西日暮里の道灌山2022年12月14日 14:38


山の手線や京浜東北線で「JR西日暮里駅」を通過するとき、西口方面を見ていると、両側を高い崖に囲まれた道路が駅の真下を通っているのがわかります。この道路の両側の高い崖が道灌山で、ここを通過するのが通称・道灌山通りです。道灌山というからにはあの太田道灌と何か関係あるのかな――というよう感想は多くの人が持つと思いますが、ここで下車して調べてみようという物好きは意外にいないものです。(上は西日暮里駅から見た道灌山。道の反対側にも山はあり道路開削や駅建設で崩されたわけで元はかなり大きかったと思います)


私もそのひとりでしたが、たまたまおなじみの「まち歩きクラブ」で、暮れの一日、上野公園から谷中を経て田端駅まで縦走することになり、その途中、この地も通過するので調べてみたらけっこう面白い場所であることがわかりました。肝心の「まち歩き」は無事に終了しました(参照)。ただ、お正月ではないため、途中の谷中七福神はまだ姿を現していませんのでゆかりの寺社巡りとなりました。上野公園では国立西洋美術館さらに池之端の横山大観記念館を訪問、この地で東西の美術を味わい、谷中の街に向かいました。その後、歩くこと約2時間、参加者にやや疲れが見えてきたころ、谷中の外れにさしかかり、 今や観光地の富士山の見えない富士見坂を登って道灌山(西日暮里公園)へ向かいました。すぐ直下がJRとメトロのが西日暮里駅で、交通の便がいいので、ここで帰った方が多かったようです。さて、最後に着いた、いま西日暮里公園となっているのこの小高い岡の山頂付近こそ、古くから「道灌山」と呼ばれていた場所です。


簡単にいうと、地形的には芝から王子まで続く武蔵野台地先端の崖線上の微高地のひとつですが、江戸時代以前の河川交通の荷卸し場所で目印の松があり、かつ崖上は見晴らしの良い景勝地で広重の浮世絵や江戸名所図会などにも描かれています。こうして道灌山や隣の諏方神社にちなむ諏方台などという由緒ある地名がありながら、どうして「西日暮里公園」なんていう面白くない名前をつけたのか、私には理解ができません。


それでも頂上の一角にはかつてのこの地の繁栄を忍ぶ縁(よすが)として、立派な石碑や解説版を埋め込んだモニュメントが建てられています。説明版にはこの地の由来やこの場所が江戸時期に多くの人が訪れる景勝地であったこと、さらにその当時を視覚的に浮かび上がらせる広重の浮世絵や名所図絵のレリーフが埋め込んであります(下の図)。この公園ができた1973年頃の制作のようです。



これらの情報によると、この地が道灌山と呼ばれている、一説には江戸城を造った太田道灌がここに出城を築いた、あるいは関道潅という人物の居館があった―などの諸説があるようですが、明確な確証はないようです。有名になったのは、崖下の低地に隅田川の支流が流れ、ここが船を寄せて荷下ろしをする停泊地として最適で、船を繋いだ「舟繋の松」という地名があったそうです。さらに、崖上の高地が東北方面の低地をはさんではるか日光や筑波の山々などが見晴らせる絶景の地であったことや上野の寛永寺にも近く多くの参詣客や観光客が訪れる行楽の場になったということがありそうです。浅草方面も遠くはありませんし、日帰り観光が基本の江戸の武士や商人には格好の土地だったのでしょう。モニュメントに埋め込まれた名所絵図や浮世絵にも茶屋が何件も描かれ、繁栄ぶりがよくわかります。