『種の起源』の旅(4)2020年05月05日 16:16


前回の記事でオランウータンの挿絵を紹介した時に、最初はこの挿絵もウォーレスが描いたものだと誤解していました。大変迫力のある絵ですが、『マレー諸島』にはこれに限らず昆虫や植物さらに島々での現地の人々の生活や文化を示す多くのすばらしい挿絵が掲載されています。原作と同じものと思いますが、上巻の最初にこの挿絵に関する説明が掲載されていました。それによると、この挿絵は当時のイギリスでも最高の技術を持った5人の画家あるいは画工によって描かれています。昆虫などは標本を観察しながら作成したものと思われますが、風景や人物図あるいはエピソード風の挿絵はウォーレス自身の描いたスケッチや説明をもとに想像で描いたものでしょう。これらの制作者たちは当時の専門雑誌の科学的な図版も手掛ける人たちですからその出来栄えは今でも感嘆するほどです。上巻、149ページの「イチヂク科の奇妙な木」という、まるで空中に浮かぶように何本もの根を幹の中ほどから地面に伸ばしている植物(木性シダ)などは特に印象的です。他の絵も非常に精緻で正確です(最初誤解してたように、この才能まであったらウォーレスは超人です)。

なお一部に写真も参考にしたというウォーレスの回想がありますが、写真乾板式の携帯できる写真機は1871年に発明されたとありますので、当時のマレー諸島に持っていくことはできなかったでしょう。大型の写真機はどこかにあったとは思いますから肖像写真や風景写真などは撮影できたかもしれません。ただ、カラー写真など夢の時代で、当時は図版といえば上の様な絵師や画工が石板に描いたり木版に彫刻したりしたものを印刷したはずです。日本でも本格的な写真印刷が可能になるまでは錦絵という江戸時代以来の浮世絵などの伝統技術を使った色彩印刷が広く普及していました。

●バリ島とロンボク島

さて次にはウォーレスの名を今に残すことになる発見をするバリ島とロンボク島です。面白いことに最初この両島を順に訪れる予定はなかったそうで、船便の航路の関係で立ち寄ることになったとのこと。ふたつの島ともそう大きくはありませんが、バリ島は現在も主要な観光地として有名です。高度な灌漑設備を使用した耕作地(棚田)が多く、ウォーレスも繰り返し感心するほどに進んだその技術は「ジャワ島に比べても遜色のない」と書いています。次いで向かったロンボク島では、土の中に卵を隠して孵化させる変わった習性のツカツクリというキジ科の鳥やアオバトなどを採集していますが、あとはロンボク島でのひとびとの暮らしやラジャという支配者の住民統治の有様などに関心を寄せています。バリとロンボックの間に有名な「ウォーレス線」については「チモール群島の博物学」という別の章で整理をしています。チモール群島にはロンボック、フローレル、チモールが含まれています。その中で「幅30キロもない海峡でバリから隔てられたロンボックに渡るとき、私は当然ながらこれらの(ジャワの鳥類の特徴を持つ)鳥のいくつかにまた出会うものと期待していた。しかしその島に滞在した3か月のあいだ、これらの鳥の一羽にも出会うことなく(略)まったく別の一群の種を見出したのだった」(上、319P)

そしてこれら3島で採集した鳥類などの動植物の種類がこの諸島を境に、ここから西の東南アジア地域とそれより東のオーストラリア地域という明確な分布の違いとなっていることを示しています。「信頼してよいし、より格別の興味をひくことは、西から東に向かうにつれてオーストラリア種の比率が急増し、インド種の比率が低下するということである」。またこれらの分布変化をもたらしたものが偶然の移住なのか陸地の接続なのかについても考察をしていますが、このあたりは(新妻氏の説明によると)ダーウィンと意見がわかれるところなのだそうです。

次のセレベスも大きな島です。ここでは知り合いの農園主を訪ね、近くの丘陵で数々のチョウ類や鳥を採集していますが、サトウヤシという大きな木の茂るこの地ではかなり快適に暮らせたようで「この地に滞在中ほど楽しい思いをしたことは他の場所ではほとんどなかった」と書いています。マロス川というここを流れる川の最上流を採集旅行にいき、そこの渓谷で経験した、数百頭の美麗なチョウが湿った岩の上で舞っている光景などについて「チョウの谷」という1章ももうけているほどです。

