『ファウストの旅』(3)2022年12月21日 14:39


上の図は画家ウジェーヌ・ドラクロワの手になる『ファウスト』に添えられた「悪魔」です。前の記事で書いたように先日、上野の国立西洋美術館に行ったのですが、たまたまその日の常設展では<版画で「観る」演劇 フランス・ロマン主義が描いたシェイクスピアとゲーテ>が展示期間中でした。解説によると、「18世紀後半から19世紀前半にかけて勃興したロマン主義運動(中でも)「シェイクスピアとゲーテの戯曲は様々な芸術家たちに影響を与え、美術においては画家ウジェーヌ・ドラクロワとテオドール・シャセリオーに霊感をもたらしました」ということで、偶然ですが、巨匠ドラクロワの手になる『ファウスト』の銅版画挿絵を見ることができました。上の「悪魔」(「パンフレット」より)はそのひとつですが、確かに西洋の人が想像する悪魔にふさわしい不気味さと恐ろしさを表現しているように思えます。ただ、メフィストフェレスの悪魔性を表現するには、こういう蝙蝠から派生したイメージではなく、もっと人間に近い、しかし、明らかに異世界からやってきたという神秘性をもった存在がふさわしい気がするのですが、これは水木しげるの悪魔に親しんでいる日本人だけのことかもしれません。


ゲーテの「ファウスト」が2つの構成に分かれ、第2部は第1部の書かれた後、数十年の年月を経て完成されたことは前に述べましたが、この2部は内容的にも1部とはまったく異なる物語になっています。第1部の物語は青春を取り戻したファウストと美少女グレートヒェンとの出会い、恋愛そして悲劇的な最後へと進み、グレートヒェンの死が暗示される中、絶望したファウストは牢獄の暗闇の中に消えてしまいます。第2部の冒頭でもその名残はほんの少し感じられますが、基調は異なります。まず、幕開けの場面は牢獄とうって変わって美しい山上の草原です。そこに倒れているファウスト。やがてメフィストフェレスが登場、ファウストの魂を取り上げる約束を果たすために現世の帝王国家の皇帝と家臣をそのあやしい魔術の世界に陥れ、幻しの金銀財宝を地中から取り出し、国をいつわりの繁栄に導きます。メフィストがもっともらしく目の前に現わしてみせる金貨、銀貨、宝石は、目のくらんだ人間にしか見えないわけですが、国家や人々は繁栄していきます。まるで現在のバブル経済下のうつろな社会のようです。人びとは現世の利益に騙されます。


「硬いお金が欲しくなったら両替屋が待っている。両替屋に金が切れたら、ちょいと掘る。出てきた杯や鎖を競売にかけてすぐに紙幣を償却すれば疑い深く悪口をたたいていた奴どもは恥をかきます。慣れてしまえば札よりほかにはほしがらなくなります。」(手塚版『ファウスト』)


そして、金銀財宝で魔法に酔った皇帝は次に、理想の男女―ギリシャ神話の美女・ヘレナと美男子パリスを呼び出せと命令します。ファウストはメフィストと魔女の導きによりアルプルギスの夜の宴に参加し、現れた美女ヘレナに恋い焦がれます。ファウストはヘレナと結ばれますが「幸福と美とは長く手をつないではいられない」と語り、ヘレナは消えていしまいます。


そこで第4幕に移るわけですが、ここからまた話は現世にもどります。第4幕最初の場面は天上の宴から厳しい岩山の続く高山の頂上になり、ファウストは天上を表徴する流れる雲から降り、地上に立ち戻ります。ここでファウストは自分に新しい使命を見出し、それは「海への挑戦」なのだとメフィストフェレスに告げます。海の波を堰き止め、新しい土地を作り、楽園のような自分の領地にするという野望です。


「お安い御用」と悪魔は請け負い、ここでも魔法の黄金術で国力を高めさせた皇帝と国家をたきつけ、不利な戦いをこれまた魔力で敵の目をあざむいて勝利させ、その代償としていくばくかの海岸沿いの土地をもらいうけます。そして干拓の始まりです。干拓もメフィストフェレスが協力(?)し、多くの怪しい力で広大な事業は完成しますが、ファウストは盲目になってしまいます。そして幾多の困難と闘いながら完成したこの干拓地での人々の生活と彼らが大自然と闘う姿に(ファウストには見えていないのですが)至上の喜びを感じながら、このように叫びます。


「およそ人間の生活と自由は日々をこれを獲得してやまぬ者だけがはじめてそれを享受する権利をもつのだ。おれはこういう群れをまの当たりに見て自由な土地に自由な民とともに住みたい。その時おれは時間に向かってこう言いたい。とまれ、おまえはじつに美しいから』(手塚版『ファウスト』)


この言葉をきいてメフィストフェレスは「ファウストはこのつまらない現実に満足した。おれが賭けに勝ったのだ」とほくそ笑み、ファウストの魂を盗もうとします。しかし、ファウストの魂は動かず、天使によって天上に運ばれ、反対にメフィストフェレスも自分のひねくれた精神が薄れていくのを感じます。


