山上の不動明王に祈ること2022年03月05日 18:16


国内外での争乱(ウクライナ戦争)と病乱(オミクロンコロナ禍)の続く中、春の陽気になったのを幸いに奥武蔵の山々を歩きました。目的地のひとつが高山不動尊で、憤怒の表情で魔剣をふるう不動明王にこの混乱する世界を一刀両断してもらうためのお参り登山―というのは後付けの思いつきではありますが、ともかく、西吾野(飯能市)駅から高山不動尊と奥の院を目指し、さらに奥武蔵山地を越えて越辺川(オッペ)川の渓谷がつくる黒山三滝を経由して越生駅までの約4時間ほどのトレッキングです。


いちおう登山ではありますが、最高高度が760メートルということですっかり安心していましたが、コロナ禍での外出不足がたたったのか、次の日には足の筋肉がいたみました。


高山不動尊・常楽院は平安時代(11世紀)とされる木造軍荼利明王立像 (国指定重文)が安置されている、とても歴史のある寺院であり、江戸時代以前からの民間信仰そして同時に山岳宗教(修験道)の重要な場所でもありました。軍荼利明王立像が公開される毎年の冬至の日には送迎バスが出るということでも分かるように、近くまで自動車道が整備されているのですが、古道をたどるには、西吾野駅で下車、高麗川沿いにある古い目印をたよりに北東の段丘を登っていきます。



はじめのうちは人家も多いですが、次第に狭い道が坂になり、急になり、山道になります。人気のない暗い杉木立の中を1時間ほど進むと、なんとなく不思議な白い2つの石柱(上)のある分岐道にさしかかります。吾野方面からの道との合流点のようです。地図によるとここからが「高山不動尊道」のようですが、山道としては稜線に出たようで、道は丘陵の中腹、等高線に沿って平坦に進んでいきます。約30分ほどで高山不動尊のある平地に到着します。広々した場所ですが、イチョウの巨木が目を引きます。秋の紅葉は見事でしょう。高山不動尊本堂は、さらに古い石組みの階段を登り切った先にあります。屋根が大きく張り出した巨大な木造建築物で、現在は守る人もなく、重文を含む文化財の数々は後ろの収蔵庫に収められ、見学者が見ることはできません。ここまで来ると、1月に降った雪がかなり残っています。それなりに高地の厳しさがあるようです。



奥の院はここからさらにもうひとがんばり登った山頂になります。通称、関八州見晴台といい、これは山の名前になっています。確かに、800メートルにもならない高さですが、北東から南東方面まで、関東地方全体が隈なく見渡せる絶好のビューポイントになっています。ここからは残雪の残る急斜面を苦労しながら下り(ここで足の筋肉を使ったか?)、黒山三滝方面に向かい、最後はタクシーで生越の駅に帰還しました。


高山不動尊・常楽院にはいくつもの仏像がまつられていますが、なんといっても、人々の信仰の的になったのが軍荼利明王立像で、昭和24年から国指定の重要文化財になっているのですが、残念ながらその姿は普段は拝見することができませんが、飯能市のホームページにその写真が掲載されています(写真)。一面二眼八臂で檜の一木造り。いかにも古仏像らしい素朴な形と原始的、荒々しい風貌で、迫力満点です。軍荼利とは甘露=不死の意味で、強い力で外敵を除く五大明王の一つとのことで、精神世界の強さの象徴ですが、人間界の見にくい争いや混迷を一刀両断してくれる力があると信じましょう。

日本の「馬」2022年03月27日 13:54


6歳くらいの時だと思いますが、家の近所で大きな馬が桶を積んだ荷車を曳いているのを見た記憶があります。覚えているくらいですから当時でも珍しかったのだと思いますが、確かに60数年前には、このように「馬」はまだ運送手段として現役で使われていたのです。


現在、馬といえば、いま、そのほとんどは競馬や乗馬で活躍するサラブレッドに代表される西洋馬で、古来の日本馬はほとんど残っていないようです。上記の私の思い出の中の馬も(多分)軍馬・農耕馬として品種改良されたものだと思われます。ともかく日本でも昭和30年代くらいまでは細々と残っていた馬の役割ですが、その後あっというまにその存在は縮小してしまいます。しかし、馬という家畜は、日本の中世から近世においては生活の中でとても大切にされ、重要な役割を果たしていたのです。ヨーロッパでは日本以上にその役割は大きく、例えば今もたまに放映される『シャーロックホームズの冒険』という数十年前に製作されたテレビドラマでは、馬車が街の中を縦横に走り回る様子が見事に再現されています。コナンドイルの生きていたロンドンでは当時すでに蒸気機関車が実用化されていたのですが、自動車が普及する20世紀までは馬の時代だったのです。


そんな馬について、先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会で『中世武士と馬』という表題の講演会を行いました。講演を依頼したのは公益法人馬事文化財団が運営している「馬の博物館」の学芸員で参与の長塚孝氏です。馬事文化財団というのは、馬にかかわる文化の普及と競馬の健全な発展の基盤の形成に資することを目的として、昭和51年4月に設立された団体で、日本中央競馬会がスポンサーなのだと思いますが、昭和52年10月より、馬の博物館及びポニーセンターの管理運営を行っています。場所は、日本初の本格的な洋式競馬場とされる神奈川県横浜市の旧根岸競馬場の跡地一画の根岸競馬記念公苑に置かれています。府中市の東京競馬場内に設置したJRA競馬博物館についても、展示活動や管理運営を行っています。実はこの講演はコロナ流行前に、この馬の博物館までいって私がお願いしたもので、ちょうど2年前の3月に開催予定だったのですが、直前に中止になった経緯があります。