このセレベスでもオランダの植民地統治についての感想を書いています。当時のヨーロッパではマレー諸島全体が野蛮な首狩り族のいる地域だと思われていたようです。ウォーレスも立ち寄った部族の家で乾燥させて小さくなった人間の頭が飾られている様子を(かなり淡々と)記述していますから、それほど珍しいことでもなかったようです。そこでどうしてもこうした「未開人」に対してキリスト教を信仰する「文明人」が正しい生き方を教えるという立場になってしまいます。現在まで尾を引く文明の対立というか植民地論争という大問題ですが、それによって原住民が貧困と病苦から救われたという見方もあれば搾取されただけだという意見もあり、単純に善悪をつけていいことだとは思えません。なお、東チィモールでの民族対立など現在まで根を残す問題もすでにこのころから発生していることもわかります。

●コウモリ料理とニシキヘビ

セレベスではコーヒー農園経営などに携わる白人たちの歓迎を受け、奥地への採集旅行の際にも土地の部族長の素晴らしいもてなしをうけ「本当にセレベス先住民首長の午餐に招かれているだろうか」という感想を持っています。ちなみにその料理のなかに「コウモリのフリカッセ」というのが出てきます。フリカッセとはソースで煮込んだ料理のことらしいのですが、どうもコウモリを調理して食べていたようです。熱帯地方のコウモリは主に果物を食べていますから、われわれが感じる不潔さはないのだと思いますが、新型コロナ感染症の発生源とも疑われたようにコウモリを食べる文化は実際にあるようです。

しかし熱帯の密林を歩き回る採集旅行がこんなに快適な旅の連続であるわけがありません。ほとんどが想像を絶するような経験と困難の連続だったのでしょう。この後のアンボイナ島ではニシキヘビ事件が起こっています。ウォーレスが寝泊まりしていた小屋の屋根裏にいつの間にか大きなニシキヘビが侵入し、数人がかりで引きずり出すことになったのです(上の挿絵 上、457P)。それより過酷だと思うのはツツガムシなどの寄生虫に感染し、数か月の間、寝られないくらいの苦痛を経験していること。本当に生きて帰ったのが不思議なほどの厳しい旅を続けていたのです。それに耐えられたのは時に遭遇する素晴らしい経験とそれにも増して未知の種を発見できるという博物学者としての喜びだったのだと思います。

『種の起源』の旅(5)2020年05月13日 13:05


●ゴクラクチョウの島

ウォーレスのマレー諸島に来た目的のひとつはゴクラクチョウでした。モルッカ諸島を訪れる前のアル―諸島やこのあとに行くことになるニューギニア島やその付近の島々でもゴクラクチョウを探しています。ゴクラクチョウはフウチョウ(風鳥)が正式日本語名らしいですが、極楽鳥(BIRD OF PARADICE)という名称のほうがよく知られています。当時のヨーロッパではきわめて形態の美しい鳥として有名でしたが、数多くの品種があることや生態についてはほとんど分かっていませんでした。最初に紹介されたこの鳥というか剥製には脚がなかった(切られていた)ため、一生の間飛び続けるとか、風を食べて生きているとかの信じがたい伝説がうまれたほどです。その個体は生きて持ち帰れば当然のことながら、剥製でも相当高価な値段のつく獲物だったようです。
(上の写真は「オオフウチョウ(Paradisaea apoda)の ♂=出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)

採集した生物を研究者あるいは愛好者に売ることで生計をたてているウォーレスにとっては欠かすことのできない採集の対象でしたでしょうし、その棲息環境の調査と報告も非常に大事な目的でした。それは、この『マレー諸島』の副題が「オランウータンと極楽鳥の土地」とされていることからもわかります。この鳥はウォーレス線の東、オーストラリア区の固有種ですから、『マレー諸島』後半のメインテーマになってきます。同じ土地でも異なる時期に訪問して採集していますから、記述もやや複雑になっています。このゴクラクチョウについて本書の中に独立した1章を設けています。

