芝川サイクリングロード ― 2023年05月07日 14:17

この芝川の、荒川までの区間はその堤防が「芝川サイクリングロード」として整備されていますので、道路の状況は多分心配ないと思うのですが、距離は結構長く15~16キロはありそうで暑い時期にはまず実行できません。歴史が浅いですから、川に沿っての見学先や文化財などのあまりないようで、ひたすら歩くだけということになりそうなので、暑さもなく風もさわやかなこの時期に決行を考えた次第です。
出発はJR武蔵野線の東浦和駅。私にはおなじみの散歩駅ですが、今回は見沼通船掘からいつもの調整池方向ではなく八丁堤の反対側の平野をまっすぐ延びている芝川に沿って歩きます。八丁堤を降りたところに「芝川サイクリングロード」の大きな表示板が掲げてあります。ほとんどが川口市を流れますが、最終点は東京都足立区の芝川水門です。この日は風がかなり強く川には白波が立つくらいで、おかげで気持ちがいい。
多くの放水路とされる河川がそうであるように、この芝川もほとんど蛇行することなく、両岸は垂直に切り立っているカミソリ堤防ですのでいわゆる川岸がなく、岸辺にアシなどの茂みもほとんどありません。堤防表面がコンクリートでなく、なんとか植生が維持されているのが救いです。やがて関越高速道路を越え、さらにいくつかの流入河川を過ぎ、2時間くらい進んだところで堅川樋門という大きな水門に出ました。ここが芝川の流路変更ポイントで、サイクリング道はそのまま芝川本流を進みますが、右手にかなり水量を減らして流れていくのがかつての芝川で、いまは旧芝川と呼ばれています。汐入橋という思わせぶりな名前の橋と公園がありますが、さらに進み、ほとんど気づきませんが、埼玉高速鉄道の地下鉄を越えたところがかつての鳩ケ谷の街を通る日光街道に近い場所なので、ここで昼食休憩。駅がありますが、あまり人の賑わいはないようです。
川幅も広がり、岸にも干潟らしきものがみえ、なんとなく河口に近づいた感じのころ、芝川マリーナという小型船の係留施設が現れました。そいいえば堤防内のとこどころに「ここに船を係留してはいけません」という大きな掲示が立っていましたので、このマリーナができるまで無許可の河川係留が相当あったのでしょうね。ここまでくれば荒川は目前です。もう14時に近いので休憩を別にして3時間くらい歩いています。さすがに疲れてきます。道路を通るひとはけっこう多いですが、ほとんどが生活道路としての利用のようです。ときおり、散歩と思われるご夫婦連れを見かけたり、サイクリストに追い抜かれたりしますが、私のように全体を通して歩いている人間はあまりいないようで、通り過ぎても登山のようにあいさつするひとはごくたまにいるだけです。
そこからでも40分近く、右手に川と並行して首都高速川口線の橋脚が現れ、やがて歩いて越えるのが難しいほど高速の車が走っている道路でサイクリング道は終わってしまいました。横断歩道などは無く、これまでの道ではあった迂回方法なども示されていないので、やむなく、車の合間を縫って横断、芝川樋門に近づきます。ここからは足立区のようで、対岸にはAMAZONなどの巨大な倉庫、こちら岸には「足立区都市農業公園」という遊園地?らしき施設があります。とにかくここで芝川は終わりました。ただし、ここから荒川をわたりその先の隅田川まで島状となった新田地区を横切り、JR東十条駅まで歩く必要があり、「芝川歩き」は合計5時間近くかかりました。
議事堂公園の日本水準原点 ― 2023年05月19日 13:08
若いころに丸ビル(もちろん旧丸ビル)でアルバイトをしていたことがあり、その後も当然ながら、東京駅周辺特に丸の内周辺を訪れる機会は多く、いわばなじみの場所ではあるんですが、最近は近くを通りがかる程度なので、あらためて東京駅と皇居の間に広がる大手町一帯のビジネス街の、特に多くの建築物とその間を小道など外形的な変貌だけでも、目の当たりにしていささか驚き、これは「散歩」の対象になるなと実感しました。
この日は東京駅前か日比谷通りまでの間、三井物産ビル付近と丸の内と皇居広場から桜田門を通って国会議事堂前公園と日比谷公園までを散策しただけですが、いくつかのポイントが見つかりました。あげてみると
①東京駅の変貌(数年前の復元工事が大きい)/②観光地と化した平将門塚と独自の風水地形/③明治生命観ビルをはじめとする古典主義様式あるいはその継承である数々の重厚なオフィスビル/⓸それらのビル街の合間にある、植栽を配置した公園状の空間/⑤国会議事堂前公園とそこにある日本水準原点/⑥日比谷公園内の文化財的施設
これという目立つ場所はないのですが、中層ビルとその間に緑地と遊歩道を有機的に配したこの場所は、丸の内の建物を首都の玄関としてふさわしい威厳と美しさで実現しようという意思が感じられ、ひねくれた見方をしなければ、非常に感じが良く、あえていえば日本人の自尊心を満足させるものにもなっていると思います。日本の経済力は弱まり、文化が空洞化しているともいわれますが、この数十年間のゆっくりした歴史の歩みの中でたどりついも成果のひとつがここから皇居、日比谷を含めた一帯の都市景観だといえないこともないと、私はここに来てみて思います。
