で、厳しい道の要所要所に「みんな苦しい!がんばれ」とか「樹木の様子が変わってきた。頂上はもう少しかも」などの励ましの言葉が枝から下がっているのは励みになりました。

●頂上の湿原は天国

午前8時過ぎ、なんとか木道のある平地に到着します。平ケ岳は山頂がゆるく起伏するだけの平坦な高層湿原になっていますので、あとは散策のように歩いていけるのですが、かなり広く、時間もかかります。一面、ワタスゲなどの茂る湿原が広がり、大小の池塘あり、水場のある小川ありとまさに天国のようです。

1時間程で山頂(2140メートルの三角点)に到着。ここでも多くの人が休憩しています。よく晴れていますので、南東方向に尾瀬・燧ヶ岳の双耳峰がみごとに確認できます。あの下が尾瀬湿原で、只見川はそこから流れ出し、一方、この山の反対側斜面には利根川の源流域が広がっているわけです。疲れてもいましたので、ここでゆっくり休憩して付近の雄大な景観を楽しみたかったのですが、帰りのお迎えバスの時間までには下山していなければならないのであまり時間がありません。

昼食もそこそこに、急いで姫が沼や卵石という名所を廻り、元の登山道を一気に降りますが、滑りやすくなかなか進みません。最終組がバスの待つ元の登山道入り口に着いたのは午後1時過ぎでした。往復で7時間半かかったことになります。宿ではスイカとほうじ茶をいただき、車に分乗して帰還となりました。

●スマホを落としてしまう

実は、この登山中にスマホを紛失してしまいました。最近は、重要な情報はほとんどPCのEメールですからあまり問題ないかと思いましたが、やはり緊急連絡はありますし、LINEでの通信はスマホだけでしたのでこれも困ります(ただし、電話帳はバックアップがあり、カレンダーはクラウド保存です)。

それほどたくさんの人が登る山ではありませんし、登山道はかなり荒廃している場所も多いので多分出てこないと思って、当日の夜、通信会社に連絡して、新しいSIMを発行してもらいました。その時点で落としたスマホの電話は不通となります。一応、連休をはさんで様子をみていよいよ新機種を購入しようとおもっていたやさき「見つかりました」との連絡が一緒に参加した友人経由でありました。その次の日届いた小包で拾っていただいた方の連絡先も教えてもらい、お礼の電話をしました。落とした日から4日後、山頂付近で発見してくれたそうです。その方の泊まった旅館は違ったのですが、届けてくれ、私の泊まった伝之助小屋さんからあらかじめ連絡していただいていたおかげで自宅に送ってもらえたようです。

見つかったことももちろんですが、こういう善意のリレーをしていただいたことがうれしいです。

東京の人工島―地誌が面白い2020年08月19日 15:42


“島国日本”といわれますが、この日本列島に存在する島は全部で6800もあるとのことです。そのうち人が住んでいる有人島だけで430近くになるらしいです。とにかくこの国には、4つの大きな島の他に相当に多くのアイランドがあることはわかります。そんな日本の小さな島々(離島というほうが感じがでますかね)を撮りづける写真家にしてエッセイストの加藤庸二氏の著書『東京湾諸島』(駒草出版・2016年)を手に取りました。上の情報もこの本によるものですが、本書によると、実は東京湾だけも70以上の島が存在するようです(上の図、本書の口絵)。ただし、そのほとんどが「人工島」という人間が作り上げた島で、本当に自然の島というのは横須賀沖の猿島だけだそうですから、これも驚きです。われわれが知っている佃島も平和島も月島も八景島も、みな人の手が加わってできた人工の陸地だったのです。

そして、それだからこそというべきか、それぞれの人工の島には造られる社会的な理由があり、短いけれど現在に至る歴史をもっています。こうした人工の陸地の誕生と成長にはどれも興味深いエピソードがあるわけで、著者はそれを丹念に調べ、現地まで歩き、そこに居る人々に会って、ひとつずつの短いストーリーにまとめ上げています。その文章は、学術論文のように硬くもなく、といって週刊誌記事のようにくだけすぎもせず、こうしたやや社会的な記事を好む人には本当に楽しい読み物になっています。

とはいえ、本書だけでこの東京湾諸島の75すべてを取り上げらるのは無理わけで、加藤氏はこれらの島々をいくつかの切り口で章に分類して、全体を俯瞰しながら、個々の島の成り立ちや地誌を記述していきます。そのなかで私が興味を持った3つの章をとりあげてみます。