●モルッカ諸島の第2ウォーレス線

セレベスの次はその東に点在するモルッカ諸島訪問となります。モルッカ諸島はセラム海とバンダ海に分布する群島で、歴史的に香料諸島として有名ですが、これはその島々で栽培される胡椒などの香料(スパイス)が非常に高価で、それを求めて多くの貿易船が訪れたためです、そのため平地では香料や米、サゴヤシなどの農耕地が広く栽培され、ウォーレスの目的にはあまり適していなかったようです。(バチャン島では新種のゴクラクチョウを発見していますが、これは2回目の訪問でのことのようで、最初の発見が本書では少し後で出てきますが、アルー島でのことのようです)新種のトリバネアゲアなども採集しています。ここでは現地の支配層に歓待を受け、ここでもコウモリを食べたようでかなり細かく内容を書いています。また、乗船した船のベッドの中に緑色の毒蛇が侵入しあやうく難を逃れています。東南アジアにはいたるところにヘビがいるようです。採集の目的とは別に、ここではマレー人とパプア人という人種の住む場所の境界がこの地(モルッカ諸島)であることを観察し、別の章「40章マレー諸島の諸人種」で詳細に記述しています。これが第2ウォーレス線とも呼ばれる人種の地理的区分の発見です。

次いでセラム島へ移動しますが、ここでの船旅でが、持っていた荷物などを雇った現地人に持ち逃げ去れ1か月ほどの停滞を余儀なくされています。言葉も通じませんし、西洋式の仕事の流れや契約という観念のない人たちの中をひとりで旅行することの困難さはこういう点にもあったようです。この時間を利用して、この地で食材から建築資材まで幅広く利用されているサゴヤシについての観察記録をこの旅行記に書いていますから、ただでは転んでいません。

●8日間の漂流

不幸は続くもので、次の船旅では今度はさらにややこしい事態に陥っています。ニューギニア西の海を現地で造ったプラウという小さな船で渡る途中、8日間以上にわたる漂流をしてしまいます。プラウはヤシの木だけを材料にしていますが外洋航海も可能な性能をもっているようで、ウォーレスはこのプラウの構造や操縦方法についてかなり関心を持って調べています。感心するほど巧みに造られているようですが、しかし帆をつけた船であるとはいえ、手で漕ぐことが主体になっていますし、近代的な航海技術もほとんどない現地人による案内ですから、この海域の強い海流にながされ、なかなか目指す次の島にたどり着けません。水を求めていくつかの島を転々としながらようやく目的地にたどり着くわけですが、8日間にわたる漂流に近い航海を余儀なくされます。この間の経験は「セラムからワイギオウまでの航海」ということで第35章に記録しています。

このあたりの経験談は『マレー諸島』の中では珍しい「冒険小説」みたいになっていますが、漂流中でも立ち寄った島で鳥の採集をしていますからどんな経験も無駄にはなっていないことになります。『種の起源を求めて』の中で新妻氏も述べているように、ウォーレスもマレー諸島に来てから10年、生活に慣れてきたとはいえ、熱帯の過酷な自然の中での活動を6年以上を重ねて心身ともに疲れていたことも確かなようです。

●困難のすえ、おおきな喜びを感じる

こうして着いたモルッカ諸島・マカッサルは雨期になっていたので次にはニューギニア西南部に位置するアル―諸島に向かうことになります。ケイ諸島を通ってドボに到着。ここではかなり長く過ごしたようで鳥やチョウの採集も行っていますが、折から発生した海賊襲撃事件のことなどもレポートしています。ドボからアル―本島へ。ここでいよいよ目的のゴクラクチョウに遭遇します。これは1857年のことで、上で述べたモルッカ諸島でのゴクラクチョウ採集より前のことです。現地人が吹き矢で仕留めて入手したはその鳥(ヒヨクドリ)は「最高級の宝石に例えても、その美しさの半分しか表現できない」ほどのものです。マレー島では、奥地への採集旅行を行い、大型な種類のゴクラクチョウやヤシオウムという固い木の実を食べる特別の嘴を持った鳥などの珍しい動植物に触れ、ここではこの地に初めて踏み込んだ白人としての喜びを感じていたようです。アレ―諸島には2回訪れ、1600種、9000点に及ぶ同宿物の標本を作製し、持ち帰ることができたそうです。

