東京城南の旧東海道2023年09月30日 19:23


JR品川駅を出ると目の前を広い道路が南北に走っています。これは現代の東海道である京浜国道ですが、横浜方面に数分歩き、八ツ山橋でいくつもの鉄道路線を越えると旧東海道の落ち着いた通りに出ます。江戸時代の東海道もほぼこの位置にあったようで、もともと八ツ山橋は東海道に沿ってできた鉄道と立体交差するために造られた橋だそうです。


『東海道五十三次』などの浮世絵を見ると分かりますが、品川宿はきわめて海に近い地形です。元々の東海道・品川付近は本当に江戸湾の波が音を立てて打ち寄せるような海に面した海岸線の上の高台を通っていたことになります。どうしてそうなるかというと、ここには、東京の大きな地形を形成した武蔵野台地がせり出し、その端を海岸浸食してできた狭い土地しかなかったからです(推測)。


東海道はここから海岸線を北上して日本橋の低地まで伸びていますが、この高輪付近はこのように厳しい地形だったことから(江戸時代以前は)海岸線を歩くことは、特に風雨の激しい時期など、大変だったようで、海岸崖線を少し上がった台地の上に一本の道がつくられていました。現在、京浜道路からこの道路に向かって八ツ山坂や柘榴坂、桂坂、伊皿小坂、魚籃坂などの名前がついたいくつもの坂があり、そこを上ると、このいかにも旧道とよぶにふさわしい道路が京浜道路に並行して伸びていて、そこは二本榎通りという名称になっています。


この道を越えると地形はまた下りになり、この通りが台地の一番高い場所つまり稜線であることを実感できます。それが一番わかるのは島津山と呼ばれる建物の残る清泉女子大前からこの二本榎通りに登る途中にある、なんとも辺りの風景に似つかない、曲がりくねった素朴な坂道と石段です。多分、昔の小さな谷筋と思われます。またこの付近が品川区と港区の境になっています。


二本榎通りというのは、ここにあった一里塚の榎(エノキの木)が場所の目印だったからのようで、通りに面した承教寺の境内にその由来を書いた掲示板があります。また、この付近は赤穂浪士の墓がある泉岳寺が有名ですが、その中でここにあった肥後熊本藩細川家に預けられた大石内蔵助良雄ら17名が切腹した「大石良雄外16人忠烈の跡」が残されていて、戦前の過激な碑文が書かれています。


上の写真は、ここにあった肥後熊本藩細川家時代からあったスダジイの大木。幹回り8.13メートルという巨大さ。この木だけは移り変わる東海道の風景を見ていることでしょう。その下の写真は、この通りで目に付く、この付近一帯が一番の高台だったことを示している高輪消防署二本榎出張所です。これも時代を感じさせる高輪警察署のとなりにあり、消防署の建物も文化財になっていますが、象徴的に聳えているのが望楼で、昭和40年代まで火の見櫓の役割を果たしていたそうです。