伊勢参道の観光文化財 ― 2025年05月26日 17:13
10数年前、奈良県の古代文化の里である明日香の地の遺跡巡りをしたときに「三輪そうめん」の老舗のご主人から「ここ(三輪)から真っすぐ東を眺めると伊勢になります」といわれたことがあり、なんとなく別々に考えていた伊勢と大和の地理が一致するような発想の転換がありました。その後、三輪から長谷寺までのいわゆる「大和・山野辺の道」を歩いた時、長谷寺への新道から外れた細い道が古くからの「伊勢街道」だとわかり、その通りの落ち着いた趣に感動したこともありました。今回、松坂では伊勢街道から分岐する初瀬街道という古道も目にしました。関東の人間にはよくわかりませんが、大和と伊勢は地理的にも文化的に意外に近い関係にあるのですね。
つまり、難しいことはなく、古代大和のひとびとが太陽の上る東に向かっていくと到達するのが伊勢の海で、そこには美しい海岸があり、その先の広大な太平洋から朝日が昇ることに感動して、太陽のための祠を建てたとしても不思議はないでしょう。
「おはらい町」と「おかげ横丁」の魅力
さて、今回の旅行では、伊勢神宮ではなく、参拝を終えてからそぞろ歩く鳥居前のいわゆる「おはらい町」の様子に感激をしました。宇治橋から続く約800mの参道で、主催者のホームページによれば「昔ながらの風情を残す土産物屋や飲食店が軒を連ね、江戸時代の人々が憧れた<おかげ参り>の雰囲気を楽しむことができます」という感じです。
これは本当で、写真を見てもらえばお分かりのように、伝統的なつくりの商家や旅館風の家が軒を接していて、現在そのほとんどが飲食店や伊勢土産の販売を行う店ですが、看板も屋根もいかにも江戸時代の伊勢参りの人々が目にしたであろうような景観そのままですから楽しくなります。
こうした参詣町は日本中にあり、参道の店構えも多くは伝統的な形式で、その風情を十分残しているところも多いです。この伊勢「おはらい町」もそのひとつではありますが、町全体の一体感が違うような気がします。もともと伊勢神宮内宮の鳥居前町であったおはらい町には、明治初期まで「御師(おんし)」と呼ばれる下級神官の館が立ち並んでいたとのこと。御師とは、各地を巡って伊勢参拝を勧誘し、参拝者にはその案内を行うほか、宿を提供してもてなしました。これは富士山や立山、出羽三山など多くの有名な信仰の地にはどこでもいたもので、こうした人々が日本中を回って参詣客を呼び込み、地元にあっては宿泊や参詣の案内をつとめていました。なかでも、この地の御師は庶民への御祓いや神楽も行っていまて、「御祓い」をする館が立ち並んでいたことから、「おはらい町」と呼ばれるようになったといわれています。
ただし、この街の景観がいまのようにきれいに整えられたのには現代の努力があります。
「門前町おはらい町の特徴は、木造建築で揃えられた町並み。おはらい町の建物は、1990年(平成2年)から始まった「伊勢市まちなみ保全事業」によって切妻・妻入り、もしくは入母屋・妻入りで統一されました。神宮社殿の建築洋式が切妻・平入りであることから、おはらい町の建物も神宮社殿に合わせて作られています。「ぬれガラス」と呼ばれる防腐塗料で黒く塗られた外壁と、独特の形をした「伊勢瓦」を使用された屋根が、古き良き伝統的な雰囲気を醸し出しています。」
(「内宮おはらい町地区のまちづくり」)より
また、このおはらい町の中ほどに「おかげ横丁」という一角があります。ここは1993年に開丁した街並みのことを指しますが、この「横丁」はまた別個の誕生物語をもっています。
「明治以降、御師制度が廃止されたことや自動車での参拝客が増えたことなどから、おはらい町は徐々に活気を失っていきました。昭和50年~60年代の来訪者は年間約20万人と、現在(2019年は590万人)と比較すると30分の1程でした。
この状況を危惧した(株)赤福が、おはらい町に伊勢路の伝統的な街並みを再現しようと開業したのが「おかげ横丁」です。第61回神宮式年遷宮の年、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。伊勢の暮らしや文化を体感できる場所として横丁を整備すると同時に、おはらい町の電線の地中化や石畳への舗装などにも取り組みました。開業時は27店舗でスタートしたおかげ横丁ですが、その後も少しずつ店舗を増やし、現在の店舗数は55店舗となりました。」(サイト:「おかげ横丁」より)
伊勢に行くといたるところに「赤福」の看板が目につきます。街の衰退に危機感をもったその赤福の経営者が中心になって、それまでの伝統的な力を増幅して、近年の観光ブームの中で盛り上がっている日本の神秘的な伝統のひとつである伊勢神宮とそこを訪れる「お伊勢参り」の人たちのための新しい観光文化財をつくりあげたわけです。
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