『種の起源』の旅(6)2020年05月18日 14:05


実り多かったジロロ島での採集旅行から戻ったウォーレスは1858年3月、念願だったニューギニア島に向かいます。ニューギニア島はマレー諸島の中でもカリマンタンと並ぶ大きな島ですが当時のヨーロッパ人にとってはほとんど知られていない場所でした。まだその奥地に踏み込んだ白人はほとんどなく、信じられないような神秘と奇蹟の島だとも考えられていたようです。それだけにウォーレスもこの島に大きな期待を寄せていました。しかし、現実は厳しい。これは記録の中に詳しく書かれています。まずニューギニアへの航海、ここから困難が待っていました。今回は小型帆船(スクーナー)に乗り込んでいますが、この付近の海流と強い風に邪魔され、2週間以上かかってようやく上陸しました。

●念願のニューギニアの現実

当時のニューギニアには海岸沿いの平地だけに少数のキリスト教宣教師が住んでいたようです。過酷な風土の中で苦労を重ねていたでしょう。その助けも借りて仕事と生活のための小屋をつくり、く採集活動に入ります。しかし付近に道路らしい道もなく、折からの雨期で一面は泥水に覆われていました。移動するだけで大変ということになったわけです。そうした中で、特に期待していたゴクラクチョウにはなかなか遭遇できません。悪いことに倒木の中で足を負傷し、その傷跡が化膿して数週間歩くこともできない、それが治る間もなく熱病で食事もできない状態になります。横になって、雇用した現地人が採集してくる鳥や昆虫を待つだけの日々が続きます。食料も不足していたようで、採集した鳥を食べたりしています。最後にはほとんど全員が負傷や病気になり助手の一人は死んでしまいます。さすがのウォーレスもとうとう「(ニューギニアは)私の期待をなにひとつとしてかなえてくれなかった」と弱気になり、それでも、昆虫やいくらかの鳥の採集には成功しますが、上陸から4か月後の7月にはとうとう撤退を決意します。

記述によれば、こうした惨憺たるニューギニア生活の中で特に苦労したのはアリとハエという小昆虫だそうです。これにおそらく蚊も加わるのでしょうが、大事な採集標本を傷つけ台無しにしてしまう小さな虫には、当時の現地の生活状態では抵抗するすべがなかったのでしょう。そうした厳しい自然のなかだからこそ豊富な生物に恵まれていたといえるわけですが、これは殺虫剤や衛生機器に囲まれている現代人には想像することもできないことだと思います。このニューギニア島では太平洋戦争中に旧日本軍の進攻があり戦闘も行われ、多くの敗残日本兵がジャングルを彷徨い、ほとんどが病死や餓死するという悲しい歴史が残っています。ウォーレスのいた時代はそれよりさらに100年近く遡り、日本の歴史でいえば江戸幕府末期の佐幕派・攘夷派の争いが続いていた時代なのです。

●ゴクラクチョウの餌はゴキブリ

さて、『マレー諸島』の最後は地誌的な記述ではなく「ゴクラクチョウ」に関する生物観察記録と「マレー諸島の諸人種」という人類学的記録で結ばれています。このうち、ゴクラクチョウについては当初からの大きな目的のひとつですし、当時のヨーロッパの人たちの関心も高かったでしょうから、その実際の生態や観察記録などをまとめて掲載することにしたのでしょう。この鳥が西洋世界に持ち込まれた最初の経緯から、自身の実際の活動で得た数多くの品種やその珍しい習性、生息地情報などが詳しく書かれています。本書に掲載された豊富な図版とともに読者の関心を誘ったことは間違いないでしょう。

