鎌倉の「やぐら」 ― 2022年11月28日 17:33
源頼朝が幕府を開いた鎌倉という都市は相模湾という海に面していますが、陸地は狭く、周囲を高くはありませんがそれなりに険峻な海岸段丘の山々に囲まれています。この山の間を抜ける主要な交通は「切通」の狭い道で外界につながり、こうした要害の地であることが中世の乱れた世の中で政権を長続きさせるひとつの要素になったのでしょう。
鎌倉の周囲のこの山並みはいまや地元ばかりか近郊の人々も訪れる行楽の地になっています。JR線の北鎌倉駅から西側の大仏様の裏側に抜けるコースもあり、私も何度か歩いたことがありますが、通常は東方向の天園や十二所方面に向かうのが「鎌倉アルプス」とよばれるハイキングコースになっているようです。先日、秋の終わりにこのコースを楽しんできました。秋の散歩といえば紅葉を目当てに行く人が多く、われわれも幾分かはそれを期待していたのですが、ここは<三浦半島の森と川 >の記事で紹介した逗子・葉山の属する三浦半島の入口にあたり、海に面しているという自然環境もほぼ同じです。北鎌倉の駅で下車、明月院の裏手から歩き始めるとすぐにここがシイやカシにツバキが混ざるという落葉しない暖帯・照葉樹の林だということがわかりました。北関東のブナ科主体の木々を主体とした雑木林を見慣れている者には冬で暗い登山道は少し違和感があります。ブナやモミジ、カエデの姿はほとんど無くイチョウの黄葉も多分に寺院の中のだけのようです。
コース途中の「百やぐら」
さて、この天園コースは大平山という鎌倉最高地点の山を目指して続いているのですが、地図で見るとその途中に「百やぐら」という史跡のマークがあります。鎌倉の「やぐら」については少し前、鎌倉街道歩きの旅で「朝夷奈切通」を通った時に、両側の切り立った崖に掘られた浅い横穴の中に小さい石塔や供養物と思われる品が祭られているのを目にし、これは中世の弔いの跡で「やぐら」というのだと教えられたことがあります。ここにあるのもこのやぐらでそれが数多くあるのだということで注目しましたが、登山道の山側に草に隠れるように横に伸びた洞窟上の溝があるのはわかりました。近寄ってみると、そのうちのいくつかははっきりした洞窟で、中に古い石塔が安置されています(下)。大分・国東半島の六郷満山のような信仰の山に掘られた摩崖仏のように仏像や阿弥陀像があるわけではありません。
この場所にまとまって残っているいるので「百やぐら」ということのようです。埼玉県にある通称「吉見の百穴」は古代の横穴式の墳墓群として有名ですが、この鎌倉の「かぐら」もやや形成時期は違いますが、山の中腹の崖を利用した横穴式墳墓ということができます。
この「やぐら」は鎌倉を中心としたこの地域で3000以上の数が確認されているようですが、どうしてこれが中世期(鎌倉時代)に多くできたのか。この「やぐら」には不思議なことがたくさんあります。この日、ハイキングの途中に寄った永福寺院(跡)付近の低い丘の崖にもいくつかそれらしき洞窟が見えましたが、特に参考になったのは、その後に立ち寄った鶴岡八幡宮近くにある源頼朝や大江広元などの墓所です。ここも通常の墓地でなく、石段を登り、急峻な断崖に掘られた洞窟(やぐら)の中にありますが、その説明の中に「古代の墳墓を利用して墓地とした」という記述がありました。つまりそれ以前からこの土地にはこのやぐらと呼ばれる横穴墓地があったということです。
鎌倉は梅に面した狭い土地です。そこに関東の武士団が集結し、幕府が開かれ、街ができます。狭い土地ゆえに人々はそれまでも亡くなった人を山の上の崖に安置し、やがて横穴を掘って埋葬することになったのでしょう。確かに鎌倉はお寺は多いですが、広い墓地は少ないようです。幕府の侍たちも、それ以前からあったこうした伝統の中で、鎌倉を取り巻く山々の洞窟に安置されたのだと思われます。「やぐら」の謎のひとつは、この言葉にはあてはまる漢字(漢語)が無いということです。つまり外来の習慣ではなく、記録されることもなかった埋葬習慣として古代から鎌倉時代前後まで続いたということになります。
三浦氏のやぐら
上に述べた大江広元などの鎌倉御家人の墓(やぐら)の一段下の小さな平地に源頼朝法華堂跡があり、その近くに、実に素朴な横穴があり、「三浦氏が供養されているやぐら」の説明版が置かれていました(上の写真)。三浦氏は鎌倉幕府勃興期の有力御家人ですが、最後は北条時頼により一族もろとも滅ぼされます(自害ということ)。その供養がこの法華堂で行われたということですが、実はその場所自体近年まで不明でした。
この三浦氏の家臣団に津久井氏がいました。現在の神奈川県津久井郡はその領地の一部ですが、実は横須賀市にも津久井の地名があります。また、津久井と筑井は同じで、相模川・津久井湖近くの山城の石碑には「筑井古城」の名が刻んであります。私の父は群馬県の出て、どうして北関東に流れたのか不明ですが、北関東には筑井の名が伝わっています。
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