(上の写真)ところで、国会議事堂前公園にある「日本水準原点」は、行ってみたことがなく、今回初めて見学しました。地理学の徒でもなければほとんど注目する人もない隠れた施設ですが、日本全土の土地の高さ―標高点の基準になっている重要な場所です。ただし、全国にはこの基準点から計測した水準点が無数にありますので、いまさらここから測りおすことはないのでほぼ忘れられています。私は一応、地理学科を出ているので、関心がないことはなかったのですが、それでも今回はじめてというのですから情けないことです。なお、日本水準原点は標準海面(日本では東京湾がメイン)からの高さですから、地殻の変動により上下します。最近では東日本地震(2011年)の影響で11センチも下がり、大正時代の関東地震と合わせて、基準設置時より13センチ下がって、現在の標高は24.3900メートルとなっています。東日本地震がいかに巨大だったかがわかります。(追記:緯度経度原点は東京タワーの近くにあるそうですが、水平方向には20センチ以上の変化があったそうです」)
施設の付近には1等水準点が5カ所あるようですが、3カ所しか確認できませんでした。また、正面の20メートルほど前に中心に金属の埋め込まれた円柱が立っていて、無関係とは思えないのですが、よくわかりません。

大手町にある将門塚についても実は来たことがなく今回が初参拝。ビルの谷間の不思議な空間はいまや観光地ですが、あまりに整然としすぎていて、『帝都物語』の冒頭のようなおどろおどろしい異世界感はありません。
ときがわ町の小倉城 ― 2023年05月30日 18:34
午前10時過ぎ、歩き始め、まずは菅谷城(菅谷館)を目指します。今回、県立嵐山史跡の博物館は見学しない予定でしたが、ロビーを通過する時に、菅谷館の案内パンフレットをいただきました。菅谷館跡(菅谷城)は、鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が居住した所と伝えられていますが、重忠以後は、わずかな文献に記されているだけで、詳しい変遷を明らかにしません。伝承で「館」という指定名称がされていますが、戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと思われます。福島正義氏著の『武蔵武士』にも「明らかな城」と記されています。
実際に、歩いてみると、周囲を都幾川が形成したかなり高い河岸段丘の上にそびえる城で、そこに土塁と深い堀に囲まれた広い廓をもち、山城とは違った堂々たる城郭の雰囲気を見せている史跡といえます。数百年の風月を経た城の内外には豊かな植生が育ち、崖下の低地部分もチョウやホタルの生息地として保護されています。
次いで、都幾川と合流している槻川の土手を遡って武蔵嵐山渓谷へ向かいます。本多清六翁が「京都の嵐山を思わせる渓谷美」と讃嘆して名付けられた「武蔵嵐山」は、いまやこの土地の名称(市名)になり、埼玉県の一大観光地にもなっています。この遊歩道を進むこと30分、正午前後に「見晴らし台」に到着、ここで昼食休憩としました。
そして午後、いよいよ小倉城へ向かいます。谷間を縫う槻川のヘアピン蛇行に沿って行くと右手に見えてくる小高い丘が城郭が点在する城山です。沿道にはときがわ町が作成した観光用の「小倉城」の赤い幟がはためき、期待を高めます。小倉城は攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城です。ただし、その登山口は自然のままの道なのでやや険しい坂になっています。ここは慎重に登り、尾根に着くと、ウグイスやコジュケなど鳥の声が響き、スギ林のなかはコナラ、クヌギなどの落葉樹の新緑がきれいです。緩やかなアップダウンの道を10分くらい移動、土塁と堀が現れ、一部にブルーシートがかかっています。発掘途中の小倉城北廓跡のようです。
山上に切り開かれた城跡をめぐって戦国の世の戦いを想像しなら一の廓、二の廓と進みます。眼下には槻川の流れ、はるかに菅谷城方向が見渡せます。小倉城は、外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害にあります。城の位置取りは、陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(山の根の道)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっているそうです。ややマニアックになりますが、この山の根の道というのは、鎌倉街道の主要な道筋である上ノ道、中ノ道、下ノ道の 3 本のほかにあった枝道、間道のひとつで秩父から青梅、五日市、八王子など、山辺を縫う様に走る道でした。(八王子市公式ホームページ (city.hachioji.tokyo.jp)にはちおうじ物語其の三 主な構成文化財として出ています)
さらに、三の廓の見える位置に移動し、この城の特色のひとつである、独特の石組土塁を見学しました。説明のパネルも用意されていて、ときがわ町の意欲を感じます。この山の土台になっている緑泥石片岩を長方形に切り出して積み上げた石組みは、大阪城など戦国から近世の大規模な平城の石垣とは異なる独特の形状をもっています。北関東の山城の土塁の中では異色だと思われます(上の写真)。この山のすぐ隣には青山板碑制作跡の遺構(国指定史跡)があります。その上は青山城です。自分の地下にある豊富な石材を利用した地産地消の山城だといえます。
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