面白いのは、ウォーレスがイギリスに帰国するにあたり、自ら10羽ほどの生きたゴクラクチョウを持ち帰っていることです。最初からその希望はあったようです。この鳥はその華麗で繊細そうな風貌とは違って、かなり環境変化に強いようで、当時のことですから長期間の帆船や馬車による移動が行われたわけですが弱った様子がありません。生物に詳しいウォーレスですから管理もよかったのだと思いますが、エサについてもバナナなどの果物はもちろん、昆虫食も見逃さず、最初の航海では船内にいた無数のゴキブリを捕まえて食べさせています。次の後悔は船が新しかったためこれが捕まえられず、上陸地のパン屋で見つけた大量のゴキブリを持ち込んでいます。こうして英国に連れ帰ったゴクラクチョウは100ポンドから数十ポンドという高値で売られ、数年の間生きていたそうです。新妻氏によると当時の1ポンドは現在の貨幣価値に換算して約2万円だそうですから(『種の起源を求めて』による)これだけでもかなりの金額になったようです。現地での労苦を思えば当然でしょう。

●10年間に及ぶ活動の記録に圧倒的される

最後の「マレー諸島の諸人種」に関するレポートは、採集という目的で訪れたさまざまな島々に対する、ウォーレスの、その土地の生態系だけでなく、そこで生活している人たちとその文化についての深く温かい人間的な関心が感じられます。付録として付いている「マレー諸島の33の言語と117の単語」は彼が訪れたたくさんの村落での現地の人たちとの会話を想像させますが、本書全体に見られる生活観察記録と合わせてみると立派な民族学者の仕事です。ウォーレスというのは本当に何でもできた人間なのです。こうした点まで併せて考えてみると、この〚マレー諸島〛に凝縮された、ウォーレスの10年間に及ぶ活動の記録―その膨大なボリュームとレベルの高さに圧倒的されます。

原作とは別に、新妻昭夫訳の『マレー諸島』(ちくま学芸文庫版)には、これは新妻氏本人もこだわりすぎたと述べるほどの詳細な「注釈」と「解題」がついています。注釈では原作ではまったく言及されていない日本の歴史との関係なども調べられています。「解題」は、ウォーレスの評伝になっていて、その波乱の生涯と進化論誕生での役割が書かれています。この時点で『種の起源をもとめて』の構想ができあがったのだと思います。とにかく両作品(『マレー諸島』と『種の起源を求めて』)ともに傑出した作品であることは確かです。

『白鯨』の旅(1)2020年05月24日 15:58


前回まで合計6回投稿していた『マレー諸島』の著者・ウォーレスが最初の採集旅行に出かけた南アメリカ・アマゾンのジャングルで悪戦苦闘している頃、北アメリカでハーマン・メルヴィルという32歳の青年が捕鯨船を舞台にした壮大な海洋小説を書き上げ、出版しています。日本では「白鯨」という作品名で有名ですが、原作は「モウビィ・ディックまたはクジラ」(Moby-Dick; or, The Whale)といいます。1851年のことで、この年はロンドンのハイド・パークで第1回万国博覧会が開幕されています。例によって日本の歴史にあてはめると、ペリーの黒船来航やロシアのプチャーチンの長崎来航の2年前で、にわかに鎖国日本が世界史の中に登場してくるころです。よく知られているように、ペリーが日本に開港を迫った理由のひとつは当時世界の海で操業していた捕鯨船への水・食料の補給のためですから、強引にいえば、ここでも大きな意味で歴史と文化はつながっています。

『白鯨』は確かに海洋小説です。1840年代頃、一隻の捕鯨船に乗り込んだ青年の眼を通して描かれた船内の人間模様や航海の有様そして何より船長・エイハブの異常なまでの一頭の白いクジラに対する執念によって起こる壮絶な死闘とそれによる捕鯨船の沈没―このドラマチックなストーリー展開は人々の関心を呼ぶものだったかもしれません。しかし、この小説が現在まで古典の地位を占めているのはそのためだけではありません。この作品がこうした小説的な側面を超えた破天荒な文学的、思想的な広がりをもっているためなのです。ただかえってそのために何だか小難しい印象があり、出版当時、この『白鯨』はあまり評価されず、売れ行きは芳しくなかったそうです。

