三峰神社のシカとオオカミ2023年12月08日 13:55


おなじみの地元の山の会で秩父の「三峰山」と「三峰神社」に行きました。今回は西武線発の各駅で購入できる「秩父漫遊きっぷ」を利用しました。この切符かなり割安なのではないでしょうか。以下この山の会のブログに書いた記事をほぼなぞります。


一行は西武秩父駅から三峰神社の表参道登山口である「大輪」に午前9時頃に到着。かなりさびれた門前街を横目に荒川の深い渓谷に架かる登龍橋を渡り鳥居をくぐって登山と参詣の開始です。その昔、埼玉県人は三峰神社に行くのが義務みたいな習慣があったようで、大宮にいた私も中学生のころに2回ほど来ていまして、この深い谷を越えて登ったのを覚えています。その時は、多分、秩父鉄道の三峰口から歩いたのかもしれません。ここもすでにかなりの高度なのでブナ科などの黄葉が鮮やかです。もともと参詣道ではありますし子供も登った道なので特に厳しい場所もありません。道の両側にスギをはじめとする巨木群と枯れてしまった切り株、登るにつれて朱色のカエデなども混じってきて晩秋を感じます。この日は寒波の到来で寒さ対策をしていたのですが、風もないので、北側の陽が当たらない斜面でもそれほどでもなく楽しく登れます。



途中にいくつかの小さい流れを渡りますが、やがて荒川の支流が削った深い谷に流れ落ちる二筋の水が現れます。清浄の滝です。昔の修験者はこの滝で身を清めてから参拝したんでしょうね。いかにも滝行によさそうな高さと周りの岩棚です。土曜日ですが、登山者はそれほどでもありませんでした。下ってくる人もわりと気楽な感じの人ばかり。かつては信仰の山で、ロープウエイもあった人気路線ですが、今はバスや車で行く手軽な観光地という感じになっています。山頂に近づくとかなり古そうな家や旅館風の建物が道に沿って建っています。おそらくかつての信仰が盛んな頃の参道を通ってお参りするひとのための宿坊(跡)でしょう。三峯神社自体にも宿坊「 興雲閣」があります。


1時間半ほどで山頂神社手前の展望台(遥拝殿)に到着。ここから鳥居をくぐり直進すると神社本殿ですが、ここでは参拝せず、 三ツ鳥居方向を通り、本日の最高峰である妙法ヶ岳方面に進みます。意外と知られていないのですが、本来の三峰山(みつみねさん)とは神社の奥宮である妙法が岳(1332m)と白岩山(1921m)、雲取山(2017m)の三山の総称だそうです。われわれはここを雲取山方面に進む便利な「登山道」と思っていましたが、正式な参詣道ということになるのです。15分ほど歩くと三の鳥居のある奥宮分岐地点です。ここで、そのまま奥宮に向かうグループと登らずに本殿参拝と食事休憩をする省力グループに分かれます。私は省力グループ(3人)なので戻り始めましたが、なんと目の前を4~5頭のシカがゆっくり道を横切って通ります。雌鹿と小鹿のようですが、まるで春日大社か宮島神社みたいに、かなり人慣れしている風で悠然としています。


参道本堂に戻り、斜面を下って本殿に向かいます。左右にたくさんある摂社にも狛犬がいるのですが、今回の企画の提案者のYさんがそれをみんな写真に撮っています。犬好きのようです。秩父の神社はみなオオカミが守り神なので宝登山も御岳山も狛犬はオオカミですが、確かにそれぞれ微妙に顔つきが違います。


やがてついた本殿は色彩鮮やかな木彫に飾られたたいそう豪華な造りです。手水舎や灯篭も金箔造りでこんな豪華なのは他に見たことがありません。役小角から始まる山岳修験の聖地としての歴史を持つ山岳寺院であることがわかりますが。今や関東一のパワースポットという触れ込みでも人気を得ようとしています! ふと気が付いたのですが、石段から社殿の廻りまで、玉垣のほとんどすべてに築地市場関係者の名や講名が彫ってあります。築地市場は東京の隅田川の最下流にありますが、流れをたどると荒川、三峰はその源ということでかつては江戸湾の豊漁を祈る信仰があるのだそうです。


