久しぶりの山歩き ― 2020年06月10日 13:40
新型コロナ感染症に伴う全国民への緊急事態宣言!そして外出自粛要請――これが約1か月半続きました。テレワークへの切り替えなどで素早く対応できた企業は別として、なんだかむなしく家の中で過ごしていた人たちも多かったようです。私自身はかなり前から個ra人企業的な活動が中心ですし、60歳代後半からは仕事での外出も月に数回というペースでしたから表面的に大きな変化はありません。3月ころまでは週に何回かは電車で出かける用事もあって、数日間以上、家にひきこもって過ごすということはそうありませんでした。それがこの40日間くらいは、仕事での外出2回を除き、ほぼ完全な徒歩圏内での軟禁生活です。外出といえば、朝の散歩というか近くのカフェでコーヒーを飲んだりしたあと、午後はジムも休みなので、これもいつものことでしたが近くの散歩道を1~2時間ほどぶらつく(これが多くの場合、夫婦一緒だと買い物になっていきますが)だけというかなりルーチンな行動パターンを繰り返すという日々でした。
6月になり「緊急事態宣言の解除!」となり、従順なる国民のひとりである私はようやく電車に乗り、山歩きが可能ということで、さっそく、5/30に八王子の高尾山、6/5には飯能の日和田山と出かけてきました。高尾山は登山再開2日目ということでしたが、日曜日ということもあったと思いますが(多くは待ちわびたと思しき登山者でしょう)かなりの賑わい。子供連れに加えて、熟練者が大変な速さで一般登山者を抜き去っていきました。本格登山のための足慣らしという雰囲気ですね。この日、私はひとりでしたが、景信山まで行ってから八王子バス停まで降りる予定でしたが、城山付近で(登山靴の中で)足先が痛み始めたため、先日のコースと同じように小仏峠から旧甲州街道を急いで八王子バス停へエスケープしました。八王子バス停ではかなりの登山客が待っていてバスが2台来ました。
日和田山は友人と2人。よく行くコースですが、今回は西部秩父線の高麗駅から歩きました。巾着田の入口となる車道を行くと照り付ける日差しは強く、真夏のようです。鹿台橋で高麗川を渡り、日和田山の登山口に到着。ここからはスギを主体とした森林の中に入りますのでやや涼しさが感じられます。しばらく進むと男坂、女坂の分岐になります。少しでも岩場の雰囲気に触れたいので男坂を登り始めましたが、案外あっけなく目指す鳥居直下の岩場に到着してしまいました。子供連れを含むかなり多くの人の姿がありました。手軽な山ということでしょうね。日和田山の頂上(305m)を経て、物見山まで尾根歩き。途中の展望のよい場所にはきれいな休憩施設ができています。この日は晴れていますが、靄がかかり、あまり遠くは見えませんでした。出発が遅かったのでここで昼食休憩。その後、物見山を経て、いくつかの枝道に注意しながら北向地蔵の道しるべに到達します。
この北向地蔵(上の写真)は江戸・天明年間の大飢饉と疫病に見舞われたこの地で、人々の願いを込めて下野の国から岩船地蔵菩薩の分身を譲り受けて村の守護神としたという由来で、その記録も記されています。疫病のいつの時代でも大変な災厄であったわけです。またここは子の権現を経て秩父方面に向かう街道と横手を経て大山(丹沢)方面に向かう街道の分岐点にもなっています。ここからユガテを通って東吾野駅に行くルートをよく通りますが、この日は、いくつかの滝があるという渓流沿いの気持ちの良い林道を武蔵横手駅までくだりました。途中の名所「五条の滝」は有料施設になっていて、しかもまだ休業中でした。
〚月世界〛への旅 ― 2020年06月15日 14:40
メルヴィルが〚白鯨〛を書き、ウォーレスがマレー諸島で新種の生物の採集に熱中していたのとほぼ同じ時代に、イギリスにジュール・ヴェルヌという作家が登場し、文学史上初めて科学と文学を融合させた新しい読物―現在のいわゆる「SF小説」を発表し始めていました。ヴェルヌは1863年発表の〚気球に乗って5週間〛や1864年発表の〚地底旅行〛でかなりの成功を収めていました。〚地底旅行〛は火山の噴火口から下った地底世界に古代の生物が生きているというまさに“空想小説”ですが、随所に科学的な思考に基づくリアリティを与え、現在に至るまで多くの世代から好評を得ています。そのヴェルヌが1865年に書いたのが〚月世界旅行〛という小説です。ただ、実際の原作からの忠実な翻訳をみると(ちくま文庫版の〚月世界旅行〛)単なる娯楽小説ではないことがわかります。