さて、どこが破天荒かといえば、まずはそのスタイルです。小説でありながら、途中で演劇(脚本)に変わり、百科全書的なクジラに関する解説(鯨学)になり、また小説に戻る。私の読んでいる岩波文庫版の『白鯨』の訳者・八木敏雄氏は、これをモザイクと表現しています。その例え通り、この3つの区分を基本に演劇と鯨学を2つに細分し、さらに「出合い」という異なった性格の章を加え、これにそれぞれの模様を与えて一覧図に展開しています(下巻、449P)。本当にモザイクですが、八木氏はこれを色鉛筆でカラー化してみなさいと真面目に提案しています。

発表当時32歳のメルヴィルがどんな思いでこんな凝った構造を持った風変わりな小説(多分、当時だってかなり変わっていたでしょう)を書いたのか分かりませんが、実際に読んでみればわかるように、鯨学といったって科学論文ではありません。図書館で調べた知識や旧約聖書の言葉に加えて、自分の体験(彼は実際に捕鯨船に数年間乗っています)から湧き出したさまざまなエピソードを交えた思想のごった煮とでもいうべきものになっています。ただしその根底には諧謔やユーモアが流れ、作者が楽しんで書いていることがわかるようになっています。八木氏の翻訳がそうなっているので、多分原作もそんなニュアンスになっているのだと思います。こういう雰囲気は小説部分も含めてこの小説全体に感じられるもので、海洋小説ではありますが、張り詰めた緊張感つまりサスペンスというのはあまり期待できません。

とはいえ、小説部分(メインのストーリー)だけをとってもいくつか紹介したい面白さのある小説です。なお、メルヴィルはウォーレスより4年先に生まれていますが、当時の20代から30代の青年たちの活動の幅広さには今でも圧倒されます。そういえば、同じ時代の日本の幕末期の志士たちも若く行動的でした。

上の絵(岩波文庫版の上、中、下の表紙絵)は、ロックウェル・ケントという画家のもの。木版画だそうですが、原作ではなく1930年代以降の作品と思われます。雰囲気があり、人気があります。

『白鯨』の旅(2)2020年05月31日 16:22


●捕鯨について

ストーリーを追う前に捕鯨の基礎知識をいくつか。まず、捕鯨の目的ですが、すぐに思いつくのは、第2次大戦後のわれわれ世代が学校給食などでお世話になったクジラ肉を求めての捕鯨です。これは現在でも行われていますが、実は19世紀当時に欧米で盛んだった商業捕鯨の目的はクジラの「肉」ではなく、その体内に含まれる大量の「脂肪分=油」でした。産業革命の時代、街には街灯がまたたき、鉄の歯車を組み合わせた蒸気機関が陸上や水上で活躍を始めていました。そこで必要になったのが、明かりを灯すための油や歯車の回転を助ける機械油でした。ここで登場するのが当時もっとも上質だったクジラの油というわけです。『白鯨』の時代、この驚くべき天然資源を求めて数千隻もの捕鯨船が世界の海で活躍していたと思われます。そのため、数十年の後にはクジラの頭数の減少が深刻になり、同時に、地中から湧き出る石油の掘削と精製技術が進んできたため「鯨油」の需要は消滅します。ゴールドラッシュみたいな一時期の盛況というわけです。

クジラを捕獲する方法も、現在は捕鯨砲というモリのついた弾丸をクジラに向かって発射しますが、19世紀には、小さなボートに乗って人間が手に持ったモリを投げつけるという石器時代と変わりないような方法で狩りをしていました。仕留めたクジラはその肉を切り刻み、船の上の大きな釜で煮て油を分離し、木の樽につめて持ち帰ります。『白鯨』にはその一部始終が事細かに描かれています。また、その過程で、作者によるクジラ(特にマッコウクジラ)についてのマニアックな解説や鯨肉の賞味談など興味深いエピソードがいたるところに散りばめられてて、これがこの小説の面白さの大きな要素になっていると思います。