●人工島の地霊と伝説

地霊とは、大地に住む精霊のこと。すべての自然に神が宿ると考える日本人の素朴な宗教感情ともいえるものです。地球の営みの中では、ほんの短い歴史しか持たない人工島でも、人々は神を感じ、敬い、祀っています。江戸時代から延々と埋め立ての続く江東区の深川地区(今では島とは思えないこうした地続きの場所も多い)には有名な富岡八幡宮があります。天王洲には牛頭天皇伝説が残っています。今や大空港となってしまった羽田には土地づくりの成功を祈願した穴守稲荷が建てられ、その大鳥居は数々の祟り伝説を生んでつい最近まで移転されませんでした。人の住むほとんどの島にこうした神社があります。政治的な理由で作られた寺院と異なり、神社には素朴な宗教観が感じされるのは私だけではないと思います。


●開拓者と京浜マニュファクチャ

われわれの印象では、東京湾岸の埋め立て地は大工場地帯です。江戸時代初期から始まる東京湾の埋め立て事業は、明治に入って加速し、戦前戦後を通して、最終的に京浜・京葉一帯の大工業地帯の形成につながっていきます。この現代日本産業発展の土台ともいうべき埋立と港湾・工場建設事業の完成には無数の人がかかわっているでしょうが、中でも幾人かの強力な推進者が存在することを知る必要があります。その筆頭は、後の浅野セメント創業者の浅野総一郎です。明治初期、燃料事業で身代を築いた浅野は欧米の実情を視察して日本の港湾施設の貧弱さを痛感し、渋沢栄一や安田善次郎(安田財閥創始者)らと共同し、東京―鶴見間に大規模埋立事業を行ったのを皮切りに、京浜臨海地区に、鉄道敷設を含む巨大なな港湾施設を次々に造り上げていきます。現在のJR鶴見線に、志半ばに不慮の死(暗殺)を遂げた安田善次郎を記念した安善駅と浅野駅が並んでいるというのはあまり知られていない事実です。

●東京湾環境循環装置

東京湾の人工島の中には環境保全の上で重要な役割を果たしているものもあります。思えば人工島は都市から出た塵芥(いわゆるゴミ)や廃棄物を埋め立てて造成してきたという歴史があります。そこに処理施設をつくるという発想は当然出てきますし、下水処理が普及してくると、その最終処分場も一番低い土地に造る―しかもそこは周囲への影響を心配する必要がないということもあります。一方、戦後の高度経済成長の負の側面で、河川は汚染され。当然、湾内もすさまじい水質悪化が進み、関東地方の河川の終着点である東京湾はヘドロと悪臭のたまり場になりました。私も少年の頃、隅田川の鉄橋を渡ると電車の中でも臭かったのを覚えています。あれから40年以上、現在でもプラスチック汚染など問題は残っていますが、水質環境の改善は直実に進みました。その象徴のひとつが昭和島の水再生センターです。多摩地区や世田谷などの下水は最終的にこの地まで運ばれ、数次の科学的・生物的処理を経て海に放流されます。その水はホタルが棲息できる水準ということです。そのほか、かつてのゴミの島いまや夢の島での貴金属回収処理事業(都市鉱山)やPCB処理システムも人工島に造られています。巨大な住宅地が生まれ、広大な森林公園が建設され、さらに人間の将来にかかわる試みが行われているのもこうした人工島なのです。

佐渡島の「金剛杉」2020年08月21日 13:36


前回の記事で紹介した加藤庸二氏の別の著書『日本の島旅』(PHP)を読んで佐渡島の山中にある金剛杉のことを知りました(上は同書の26頁に掲載されています)。雪深い佐渡北部の標高950メートルの森林にある、人間の伐採から免れ、静かに、しかし悠然と数百年の間立ち続けている巨木です。

固有名がつくほど有名な杉というと、まず浮かぶのは屋久島の「縄文杉」でしょう。とはいえ、縄文杉も屋久島が世界遺産になり観光名所になってから一躍有名になったわけですが、それまでは地元のひとやごく少数の登山者にしか知られていなかったといわれます。金剛杉も同じで、こんなに有名になったのは西暦2008年の北海道洞爺湖サミットの際、その写真が紹介されてからといわれています。その後、この木も佐渡観光のひとつになりかかっていましたが、生育場所が新潟大学の演習林内であったことや多分、縄文杉の事例なども参考になったのでしょう。むやみな開発にさらされず、一日16人までのエコツアーとしてしか入れないことになっているようで安心です。

こうした自然の驚異は、確かに誰でも手軽に行ってみたいと思う反面、知る人ぞ知るみたいな神秘性があったほうがいいとも勝手に思います。困難であれ、観光と自然保護を両立させることにしか未来はないのです。

私はこの金剛杉を写真で見ただけですから、その魅力を実感込めていうことはできません。ただ、それほど多くありませんが、近郊であるいは旅先の寺社や森林で偶然見かける巨木には、ひとを圧倒する存在感を感じ、その生命力に荘厳さを感じます。最近では熱海・来宮神社神社のクスノキの巨木があります(http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2018/01/31/8780061)。地元では浦和・玉蔵院や志木・宝幢寺のケヤキが立派で、時々会いに行きます。写真で見る限りですが、この金剛杉は、ただ巨大というだけでなく、積雪や強風に耐え抜いて周囲に枝を伸ばした、古武士のような頑健さと強烈な風格を感じます。温暖な地で巨大になった熱海のクスノキが歳月を経た宇宙的な神秘さを感じさせるのとは違った魅力を持っています。