1865年というのがどんな時代だったかというと、上にも書いたように、ヨーロッパでも新世界であるアメリカでも、産業革命に続く科学技術の大発展時代であるとともに世界史的には西洋列強がアジアやアフリカに植民地を建設していたいわゆる帝国主義の世紀でした。いわば世界全体が「青年時代」で、多くの国で冒険的な若者の活躍が始まっていたようなイメージがあります。そして日本では幕末動乱から明治維新、アメリカでは南北戦争の時代でもあります。じつは、この南北戦争終結がヴェルヌの〚月世界旅行〛の背景になっているのです。
〚月世界旅行〛のおおまかなストーリーは、おそらく小説を読んでいない方でもご存じのように、巨大な大砲を造って月に砲弾を打ち込もうという話です。この砲弾に人間が乗り込み発射され、月に到達するまでで話は終わっています。続編では月から帰還するようなのですが内容はよくわかりません(日本語訳があるのか?)。月に向かってに巨大砲を撃つという発想そのものが話のキモなので、続編にはこれがありません。たいていこういう小説の続編はあまり面白くないものです。
人間が肉眼で観察することのできる天体の中で、月は唯一、別世界を感じさせる魅力的かつ身近な存在ですから日本でも世界各地でも数々のおとぎ話がつくられています。多くは魔力や超自然的な能力の持ち主の話で、実際に人間の力でこの月世界に行ってみようというような夢を持つことはありませんでした。しかし18世紀以後、飛行機はまだでしたが気球という装置で空を飛ぶことが科学の力で可能になり、同時に引力など地球・宇宙科学が生まれ、望遠鏡を使った天体観測の進歩とあいまって、もしかすると科学というのはこの夢物語を実現するかもしれないという雰囲気も生まれてきていました。そういう時代だったのです。
ただし、ヴェルヌの小説は、単なる科学技術の称賛で始まっていません。当時終わりに近づいていたアメリカ合衆国の南北戦争は近代戦争の開始を告げる「銃と大砲」による大殺戮の闘いでもありました。巨大なアームストロング砲やコロンビアード砲、ガトリングガンという機関銃の登場など後につながる新兵器が続々登場し、火薬や銃器の進歩も進みました。この兵器拡大競争が〚月世界旅行〛をもたらしたというのがヴェルヌの批判精神の最大の見せ場になります。この戦争で大砲の開発が進み、さらにもっともっと巨大な大砲が開発されなければならないのに、戦争は終わってしまった。出番がない! そこで「大砲クラブ」(という架空の兵器産業業者)の面々は考えた。どうすれば戦争の終わった世界で大砲の意義を見出せるか。この「大砲クラブ」の役員がほぼ全員、手や足を失って鉄製の義手や義足をつけていながらもなお銃器や火薬に対する偏愛的な感情を隠そうとしていない非現実的な人々であること――話は冒頭から一種パロディであり、皮肉であり、文明批評であることを宣言しています。これは最後まで変わらず、〚月世界旅行〛は完全に大人向けの話になっているのです。
「大砲クラブ」会長のバービケインは無数の観衆を前にして『巨大な大砲を建設して月に砲弾を命中させる』と演説します。これに応えて合衆国のみならず全世界から熱狂的な支持と称賛の嵐が起こり大量の資金が集まります。こうした何とも都合よすぎる展開はいわゆるヴェルヌが通俗小説とよばれる所以ですが、ここでは、それはおくとして、このように巨砲製造事業が順調に進んでいくなかで突如ひとりのフランスが現れ『この砲弾の中に入って月に行かせろ』と提案をしてきます。
最終的にはひとりでも大変だろうに、砲弾は3人の男と2匹の猟犬を乗せるように改修され、計画発表から1年数か月後の12月1日、フロリダの発射場の地下に設置された6万8000トンの鉄で鋳造された900フィ―ト(280メートル)の巨大砲から長さ12フィ―ト(4m)の砲弾が打ち出されます。発生した爆風は近くの小屋や機関車をなぎ倒したということになっています。このへんはすべてカリカチュアの面白さです。さすがに無線通信は思いつかなかったようで、砲弾の行方は地上から望遠鏡で観察され、先に書いたように月の衛星になったところで小説は終わっています。
