筑井城の旅(2)2023年11月13日 12:41


ここで話はまた筑井という姓に戻ります。この姓を名乗る「筑井太郎次郎義胤(よしたね・義行とも)」という人物が相模川の畔の筑井城を築いたということは、山頂の石碑「築井古城記碑」や『相模国風土記稿』などでとりあえず確認できます。上の写真はこの古碑前に置かれた解説の読下文。これでもほとんど意味がわかりません!。『新編相模国風土記稿』には「鎌倉将軍ノ頃、筑井太郎次郎義胤、始テ一城ヲ築テ是地ニ居レリ」と、鎌倉時代に筑井義胤によって築城されたと記されています。ただし、築井古城記碑を刻む時点ですでに「筑井」は「築井」となっています。



(写真は右側の津久井湖と左の津久井城。中世にはここは相模川の激流が流れていたのでしょう)


そして、この筑井太郎次郎義胤は、歴史の中では(文献的にいえるという意味)源頼朝の伊豆挙兵に参加した武士団の一員とし『吾妻鏡』の中で登場しています。確認すると『吾妻鏡』の治承4年8月22日の項に「筑井次郎義行」として出ています(ただし石橋山の戦闘には遅参したと記されています)。ここまでは間違いのないことのようです。


津久井城のある旧津久井郡(現在は相模原市)は八王子の南方、北に小仏城山山塊、西に道志山塊、南に丹沢山塊と続く山岳地帯で明治時代以前は幕府直轄の津久井県と呼ばれていました。豊富な山林資源と甲斐の国と相模の国を結ぶ地形からそれなりに重要な地域ではあったようです。そして甲斐・武蔵との境になるのが相模川で、第2次大戦後はこの川にいくつものダムが造られ、豊富な水が貴重な資源になってきました。(上の写真は根小屋方面の津久井街道からみた津久井城)。


この地が津久井と呼ばれるのは、地域の中心に聳えるこの「筑井城=築井城=津久井城」から来ていることは良く知られています。この山は地元では「城山」と呼ばれ、城山町という行政区域名にもなっていました。筑井か築井か津久井かとややこしいことですが、地元の郷土誌研究者が発行した『築井文化』(第一号は1959年=昭和33年発行。毎回特集形式で貴重な文献を掲載、第7号まで続いたようです)にしてからが、誌名は『築井文化』なのに発行者は「津久井郷土研究会」となっており、その第一号の特集は「津久井城跡考」で各論文中でも「津久井」「築井」「筑井」が入り乱れております。


調べればわかると思うのですが、根本史料である『吾妻鏡』には「筑井次郎義胤」と出ているのですから、少なくとも、この人物については「筑井」とすべきと思うのですが、これをちゃんと書いているのは第4号掲載の論考「小田原北条時代の津久井地方」での中野敬次郎氏だけのようです。以下の記述(31ページ)です。「津久井城は鎌倉時代に三浦大介義明の弟筑井太郎次郎義胤(あるいは義行という)が築城して筑井氏を起こし、この地方の地頭であった頃の城である」。


となると、この「筑井次郎義行」は地元に根付いた武士かのように思われますが、さにあらず、同じ相模の国ながら、はるか南の三浦地域に勢力をもった三浦氏の家臣であったようなのです。どうも出身地と築城の経緯はうまくリンクしません。ここで追及が終わってしまいそうでしたが、あらためて別の観点からということで『日本地名大辞典神奈川県版』の「つくい」の項目をみると、ここにもうひとつの筑井(津久井)があることがわかります。それは三浦半島の先端で江戸時代に「津久井村」があり、いまでも京浜急行線に「津久井浜駅」という駅があります。かの「筑井次郎義行」はこちらに居館があったということになっています。私もだいぶ以前に神奈川の横須賀にも筑井という地名があると聞いたことはあったのですが、こうなると2つの「つくい」の関係が気になります。


 ■2つの「つくい」と築城の関係は?


調べると、この地名大辞典の(三浦市)津久井町の地誌の項目『[中世]三浦氏と津久井』に「相模一円の領主・三浦大介は北の守護に舎弟・津久井義行を長竹の宝ケ峰に配備。三浦氏の領国支配の一環として筑井城を整備した」と記述があり、相模北辺の筑井城築城の経緯を推測しています。これでやっと三浦氏の一族が筑井城を造ったということの説明がつきました。宝ケ峰は北の筑井城の古地名です。


しかしながら、安心はできません。これに対しては異論があります。『津久井城ものがたり』(平成30年3月23日発行/公益財団法人 神奈川県公園協会)の中の「津久井城の築城と内藤氏」に以下の記述があります。


「津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族の津久井氏(築井とも書く)によるというのが通説となっています。これは「三浦大介義明の弟、次郎義行が三浦半島の津久井を領し、津久井姓を名乗ったこと」、「その後愛甲郡北部の地を領したこと」、「鎌倉時代津久井義胤が宝ヶ峰に築城し、これを津久井城と呼んだこと」を伝えている『新編相模国風土記稿』や『築井古城記』の碑などに基づくものです。しかし、鎌倉時代に三浦津久井氏の勢力が津久井地域にまで及んでいたとは考えにくいことから、この説は伝承の域を出ません。」


要するに、この説明に否定的です。『津久井城ものがたり』執筆には歴史研究者が参加していますから権威があるような気がします。しかし、そうすると筑井義胤はなぜ模湖畔の筑井城に名を残しているのでしょうか。『津久井城ものがたり』を批判するわけではありませんが「鎌倉時代に三浦津久井氏の勢力が津久井地域にまで及んでいたとは考えにくい」とありますが、筑井城は地名辞典の記述のように「三浦氏の領国支配の一環として」整備されたので「三浦津久井氏の勢力」ではありません。三浦氏の領国経営の一環として信認のあつかった筑井次郎にまかせたとは考えられるでしょう。少なくとも、戦国期に本格的な山城が築かれるまでその地名が伝承される程度の場所であったことは確かです。ただし、『築井文化』の寄稿者のように「理由はわからない」ということになってしまいました。今後の発掘作業で筑井次郎時代の痕跡が出てくることを期待するしかありません。


 ■筑井とは井戸のことだった!  


