〚ファウスト〛の旅(1)2022年11月13日 11:03


久しぶりに長編の文学作品を読んでみようかと思います。最近は本当に活字を読まない。本も買わない。新聞をいわゆる「電子版」に変えてからというもの、目にする文字といえばもっぱらタブレット端末かスマホのチカチカ光る画面に表示されるデジタル活字ばかり。さらに最近はYOUTUBE番組の視聴が多く、音声で聞くことができるものが増えています。音声合成ソフトがそれなりに進歩しているようで、あまり違和感のないナレーションを聞けますし、肉声にしてもそれなりの(アナウンスの)プロがつくっていると思われる番組もあります。アマチュア(といっていいのか)が自分の顔と声で録音・録画しているようなビデオも相当にありますが、これも面白いといえば面白い。プロとアマの差がないのが現在のYOUTUBE番組の不思議さです。これで収益も十分にあるようですから、出版の世界における「商業出版」と「自費出版」の違いとも異なる新しい大衆文化の始まりといってもいいかもしれません。話が脱線しましたが、これはこれでいいとして、文字で読む世界も(自分の目が大丈夫なうちは)捨てたくはありません。


ということで、選んだのはドイツの文豪・ゲーテの有名な作品『ファウスト』。これも例によってかなり前に購入しています。多分、40数年以上前ですが、読んだ時の記憶はあります。それも面白かったという覚えがあるんですが、少なくとも最近は手に取ってもいません。今、書棚から箱入りの重厚な装丁のこの書物を取り出すと、白地の中央部に正方形の金赤色箔が目にも鮮やか、その上に黒と白で「GOETHE FAUST 悲劇」と書名が刻印され、小さく手塚富雄訳とあります。箱自体も赤地で印刷されているんですが、月日の経過で背の部分は今や色あせたセピア色に変わっています。40~50年以上前の書籍の立派で堅牢なこと―。


A5版で8ポイント2段組み、解説や年譜を含めて460余頁のボリュームですが、読み始めてから、内容について後悔する気遣いはありません。「悲劇」と題されているように、これは小説でも詩でもなく戯曲ですから(芝居の台本のように)、独白を含めてすべてが登場人物の語るセリフで、ストーリー自体も難解でもなければ退屈でもなく進行します。もともとがドイツに伝わる伝説・昔話の「ファウスト物語」を下敷きにした「悪魔と契約した男の物語」ですから超自然的な天使や悪魔、魔女が登場します。しかし科学的近代人・ゲーテが書いたものですから、現代人にもわかる物語的合理性の中で無理なく進行します。


今回、再読を始めてみると、いかにもゲーテらしく、人生や人間の生き方にかかわる深い洞察に満ちた言葉が随所に見つかり飽きることがありません。どんな下世話な場面でも、ゲーテの珠玉の言葉が散りばめられていますから、私はそれを「ゆっくり」楽しめばいいのです。その意味では、この作品は時間のない「若い」時代より、老壮の世代が余裕の時間の中で少しずつ読んでいくときに一層その味わいが深まるのかもしれません。


もちろん、このためには日本語訳の平明さがなんといっても必要です。私がもっているのは、今は中公文庫版で出ていると思いますが、手塚富雄氏の手による名訳の評番が高い翻訳です。〚ファウスト〛は日本でいえば江戸時代の作品ですから、明治以来、その翻訳の数は数多く、現在入手可能な有名なものだけでも
・森林太郎訳:ちくま文庫
・高橋健二訳:角川文庫
・高橋義孝訳:新潮文庫
・手塚富雄訳:中公文庫
・池内紀訳:集英社文庫 
・相良守峯訳 :岩波文庫

など相当あります。この翻訳の比較をしたWebサイトなどもあり、皆さんそれぞれに「あれがいい、これがいい」と蘊蓄を披露なさっています。中でも森林太郎とはご存知の文豪、森鷗外(林太郎は本名)が翻訳したもので、今なお、その価値が評価されています。ゲーテは、この大作〚ファウスト〛の第一部を1808年に、第二部を死の翌年の1833年に発表しています。一方、鷗外の翻訳は1912年頃のようです。約200年前に世界の文豪の書い作品がその100年後に日本の文豪の手で翻訳されているのです。


メフィストフェレスの魔術のように、時と空間を超えて、そのさらに100年後の現在、この鷗外訳は、読むだけなら、青空文庫やAmazonのキンドル版で「無料」で手に入ります。(https://www.aozora.gr.jp/cards/001025/files/50909_49238.html)。

鎌倉の「やぐら」2022年11月28日 17:33


源頼朝が幕府を開いた鎌倉という都市は相模湾という海に面していますが、陸地は狭く、周囲を高くはありませんがそれなりに険峻な海岸段丘の山々に囲まれています。この山の間を抜ける主要な交通は「切通」の狭い道で外界につながり、こうした要害の地であることが中世の乱れた世の中で政権を長続きさせるひとつの要素になったのでしょう。