もとよりリアリティを云々する小説ではありませんが、例えば月までの到達時間が1970年のアポロ計画の実際の月面到達までとほぼ同じであるなど、この中でヴェルヌが示したいくつかの数値についてはその予言性に驚く人も多いようです。一方で弾丸発射の加速度を水に浮かべた木の板で吸収するなどの現在では考えられない初歩的な記述もありますが、こうした科学に対する純粋な信頼や肯定感は、ウォーレスやメルヴィルなどに共通するこの時代の精神をあらわしているように思います。
いつの時代でもその時代の中での制約があります。現代でも、地球環境問題などは多分未来の(人類だけなく)の社会全体に大きな影響を与えると思いますが、人々の関心は数年単位の「コロナ感染症」での(個人の)生き死にほうがはるかに高いわけです。AIとよばれる人工知能についてもなんとも過剰な(ほとんど荒唐無稽な)期待やあるいは逆に恐怖心を持つ人がいます。150年後の世界の人が判断するのでしょうか。
巡礼の旅・歌枕の旅 ― 2020年06月23日 12:41
またテレビの話ですが、NHK(BS)テレビで<聖なる巡礼路を行く~カミーノ・デ・サンティアゴ>という番組を3回にわたって放送していました。わたしはほんの一部しか見ていないのですが、ヨーロッパにもこんな巡礼路があってたくさんのひとが歩いているのかと認識を新たにした人も多かったのではないでしょうか。「サンティアゴ巡礼道」とは、キリスト教の聖人の墓所跡に建つスペインのサンティアゴ聖堂までの街道のことで、参加者(巡礼者)はフランス南部からスペインとの国境のピレネー山脈を越えて700キロ以上に渡って続くこの道をひたすら歩き続けます。この巡礼の習慣は長く途絶えていて21世紀に入って復活したとのことですから、西洋の精神世界の変化も感じます。(上の写真はNHKホームページから)
巡礼と聞いて日本人ならすぐ思いつくのが四国八十八ヶ所の巡礼旅でしょう。他には東国・西国三十三ヶ所観音霊場参り、関東地方なら秩父三十四ヶ所札巡りも有名です。スペインのサンティアゴでも日本の札所の寺院でも、そこにあるのは宗教施設です。したがって巡礼の本当の意味は、そこに祀られている聖人や本尊への信仰心を示して自らのあるいは亡くなった親しい人達の来世での幸せを祈ることです。何か個人的な願いが叶うようにという祈りやそれが成就したことの御礼もありそうですが、最近はもっと広い社会参加活動みたいな意味も強くなってきて、健康のためとか自分の生活習慣を変えたい、さらに決まった動機はなくても何か新しい体験をしてみたいというひとも多いようです。私も最後のくちで、黙々と歩き続けるという体験に憧れるところがあり、機会があればやってみたいと考えています。少なくとも10日間以上、連絡をしなくていいように仕事や活動をきちんと整理すればいいのでなんとかできそうな環境は整ってきています(年齢のおかげです!)。
ただただ続けるということでは、このほかに、歴史的な景観や史跡を巡っていく「街道歩き」もあります。これはほんの部分的ですがやったことがあります。しかし、これも東海道や中山道などを昔の旅人のように泊まりながら歩くとなると長期間の自由な時間がないとできません。
さらに日本には「歌枕を訪ねて歩く」という風雅な旅もあります。一番有名なのは俳人・松尾芭蕉の紀行文〚奥の細道〛を“ガイドブック”として、その足跡を廻るという旅でしょう。〚奥の細道〛は400年近く前の17世紀初め元禄年間の記録なのですが、実は、芭蕉自身はこの中で300年前の西行の歩いた道を歩き、その歌枕を訪ねているのですから、洒落ではありませんが、実に奥が深いのです。
〚奥の細道〛の中で芭蕉はいくつかの山に登っていますが、山形で羽黒山、月山、湯殿山のいわゆる出羽三山をめぐっているのが一番大変だったようです。その少し前には、寺とはいえひとつの山である立石寺(山寺)にも参詣しています。出羽三山のあとは酒田を経て象潟を訪ねています。その間に
閑けさや岩にしみいる蝉の声
五月雨を集めてはやし最上川
雲の峰いくつ崩れて月の山
象潟や雨に西施がねぶの花
などの現在も名高い名句が生まれています。今年の夏、この出羽三山と立石寺を歩いてみたいと思っていますが、このコロナ騒ぎの中で実現するでしょうか。
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