佐渡島は2回渡ったことがありますが、自由な時間がとれるようになった今、この巨木を含めてゆっくり回ってみたいと思っています。

残暑&酷暑の馬頭刈尾根2020年08月25日 16:02


奥多摩・秋川渓谷の上流部、大岳山に続く山稜のひとつに馬頭刈尾根があります。馬頭刈は「まずかり」と読み、一番高い地点が馬頭刈山になります。8月も下旬、立秋はとうに過ぎていますが、まだまだ酷暑の続くなか、地元の山の会の定例山行で出かけました。

馬頭刈の稜線に出るまではけっこう急な岩場もある谷を登っていきます。途中、沢を渡ったり、天狗の滝や綾滝(上の写真)などの涼し気な風景も眺められます。このあと、時折出現する大木に圧倒されながら馬頭刈尾根までの苦しい登りがつづき、気息奄々で巨大なつづら石に遭遇しました。登山道はほぼ樹林で日陰、法師ゼミが鳴き、秋の花を目にとめる人もいましたが、やはりまだ暑い日はつらい! 稜線をアップダウンしながら鶴脚山を超え、馬頭刈山頂で昼食休憩。その後、うら寂しい高明神社跡を超え、軍道(いくさみち)のバス停に降りました。

私は足の先が痛くなっていましたので、停留所裏の養沢川で足を冷やしました。バスで五日市駅に帰る途中、瀬音の滝温泉がかなりにぎわっているのが見えました。

●暑さに弱いのだ!

やや涼しい気もしましたが、私は、この日も熱中症気味で下山まで食欲がなく、やはり真夏はだめだなと思いました。今年は3回、こんな目にあっています。毎年、真夏に山に登ると、多分ひと一倍汗を書きますので、ミネラルも精力も抜けてしまうのではないかと思います。情けない。。

豊島園の回転木馬2020年08月30日 18:10


ここ20年以上、遊園地にいくことはまずありませんでした。子供が小さい時に何度か行ったという感じですが、その子供の子供が遊園地で遊べるようになってきて、最近は動物園とか幼児用の鉄道施設にいくことも多く、遊園地にも行く機会があるかもしれないと思っていた矢先、練馬の豊島園にいくことになりました。

豊島園は私も子供のころから何度かは訪れていますが、配偶者は練馬の育ちなので思い出もかなりあるようです。とはいえ、今度は娘(いっても2歳児の母親)が提案してきたもので、この豊島園が94年の歴史を終え、今年8月で終了するということで、思い出作りのためとかいってます。要するに話題になるところに行きたいということのようです。始めて知りましたが、この豊島園は室町時代に築城された練馬城の城址を中心に造園されているそうで、当時の守護大名・豊島氏の居城ということでその名が付いたとのこと。豊島区とは直接の関係はないようです。大正時代から続く豊島園の歴史もなかなかのものですが、その土地にも歴史があったようです。

西武線の練馬駅から西武鉄道の専用線がひかれているのですが、現在は都営大江戸線の駅もできていて、交通はとても便利です。訪れた日もまだ残暑が厳しかったのですが、豊島園終了のPR効果のためか、入場券売り場でも列を作って20分近く待つほどです。こんな人ごみの中に入るのは久しぶりです。コロナ禍で、事前予約性のため、手続きがうまくできない人が多いことも原因のようで、私ひとりだけなら、ここで帰ってしまうところでした。園内を石神井川が蛇行して流れ、その先に緩い坂道があり、確かに山城を感じさせます。園内は所狭しと遊戯施設が作られ、しかも人気のある施設は、どこも行列です。親会社が西武鉄道のためかミニトレインなど鉄道関係が目立ちます。

この豊島園の目玉は、かつては、私も乗ったことのある「ウォータースライダー」という急流を下るボートだったと思いますが、最近では「コークスクリュー」という回転するジェットコースターでしょうか。この日も動いていましたが、人数を制限しているということを割り引いても満員ではなかったようです。

順番待ちが2重の列になるくらいの人気のあったのは、やはり古典的なメリーゴーランドです。豊島園の回転木馬は「カルーセルエルドラド」といい、なんと1907年にドイツで制作されたもので、その後各地を点々とし、豊島園で動き出したのは1969年ですが、今では世界ももっとも古い回転木馬ということで日本の機械遺産にも登録されています。私たちは時間の関係で乗れませんでしたが、優雅なワルツに合わせてゆるやかに回る木馬や馬車は見ているだけで気持ちがリラックスするようです。デザインも動きも古典的で、回転木馬という日本語がよく似合います。