鎌倉の周囲のこの山並みはいまや地元ばかりか近郊の人々も訪れる行楽の地になっています。JR線の北鎌倉駅から西側の大仏様の裏側に抜けるコースもあり、私も何度か歩いたことがありますが、通常は東方向の天園や十二所方面に向かうのが「鎌倉アルプス」とよばれるハイキングコースになっているようです。先日、秋の終わりにこのコースを楽しんできました。秋の散歩といえば紅葉を目当てに行く人が多く、われわれも幾分かはそれを期待していたのですが、ここは<三浦半島の森と川 >の記事で紹介した逗子・葉山の属する三浦半島の入口にあたり、海に面しているという自然環境もほぼ同じです。北鎌倉の駅で下車、明月院の裏手から歩き始めるとすぐにここがシイやカシにツバキが混ざるという落葉しない暖帯・照葉樹の林だということがわかりました。北関東のブナ科主体の木々を主体とした雑木林を見慣れている者には冬で暗い登山道は少し違和感があります。ブナやモミジ、カエデの姿はほとんど無くイチョウの黄葉も多分に寺院の中のだけのようです。


コース途中の「百やぐら」


さて、この天園コースは大平山という鎌倉最高地点の山を目指して続いているのですが、地図で見るとその途中に「百やぐら」という史跡のマークがあります。鎌倉の「やぐら」については少し前、鎌倉街道歩きの旅で「朝夷奈切通」を通った時に、両側の切り立った崖に掘られた浅い横穴の中に小さい石塔や供養物と思われる品が祭られているのを目にし、これは中世の弔いの跡で「やぐら」というのだと教えられたことがあります。ここにあるのもこのやぐらでそれが数多くあるのだということで注目しましたが、登山道の山側に草に隠れるように横に伸びた洞窟上の溝があるのはわかりました。近寄ってみると、そのうちのいくつかははっきりした洞窟で、中に古い石塔が安置されています(下)。大分・国東半島の六郷満山のような信仰の山に掘られた摩崖仏のように仏像や阿弥陀像があるわけではありません。



この場所にまとまって残っているいるので「百やぐら」ということのようです。埼玉県にある通称「吉見の百穴」は古代の横穴式の墳墓群として有名ですが、この鎌倉の「かぐら」もやや形成時期は違いますが、山の中腹の崖を利用した横穴式墳墓ということができます。


この「やぐら」は鎌倉を中心としたこの地域で3000以上の数が確認されているようですが、どうしてこれが中世期(鎌倉時代)に多くできたのか。この「やぐら」には不思議なことがたくさんあります。この日、ハイキングの途中に寄った永福寺院(跡)付近の低い丘の崖にもいくつかそれらしき洞窟が見えましたが、特に参考になったのは、その後に立ち寄った鶴岡八幡宮近くにある源頼朝や大江広元などの墓所です。ここも通常の墓地でなく、石段を登り、急峻な断崖に掘られた洞窟(やぐら)の中にありますが、その説明の中に「古代の墳墓を利用して墓地とした」という記述がありました。つまりそれ以前からこの土地にはこのやぐらと呼ばれる横穴墓地があったということです。


鎌倉は梅に面した狭い土地です。そこに関東の武士団が集結し、幕府が開かれ、街ができます。狭い土地ゆえに人々はそれまでも亡くなった人を山の上の崖に安置し、やがて横穴を掘って埋葬することになったのでしょう。確かに鎌倉はお寺は多いですが、広い墓地は少ないようです。幕府の侍たちも、それ以前からあったこうした伝統の中で、鎌倉を取り巻く山々の洞窟に安置されたのだと思われます。「やぐら」の謎のひとつは、この言葉にはあてはまる漢字(漢語)が無いということです。つまり外来の習慣ではなく、記録されることもなかった埋葬習慣として古代から鎌倉時代前後まで続いたということになります。


三浦氏のやぐら


上に述べた大江広元などの鎌倉御家人の墓(やぐら)の一段下の小さな平地に源頼朝法華堂跡があり、その近くに、実に素朴な横穴があり、「三浦氏が供養されているやぐら」の説明版が置かれていました(上の写真)。三浦氏は鎌倉幕府勃興期の有力御家人ですが、最後は北条時頼により一族もろとも滅ぼされます(自害ということ)。その供養がこの法華堂で行われたということですが、実はその場所自体近年まで不明でした。


この三浦氏の家臣団に津久井氏がいました。現在の神奈川県津久井郡はその領地の一部ですが、実は横須賀市にも津久井の地名があります。また、津久井と筑井は同じで、相模川・津久井湖近くの山城の石碑には「筑井古城」の名が刻んであります。私の父は群馬県の出て、どうして北関東に流れたのか不明ですが、北関東には筑井の名が伝わっています。