P.K.ディックの世界(1) ― 2021年10月17日 14:08
SF映画として名高い『ブレードランナー』は続編や再編集版もあり、TVでも何回も再放送されていますが、つい先日、そのひとつを久しぶりに視聴しました。この映画は1982年に公開されていますが、原作のSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androidos Dream of Electric Sheep?)』の著者フィリップ・K・ディックはこの年、映画の完成をまたずに48歳で亡くなっています。一部の場面は確認したそうですが完成版を見ることはできなかったようです。
当時の私はフィリップ・ディックのファンでしたからこの映画も公開時に見ています。約40年前のことですが、最初の夜空に浮かぶ炎の中を飛んでいくジェット自動車と最後近く、レプリカントが「俺たちの人生は恐怖の連続だ」と叫ぶ場面はよく覚えています。
小説と映画は違いますが、大きな意味でのストーリーとそこに出てくるエピソードに共通点を別にしても、画面には、フィリップ・ディックという作家の本質にかかわる部分が結構出ているような気がします。この映画が数十年を経た今も、SFの名作とされているのはそこに理由があるのでしょうか。もちろん映像演出的にみても、展開されるおなじみのアメリカSF的な飛行物体や高層ビル群とは対照的に、想定されているこの物語世界のなんともいえない殺伐さと、いつも雨が降っているようなアジアの裏町風のじめじめした光景は、それまでのSF映画のアンチテーゼとしてのインパクトは十分だったように思われます。ただし、この映画のメインテーマは、登場する、人間の科学技術によって造られたロボット(映画『ブレードランナー』ではレプリカント、小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ではアンドロイドという呼び方になっています)と人間との闘いです。
この映画製作以前も以後も、ロボットあるいは機械が人間と戦うというテーマは繰り返し現れます。有名な『2001年宇宙の旅』でのコンピュータに支配された宇宙船も機能的に拡大されたロボットということができます。『ブレードランナー』では、人間とロボットがなんの社会的・政治的動機もなしに対立します。ここで違うのは、このレプリカントが、生物としての肉体をもち、さらに、外見的にだけでなく記憶や心理の面でも人間との区別がつかない―他人からみて区別できないばかりでなく、自分自身でも人間なのかレプリカントなのかがわからない―そういう存在として登場することです。現在の生殖科学からすれば遺伝子改変で可能なのかもしれませんが、当時のことなので筋肉や内臓の中に電極や歯車が埋め込まれているという構造になっています。
つまり、レプリカントは、いわば自分が誰であるかわからないという、一種、おかしな精神状態にあります。作品の中の説明では、自分の過去の記憶も他人の記憶を移植され、それを信じているという説明が使われています。これも多くのSF作品の中に登場する手法で、理論としてはありえるでしょうが、実際にそんなことができるかどうかはロボット本体の人間並みの運動機能よりはるかにはるかに難しそうです。
いえることは、この『ブレードランナー』の中で、あるいはもっと広くフィリップ・ディックが創造したSF世界の中では、こうした「科学的・合理的説明」はあまり意味を持っていないということです。他にも、たくさん出てくるSF的小道具、例えば、(絶滅寸前の動物に代わって造られた)ウマやカメやヒツジなどの人工生物のあまりに高度すぎる完成度に比べて、人間とロボットを識別する方法として目の中の瞳にあらわれる特定の言葉の反応時間を光学機器で判別するという超古典的な手法など、これらが、この作品の時代設定である21世紀初頭に出現するかどうかなどはフィリップ・ディックの世界ではほとんど意味がなく、そこで展開する物語の「非現実的な現実」を読者に無理なく読んでもらうためのとりあえずの背景という感じしかないようです。
ではこの作品世界のテーマ(があるとして)はなにかといえば、特に、映画についていえば、人間によって造られた存在であるレプリカントが「自分はもしかしたら人間ではないかもしれない」という恐怖を持ち始める。そして、そのレプリカントが「誰かが自分の寿命や老いという運命を操作している」ことを知った時の絶望と怒りであるということになります。
『ブレードランナー』という映画は、人間の複製品=レプリカント対人間の戦いというわかり易い構成で描かれていますが、冷たい雨の降る湿った画面からは、劇画やアクション映画みたいなエンターティメントの裏側にある不思議な異物感=違和感が感じられます。人間と他人との関係を感じさせる部分とでもいうか、多分、この実存哲学に類するような深い解釈ができそうなことが一部のひとにこの映画が評価されている部分なのかと思います。
思えば、フィリップ・K・ディックは、SF小説という、アメリカでも先端的なといえば格好いいですが、ポルノ小説と似たようなキワモノ的な扱いを受けていた分野で頭角をあらわした異端の作家です。そして、その一番初期の作品から、人間の存在に疑問をつきつけるようなテーマを扱える分野としてSFを選んでいたとしか思えないところがあります。
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