ドイツの民話に描かれたファウスト博士を題材としながら、巨人・ゲーテは人間の肉体と魂の破滅と成長をテーマとする壮大な物語を作り上げました。特に、『ファウスト』が世界文学の中で高い地位を占めているのはこの「第2部」があるからなのだといえます。しかもそれでいて、どの部分をとっても現代に通じる真理と警句が散りばめられています。『ファウスト』については多くのファンがたくさんのことを語っています。私が探した範囲で2つのケースを紹介します。


まず、「『ファウスト』第2部は、奇想天外の空想ファンタジー劇なのです」と語る野口悠紀雄氏(著名な経済学者です)のブログ(https://note.com/yukionoguchi/n/na81252c5c703)から引用します。


「仕事が一段落したとき、ソファに寝転んで、どこか適当なところから読み始める。ページを開くだけで時空を超えた世界に行けるのですから、現実に存在する「どこでもドア」です。宣伝文句にだまされて読んだものの大抵は幻滅する近頃のSFやミステリーとは、大違い。同じ場面を何度読んでも退屈しません。それどころか、ますます引き入れられます。出だしからしてそうです。第1部は薄暗くて煤まみれの陰鬱なですが、第2部の始まりは、色とりどりの花が咲き乱れ、滝に七色の虹がかかるアルプスの麓です。そして、ギリシャ神話のヘレナが黄泉の国から呼び醒まされ、極彩色の冒険大活劇が展開します。」


もうひとつが、筑波大学名誉教授の佐藤政良氏(河川工学や防災工学がご専門のようです )の「ファウストは人生最後のしごとに干拓事業を選んだ」という以下の論考。農業土木機械化協会の機関誌に掲載されたものだそうですが、一般公開されています。 [https://ameblo.jp/burari-tabi-m/entry-12600434740.html]


第2部の最終章で、様々な体験で人生に老い疲れたファウストが望んだのは「海と戦い、安全な土地を造り、人々が豊かに暮らす」ことでした。このことについては文学にあまりかかわりのないことなので取り上げられることがありませんが、社会改良家でもあったゲーテが意味のないテーマを取り上げるわけがないと私は思っていました。佐藤氏の論考でそのことを知り、感銘をうけました。やや長く引用します。


              *


農業土木に関係する人間として、気になることがある。それは、ファウストが人生最後の活動として選んだのが干拓事業(それによる土地開発)だったことである。ゲーテは「ファウスト」の構成とその効果について熟慮を重ねたに違いない。当時のヨーロッパあるいはドイツには、ファウストの最後の行為・活動としてふさわしい候補題材は多くあったはずである。政治、経済、先端科学、絵画・音楽、哲学、宗教、医学・医療など、多才なゲーテは、それらのほとんどあらゆることについて勉強し、あるいは自ら研究を行っていた。にもかかわらず、干拓事業が選ばれた背景は何だったのか。/実は、ゲーテは、第一部の発表をした後、1816年(67歳)ころには第二部の完成をあきらめていたことが知られている。ところが、1825年2月末、ゲーテは突然、ファウスト第二部の完成にむけた執筆活動を再開した。芦津丈夫氏によれば、その三週間前の2月3日に北海沿岸部が空前の高さの高潮に襲われ、エルベ川河口付近に位置するハンブルグ市では水位が7mを記録した。これによって800人以上の人が亡くなり、多くの家畜も死んだという。そして、芦津氏は、ゲーテの日記の分析などから、この災害の経験が「海との戦い」すなわち干拓というファウスト最後のテーマにつながったのであろうと推理する。/(当時のドイツで「下層農民は、封建的束縛から解放され、自由になる一方で、それまで自由に利用できた土地を失うことになった」の部分を略)/このような状況下で、多くの農民が、自由に耕作できる自分達の農地が欲しいと願ったにちがいないことは容易に想像できる。ゲーテが、その当時の社会状況を見て、農地・農村の開発を干拓事業の目的に据え、ファウスト最後の仕事にさせた可能性はないであろうか。これは、農業土木人の目からする一つの仮説である。/その頃、ドイツの人口は急激に増加し始めていた。現在のドイツの範囲の人口を推計した研究を基にすれば、1805年以前、それまで65年間の人口増加率が年0.5%程度であったものが、それ以後、わずか35年間で人口は1.5倍、年増加率にして1.2%になった。これが、先述した伝統的農村の解体と相まって、1830年代ドイツの産業革命を準備したといわれる。近世から近代への転換期である。/以後、アジア・アフリカを中心とする植民地事業が行われ、第二次大戦後から現代にかけては発展途上国の人口増加と、それに対応する食料増産・農地開発はまさに地球規模の重要課題になった。また、2019年12月、残念なことに凶弾に倒れた中村哲医師が医療活動を中断してまで取り組んだアフガニスタンでの濯漑用水路建設活動にみられるように、ローカルなレベルでは、農地開発が何よりにもまして喫緊な課題になっている国・地域がある。/ゲーテは、現代につながる大きな転換点に生きた。もしかすると、その時代の農村の変化、土地問題の意味をするどく感じ取ったのかも知れない。


             *


かなり長い論考の一部の紹介です。関心を持った方にはぜひ鈴木氏の論考を読んでいただくことをお勧めします。

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