私たちは、参拝後、境内に立ち並ぶ食堂やカフェをながめ、まずは観光パンフにも乗っている「わらじカツどん」を食べようということで大島屋という店に入ります。店内はかなり広く、いす席、お座敷さらに南西方面に広がるパノラマを見ながらのテラス席があります。われわれは指定されたいす席で料理と地酒の「秩父錦」を注文します。目の前に来た「わらじカツどん」は薄切りの大きなカツが2枚どんぶりに乗っているというシンプルなもので、評価はいろいろでしょうが、私はそれなりに美味しかったです。お燗で出る秩父錦は甘口で料理には合う感じ。秩父にはもうひとつ「武甲正宗」なる銘酒があるはずですが、店ごとに独占契約しているそうでここでは頼めませんでした。しかし、山の頂上でこんなふうに楽しい居酒屋気分になれるとは思いませんでした。行楽地ですね。


かなり談笑していましたが、まだ時間があるので別のお土産屋さんでコーヒーを注文し、通りに並んだテーブルで陽に当たりながら帰りを待ちます。奥宮登山は思ったよりも時間がかかるようで、午後3時過ぎに連絡がつき、下の駐車場にあるバス乗り場に向かいます。


バス便はそれほど多くないので最終的には満員になり、しかも西武秩父駅まで1時間半もゆられました。登りと下りの方角が違いますから当然ですがやはり全体が大きな山であることがわかります。近いようで遠い三峰神社に行けて満足です。

三貫清水と筑井氏続き2023年12月26日 17:27


先日の記事で、さいたま市の鴨川を歩くという「まち歩き」の途中で目にとまった古墳群について書いていますが、古墳探しの続きは後日のこととして、この鴨川については個人的ないくつか思い出があります。私は小学校入学前くらいから20代後半まで旧大宮市の日進というところに住んでいました(現在はさいたま市北区日進町)。日進というのは旧大宮市の西北で川越線という(以前はかなりローカルな)単線の路線で川越方面に1つ目の小さな駅が中心の静かな住宅地でした。とはいえ、私の子供時代はなんと60年以上前のこと、周辺はほぼ純農村地帯で雑木林と原野がひろがり、もう、今では信じられないくらい自然度の高い場所でした。


当時は空前のベビーブームでしたから、通った小学校も多分、雑木林を切り開いて新設されたばかりだったようで最初は校歌もありませんでしたが、なんといっても周囲の豊かな環境が思い出です。登校下校の時間はかなり長かったのですが、毎日コースを変えての遊びながらの帰り道─思い出せば楽しい学校生活だったと思います。


先に記事に書いた鴨川はこの学校から遠くない場所を流れていて、周辺には水田や小川もあり格好の遊び場所。そんなところには必ずきれいな水の湧き出す場所があり、透明な池の中には小魚やタニシやザリガニがいました。ひとりでいると街の騒音もまったく聞こえない静かな世界で、こういう場所でじっとしているのが好きでした。


当時、この付近にはこうした小さな自然エリアが無数にあったと思うのですが、これが大きく変わっていくのは昭和30年代からの農業の機械化・農薬の使用と40年代に入ってからの自動車の普及と大きな舗装道路の建設です。特に、東京と新潟方面を結ぶ国道17号線と国道16号線のバイパス道路の建設がこの付近の風景をあっという間に変えてしまいました。