当時の捕鯨船がどういうルート(航路)を辿ってクジラを追っていたのか。『白鯨』では赤道付近の太平洋(南太平洋)で漁を行うのが一般的であると書かれています。クジラの種類にもよるのでしょうが、マッコウクジラやセミクジラなどはもっぱら北極や南極付近のエサの豊富な海域で体力を蓄え、時期になると暖かい海域に移動して繁殖と子育てを行うようです。その時、クジラは蓄えている脂肪が最も多く、一方、人間にとっては活動がしやすいという絶好の海域ということになるようです。もちろんその他の場所でも常に海上を見張って獲物が見つかれば出動しています。『白鯨』の舞台となるピークゥエド号は北米・ナンタケットを出港後、大西洋を南下し、ラプラタ川河口付近で東に転じ、アフリカ大陸南端の喜望峰を回ってインド洋を横切り、マレー半島の東、現実世界ではあのウォーレスが活躍していたであろうマレー諸島に到着、スマトラ島とジャワ島の間の狭いスンダ海峡を通過します。インド洋から南シナ海に出るにはマラッカ海峡かスンダ海峡を越えるしかないのはクジラも同じようで、この付近は絶好のマッコウクジラ狩りの場として有名だったようです。ピークオッド号もここで狩りをしています。そして広大な南太平洋に進入し、最後は日本列島のはるか沖合でモウビィ・ディックと遭遇します。この時点ですでに地球を半周以上していたことになります。

●3日間の死闘

いうまでもなく『白鯨』のクライマックスは物語の最後のモウビィ・ディックとエイハブ船長の3日間の死闘―そしてピークオッド号の沈没になります。これはこの物語が書かれた時から、というよりメルヴィルがこの小説のモデルといういわれる伝説のクジラの存在を知った瞬間から決まっていたともいえます。そこで、そこに至るまでのストーリーというのはすべてクライマックスを際立たせるための周到な伏線―現代語でいうと「前ふり」になるのでしょうか。そう読めなくもありませんが、何度も言いますが、この作品の古典たるゆえんはこの一見もったいぶった寄り道しながらの物語展開と知的好奇心にあふれたクジラに関するおしゃべりにあるのです。そこを楽しまないといけません。『白鯨』は映画化されていますが、作品を流れる人生の永遠を感じさせるこの雰囲気は表現しようがありませんね。

お分かりのようにストーリー的にはかなり単純です。まずは主人公イシュメルの登場と「心の友」である蛮人・クィークエグとの(ホモセックシュアルな味わいのある)出会いなど海に出るまでのエピソード―これも結構興味深いですが、いつの間にかその主人公やクィークエグなどを置き去りにして、なんとも偏執狂としか思えない船長・エイハブやその下で運命を狂わされる一等航海士スターバックや二等航海士のスタッブなどの「役者」が登場してくるのは、ピークオッド号が海に出て30人の乗組員の生活が始まってからです。役者といったのは決して比喩ではありませんん。この『白鯨』という小説は、クライマックスの悲劇に向けて渦を巻いて回転するように仕組まれた演劇の様相を呈してくるのです。前回の中で、訳者・小林敏雄氏がこの『白鯨』の輻輳したスタイルのひとつに演劇をあげていますが、本当に、ひとつの章が丸ごと戯曲になるのです。独白であったり、緊張した対立劇であったりしますが、小説の文体でもなく、そこに主人公であるイシュメルの登場する余地などありません。その間に、海の神秘やそこに棲む「怪物」達の生態、クジラにまつわる百科全書的な数々の蘊蓄が語られながら、船はゆっくりと大海原を帆走し続け、南太平洋を北上して日本沖に到着します。

エイハブ船長は、ここで白いクジラ、モウビィ・ディックを発見します。大嵐に会い、羅針盤をなくしたピークオッド号は遭遇した捕鯨船から「白鯨を見た」という知らせを受けるのです。すると、次の第129章「船長室(キャビン)」から、悲劇のテンポは急激に速くなります。そして第133章「追跡―第一日」の「潮吹きだ!―潮吹きだ! 雪山のようなこぶが見えるぞ!」という自ら見張りにたったエイハブ船長の叫びから始まる第134章「追跡―第二日」、第135章「追跡―第三日」、すべてが終わった後、種を明かすようにイシュメルが登場する「エピローグ」に至るモウビィ・ディックとピークオッド号の闘いは圧巻です。まるでシェイスクピアの悲劇を思わせるような、名作と呼ぶにふさわしい一節だと、私は思います。

上の絵は前回の表紙と同じロックウェル・ケントの版画の挿絵です。