気を取り直して、今度は「筑井」の氏名自体の由来を調べていきます。筑井という名は当然その土地の地名のことです。もともと三浦大介の弟が筑井と名乗ったのは、筑井村を領地としてもらったからでしょう。地名が先にあったということです。


『三浦古尋録』という、江戸時代後期に地元の文人が著した相模国三浦郡の地誌があることがわかりました。これは三浦半島全域の地誌としては最も古いとされています。三浦郡には現在の葉山町、横須賀市(全域)、逗子市(全域)、三浦市(全域)が入りますが、この「三浦古尋録その【4】」の中の記述で(現横須賀市)の北下浦村に「津久井村」があることが判明しました。わたしが聞いていた横須賀の筑井とはこのことでした。


神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙「タウンニュース」の中の「三浦古尋録その【4】」(連載 第65回)に以下の記述がみられます。「『三浦古尋録』(文化九年/1812)の中に「三浦四名井」(註では七ともあり)として、次のように記しています。「吉井・長井・今井・筑井(津久井)・大井戸」と五箇所をあげています」。次も、この「三浦古尋録その【4】」の解説からです(注は私が加えたもの)。


この『三浦古尋録』の中では、「津久井」については「筑井」とも表記されています。『古尋録』が書かれた当時(注:江戸時代後期)の「津久井村」は戸数百五十戸の村でした。さらに「『新編相模風土記稿』の中に、村(注:筑井=津久井村)の南に「字(あざ)井戸田」ありとあって、土地の人は「此の水を飲むを忌む」と記され、「由来は詳ならず」とも書かれています。「タウンニュース」では「津久井浜高校が創設された頃、駅から学校へ向かう道の右側は田圃が続いていて、その中に、水が湧き出る処なのか、周囲に石が置かれている場所があったように記憶しています。」という具体的な人の記録が記載されています。 この津久井浜高校の近くにあったという井戸田が筑井(の井戸)というように読めます。筑井とはこの地の井戸の名前でした。これにより、この地が筑井と呼ばれるようになり、やがて、ここを領地とした人物が筑井氏と名乗り、相模北方の地に筑井城を築いた─これが現在のところの結論です。



筑井義行の館があったとされる津久井浜の駅から遠くない東光寺に筑井義行の墓と伝わる五輪塔が残されているそうです。一度訪れてみたいものです。写真は「鎌倉遺構探索」というブログ(https://kamakura8.blogspot.com/2020/02/blog-post_19.html)からお借りしました。津久井義行となっているのが気に入りません。

鴨川中流の古墳群2023年11月26日 18:26

おなじみの「まち歩きの会」で2024年早々(1月から2月)に埼玉県南部で主にさいたま市域を流れる鴨川を、その最終合流点から源流まで歩く計画をたてています。この川は私の実家から近いので小学生の頃は付近の水田や用水路で遊んだ思い出の川でもあります。


今回、この企画に先立ち、数人で下見歩きをしていますが、その最中で、今まで気づかなかったことがありましたので、簡単に報告します。


桶川駅付近に源流をもち、大宮台地を南進して彩湖近くで荒川に合流する鴨川は、さいたま市近郊の代表的な河川です。一級河川荒川水系で、河川整備法では「上尾市北部の台地部 に源を発し、荒川に合流する、流路延長19.2km、流域面積63.69k㎡に及ぶ河川」です。


最初の発見は、出発地の西浦和駅を出て、鴨川に流入する鴻沼川で「桜橋」橋を渡るところからはじまる「鴨川堤桜橋通り公園」という道路に沿った公園です。ここが文字通りかつて蛇行していた鴨川の旧堤防の跡─というより、荒川整備以前にここを流れていた入間川の旧河道です。鴨川の歴史はもちろんですが、この低地一帯の成立がわかる面白い場所です。


そのあと、これも鴨川の昔の暴れ川の存在を示す「千貫樋水郷公園」を過ぎると、地図の上に多数の古墳が記されているのがわかります。これは、この付近、さいたま市桜区大久保から同区白鍬にかけて分布する古墳群で「大久保墳群」と呼ばれるものです。一部の古墳は市指定史跡、県選定重要遺跡に指定されています。


いくつかの古墳があることは知っていましたが、これほどの規模で、しかもかなりのものが現存しているのが驚きです。小さな古墳はほとんどの場合、切り崩されての農地になってしまいます。この中で、この日は、塚山古墳と神明寺古墳を見学しましょうということで、いずれも個人所有なので、いきなり自宅に伺い、見学許可をお願いしました。両家とも快く了解され、塚に登るときも一緒に来てくれました。文化財指定をされていますが、特に維持管理費が出るわけでもないようで「結構大変です」といいながらなんとなく嬉しそうな気配もありました。


塚山古墳はかなり大きく、前方後円墳または方墳の可能性もあるとのこと。上に稲荷社があり、立派な石の階段が設けられています。神明寺古墳のお宅はこの土地で19代続くとかで、大久保地域の歴史の長さを体現しています。(写真は塚山古墳)


古墳が築かれた時期は、出土した円筒埴輪や人物・馬形の埴輪などから、6世紀から7世紀前半とみられています。