30歳台になってから、忙しさと住む場所が変わったこともあって、この付近を訪れるのは年に数回も無くなっていたのですが、10数年ほど前から、大宮の博物館のユーザー団体やその他の趣味グループの「まち歩き」に参加するようになり、いろいろな場所に出歩く中で、あるときその企画のひとつとして、埼玉県内を通る鎌倉街道の枝道である志木方面から浦和・与野を通って上尾方面に達するという古道を歩くというのがあり、それに参加すると何と上記の小学校の頃の通学路のひとつがその道だったのです! この古鎌倉街道が走っているのは私の母校の日進北小学校から鴨川方面に向かってほんの数百メートルの林の中ですが、この林と鴨川までの湿地が「三貫清水」という自然保護地域に指定され小さな公園として残っていたのです。こうした自然は、先に書いたようにこの付近にはかなりたくさんありましたからことさら大事にされていたとも思わないのですが、どうも私の記憶にはないのですが、この「三貫清水」という場所は当時から知られていたもののようです。以下は地元の広報誌からの転載です。


<(日進町の北側、鴨川の東側に隣接した林の)南北中央に「鎌倉街道」が通り、その西側の低地に、水深1m程度の沼地が2箇所あり、これらを「三貫清水」と呼んでいる。名前の由来は―「江戸城や川越城などを築いたことで有名な太田道灌(1432年-1486年)が、この辺りに狩りにきた時、土地の人がこの清水を汲んで茶をたてて出したところ、「とてもうまい」といって三貫文(今でいうと50万円ほどのお金)の褒美を下さったとのことで、「三貫文の値うちのある湧き水」という意味で「三貫清水」という名前が付いたといわれている―。雑木林の中央を通る「鎌倉街道」は、戦国時代、軍事や交易(商売)などで重要な役割を果たしており、街道の横には、武士が泊まる宿や、いろいろな物を取り引きする市場などが設けられていた。その鎌倉街道の一本が三貫清水を通っており、太田道灌はこの街道を馬で駆けてきて、三貫清水に立ち寄ったものと言われている>


とこんな感じです。思えば、小学校でこの付近に見学に行ったことがあります。その時にこのいわれなども聞いたかもしれませんが記憶にはありません。上の写真もその広報誌『大宮マガジン』(志楽社)の記事からです。(https://omiya-magazine.saitama-navi-shiraku.jp/about/)


■三浦一族と筑井氏(続き)


これもすぐ前の記事『筑井城の旅』の最後で、三浦半島の津久井の地を治めていた筑井義胤(よしたね・義行とも)は、筑井城を築いたもののその後の歴史に名を出さず消えてしまうということにしてあります。確かに義胤は出てこないのですが、この筑井氏一族自体はしばらく存続します。しかし、鎌倉幕府創建後の1221年のいわゆる「承久の乱」に関係する中で完全に滅んでしまいます。その事情を少し追記します。


筑井氏はその後、筑井義行→高行→義通→高重と続くのですが、この最後の筑井高重の時に鎌倉北条氏と京都の後鳥羽上皇側が争う、いわゆる承久の乱が起こります。当時京都にいた三浦胤義は立場上、後鳥羽上皇側につき、筑井氏にもその旨が知らされます。そこで筑井高重は少数の部下とともに京都に向かうのですが、北条方の軍勢と同行だったため、途中で抜けようとして発見され、あわれ討ち死にします。これは『承久記』に「高重討死の事」として出ているようです。


この承久の乱では三浦胤義は子息の胤連、兼義とともに自害し、東国に残していた幼い子たちも長子を残して処刑されます。筑井氏も土地を追われ、どうもその敗走先のひとつが群馬県前橋だという伝承があるようで、ここではじめて私の父の出身地が登場します。


なお、ややこしいですが、三浦胤義の兄三浦義村は鎌倉側でその後も勢力を保ち、戦国期にいわゆる小田原北条氏に滅ぼされます。この三浦一族のドラマチックな争いや悲劇的な最後にロマンを感じる人は多いようで、三浦一族に関するブログやYouTube番組がたくさんあります。