筑井城の旅(1)2023年10月31日 13:47


私の苗字(いわゆる姓)は筑井=つくい=です。この姓と同じ文字の人物にはまだ会ったことはありませんが、数人以上いる(現存?)ということは間違いなく分かっています。私の父や祖父は群馬県の出身で、新町(現在は高崎市)にお墓もあります。群馬県にも筑井姓のひとはいます。一方、おなじ音ながら「津久井」という地名が神奈川県西部にあり、この姓の人のほうが多く私も実際に会った方が数人います。


「津久井」は「筑井」あるいは「築井」とも表記します。実際、市販の地図上でも混在しています。現在の行政上の文字は多分「津久井」で統一されているのでしょうが、近世以前(江戸時代まで)は文字は手で書くしかなく、しかも統一された表記などなかったわけで、案外というかかなり普通にいわゆる「当て字」が使われていましたから、これらの文字がほぼ同じ地名(あるいは人名)として使われていたのは確かです。ただ、特に難しい文字でもないになぜ混在しているのかは疑問でした。



また、この津久井地方に「津久井城」なる山城があり、その古い呼び方は「筑井城」あるいは「筑井城」であるということも知っていましたので機会があれば現地で確かめてみたいという気持ちがありました(上の写真は麓の根小屋地からみたお城。以下、勝手にこの城を筑井城と表記します)。そんななか、つい先日ですが、吉川英治著の『新平家物語』という小説をキンドル版で読んでいましたら、その中で、源頼朝の伊豆挙兵時の石橋山の戦いに「筑井義行」なる武将が参加して奮戦したという記述に遭遇し、あらためて歴史記録を調べてみると『吾妻鏡』という第一級資料の何カ所かに、確かに「筑井」の名があります。


いろいろの疑問を持つうちにこの山城の頂上部(本廓)に「築井古城記」という碑があり、不明ながらも由来が書かれていることもわかりましたので、この山城に登り、同時に、事前に相模原図書館で「ここにいけば資料があるかもしれません」と教えてもらった「津久井城パークセンター資料館」に立ち寄って地元の記録を調べてきました。(過去にいくつかの山城について調べたことがあり、この筑井城に古い碑のあることは知っていました)


筑井城はJR横浜線の橋本(相模原市)という駅を降り、すぐ横を通っている津久井街道を西にまっすぐ進んだ津久井湖ダムのほとりにあります。もちろん、築城時は相模川の流れが造る断崖が堅固な堀になっていたのでしょう。最初に、山の反対側にある津久井湖パークセンターを訪問し、いろいろ資料を見ていると築井郷土研究会という団体の発行した『築井文化』という古い会報が目に留まり、面白そうです。創刊号には件の築井古城記の碑の読み下し文も掲載されています。5号にはもっと興味深い論考がありました。


この文書類はあとで見るとして、山城としての筑井城についていうと標高は375メートでルすから、先日訪れた杉山城(埼玉県・武蔵嵐山町)などの段丘上に造られた山城に比べればかなり高いです。ただ、津久井湖の標高がすでに150メートル以上ありますから山としてみればほんの低山です。いまや大都会の相模原や橋本から近く、眼前に続くいくつものダム湖の景観を目玉として観光地化しています。中腹までデッキ状の遊歩道もあり、春・秋の行楽シーズンはかなり賑わうのではないでしょうか。(上の写真は根小屋地区から見たお城。下の写真は山頂付近の堀切と古城記碑の立つ高台)


文化財・城山としての発掘や整備は市民レベルでも行われているようで、この日は時間がなく、詳しく見ていませんが、全山がひとつの城域で、ほとんどが現存していますから歴史資料としても貴重でないかと思います。 中腹以上の地域には登山道(旧道)もあり、山腹の複数の竪堀と横方向の堀切も残されているようです。低山とはいえ、自然の山岳ですから、鎖やロープで補助するような険しい場所もあるようです。私はパークセンターのある南側から登りましたが、それほど苦労もせず東西2つの山頂を繋ぐ尾根に出ました。(ちなみにこのパークセンターのある筑井城の南地域は「寝小屋」という地名です。寝小屋というのは、山城のある地に多いようで、山中の戦闘員に対して後方の人員や家族が住む地域の意味で、後代の城下町の原型とか。また「なごや」の語源ともいうようです)



山頂に通じる尾根に出ると道が東西に走っています。この筑井山城の山頂は2つあり、小さいながら双耳峰です。一方の山頂が城郭、もう一方には飯縄神社があります。この山は江戸期から森林利用のため保護されていたようで薪炭の材料となるカシやブナ科の木々が多いようです。山城本体の本廓になっている西側の頂上近くにははっきりとわかる2重の堀切があり(上の写真)、いかにも山城の雰囲気が感じられます。


本廓上にある、その名前だけを聞いていた「築井古城記の碑」を感慨深く拝見し(写真は記碑の置かれた高台。山頂廓の中でもっと高い場所にある)、少し下がった場所のベンチに座って松の木越しに眼下の津久井湖の景観を眺め(下の写真)、反対側から下りました。短いジグザクを繰り返してまっすぐに降りる登山道があり、あっというまの下山でした。