私が、競馬の馬ではなく、いわゆる日本の馬について関心を持ったのは『平家物語』や『今昔物語』に登場する当時の武士とその乗り物である馬との関係が非常に強いということに興味をひかれたためです。馬というのは、もちろん当時は重要な財産でもあったわけですが、そればかりでなく物語中に記されているさまざまなエピソードを通して、この動物と人間とが、戦闘においては行動を共にし、時には生死を共にするという強い結びつきを持っていることがよくわかったためです。


そこで今回の話も「中世武士と馬」としましたが、話の中心は、江戸時代以前まで日本で飼育されてた、いわゆる「在来馬」の現状と、中世において武士と馬がどのような関係にあったのかをいくつかの物語を通して考察してみるというものでした。


最初に述べたように、江戸以前にはたくさんいた古来の日本馬はほとんど残っていないようで、在来馬も合わせて2000頭もいないようです。上の写真の「木曽馬」は本来の日本馬にもっとも近いかもしれません。ただし保存会の人たちの手で育てられているものの、現在130頭前後しかいないとのことです。今では全世界でも野生の馬というのはほとんど存在しないそうなので、消滅していくのは仕方ない面もありますが、人類の歴史の中でかけがえのない役割を果たしたこの動物の未来はどうなるのでしょうか。ちなみに、よく似た役割を担った「牛」はといえば、農耕の役割を終えながらも「食肉」「牛乳」と利用用途が広く、今でも家畜の最大数を占めているはご存じのとおりです。ただ、これもバイオテクノロジーによる代替肉が現実のものになれば、生産に莫大な農業コストのかかるものですから、将来においてその存在は微妙だというのが私の考えです。少数の愛玩用と動物園でしか見られないことになるのでしょうか。

杉山城跡を見る2022年03月28日 16:11


1カ月ほど前から遠いヨーロッパで前時代を思わせるような凄惨な戦いが続いています。日本でもほんの80年近く前まで信じられない戦いの現実がありました。現代の戦争は見ていられませんが、これが500~600年前のこととなると、歴史の時間の中で血と殺戮のにおいは消えてしまい、一種のロマンになってしまうのが不思議です。そうした雰囲気を感じさせてくれるもののひとつが日本の各地に残されている城郭―特に自然の中に放置されたような山城で、埼玉県の北部はそんな遺構がたくさん残っている地域です。春の一日、そんな山城のひとつ埼玉県嵐山町の杉山城跡を見学し、その前後に2つの石仏群(町指定)を訪れました。


午前10時、武蔵嵐山駅に集合、参加者は20名。まずは線路沿いにやや歩くと広い道路に出会います。ここが比企地域の歴史にも深くかかわる(旧)鎌倉街道で、そこからすぐ、静かにたたずむ「志賀観音堂の石仏群」があります。地元の太子講奉納の聖徳太子石造やいくつもの庚申塔など町指定の文化財を鑑賞・調査、シダレザクラに迎えられ付近の里山風景にも自然に溶け込んでいい感じです。そこから市野川を越えた河岸丘陵の上にある嵐山町役場を訪れました。ロビーで杉山城の解説ビデオを流していただき、じっくりと知識をインプットした後、再び市野川沿いの道を歩いていよいよ杉山城へ向かいます。


杉山城は、直下を通る鎌倉街道を見下ろすような丘陵の尾根上に多数の郭(くるわ)を配置した山城ですが、規模はそれほど大きくはありません。中央部の本郭を中心として北・東・南の三方向にそれぞれ二の郭、三の郭を梯段状に連ね、大手口に面しては外郭と馬出郭、井戸に面しては井戸郭が配置されています。小さいながら、主に土で形成された急角度の土塁と城郭や深く掘られた空堀は見た目でもわかるように入り組んでおり、攻め寄せる敵にとっては迷路であることがわかります。城郭考古学者の千田嘉博氏が「絶対に攻めたくない山城」で1位に選んだというように、各郭には様々な工夫が凝らされており堅固な防御力と敵への攻撃力を誇っています。上の写真は井戸廓の下にある本物の井戸。城の最後に際して石の蓋をしたようです。下の写真は本廓直下の空堀。本来の溝はもっと深く、上には防柵などもあったでしょうから徒歩での攻撃は難しかったと思います。現在からみれば子供の遊びにもみえるようなスケールですが、弓矢、槍、刀での血みどろの戦いが想定されていたのです。



この城が成立した、日本の戦国時代(室町幕府の時代)の初めころ、関東では「長享の乱」と呼ばれる関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による一連の戦いがあり、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、付近では多くの戦死者を出す戦闘がありました。そのことからこの杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられています。その後も小田原北条氏の関東進出の中で、上野国と鉢形城、河越城を結ぶ鎌倉街道の中間にあって重要な役割を担っていたものと考えられています。


城の全体を見学後、搦め手と呼ばれる城の後方に緩斜面に造られた東・北廓を通る経路で山を下り、城山丘陵を分けるように通過する古道の上にある、これも町指定の文化財「六万坂の石仏」を見学し、予定を終了しました。