出羽三山の旅(3)2021年10月01日 16:51


3日目はいよいよ羽黒山です。午前7時過ぎ、昨日と同じコースをたどる定期バスに乗り、途中の<荒沢寺・ビジターセンター前>で下車します。


 羽黒古道を歩く 1


多くの観光客が降りる随神門で下車しないでここまで来るのは前回触れた岩鼻通明氏著の『出羽三山』で、ここからの古道歩きコースが「おすすめ」されているためです。このおすすめ古道は、かつて羽黒山の奥の院とされた荒沢寺のすぐ前から羽黒山頂まで続いているのですが、振り返ると道は反対側の月山方面にも伸びています。今の登山地図でもこの道は出ていますので見てみると、羽黒山の山頂から荒沢寺を通って月山半合目(0.5合目)まで続く「東北自然歩道」の一部であることがわかります。この自然歩道はそこから舗装道路(いわば自動車道路)になりますが、8合目からはまた復活します。これが昨日登った月山登山路です。以前は羽黒山からのこの道が参拝者が一日かけて月山に登るルートだったわけです。ちなみに江戸時代この荒沢寺から先は女人禁制でした。



季節ごとの峯入りなど羽黒山の宗教行事にはこの道が使われると思われますが、確かにそれにふさわしく、道の両脇には杉の巨木が聳え、昼なお暗い荘厳な雰囲気を漂わせています。左右の見渡す限りの羽黒山の深い森も月山と同様にスギとブナなどの多様な木々と豊かな下生えの中、月山竹とよばれる大きな笹も目立ちます。途中、大きな古い建物に遭遇しましたが、これは峰中籠堂とよばれる宿泊施設で峯入りなどの行事に使われるためのものらしいです。ゆっくり坂を登ること約30分で羽黒神社のある頂上に到着します。「東北自然歩道 修験道の道」の石碑が建っていました(上の写真)。


 羽黒古道を歩く 2


古道はもうひとつあり、実はここを歩くのが私の楽しみでした。古くから信仰と修行の場であった羽黒山に登るルートとして今では日本海沿いの鶴岡方面から随神門をくぐり石段の参道をのぼるのが一般的ですが、もうひとつ仙台や山形市さらには関東・江戸からのルートとして、最上川を下って川港である清川で下船して東北側から羽黒山に向かう道がありました。月山から流れ出る立谷沢川に沿ったルートで行きつく鉢子という集落からこの古登山道は始まっています。『奥の細道』の旅での芭蕉などもおそらくこのルートをたどって羽黒山方面に向かったと思われます。古くは源義経一行の平泉落ちにさいしても弁慶がこの道をくだったとの伝承記録があります。この登山道の存在を知ったことがそもそも今回の旅の計画の出発点っでした。


頂上から逆に下りることになりますので、その道を探していると、廃仏毀釈を免れた仏像を納めた千仏堂のすぐ裏がルートの開始地点(終了地点?)のようです。たまたまそこに白い装束をつけた神社のひとがいましたので、この古登山道のことを聞いてみると「そういう道はありません」というつれない返事です。「地図(昭文社の山と高原地図)にも出ていますよ」と再度確認すると「実はあまりお勧めしていません」ということ。しかも「途中の舗装道路で終わってしまいますよ」というのですが、責任をもって動きますからということで、山道を下りはじめます。確かに最初はあるかなしかの心細い山道なのですが、すぐにしっかりした登山道になり、ひとが通っている道であることが確認できました。


15分ほど進むと神社の人のいう通り舗装道路で途切れています。しかし見れば明らかにその先にも道は続いています。林の中のその道は古道とは思えないほどしっかりしています。さらに30分ほど進むと、送電線の鉄塔が建っている開けた草原にでました。地図に「見晴らしの丘」と書いてある場所でしょう。簡単なベンチもあり、庄内平野が一望できます。ところがここからの道が問題でした。確かに道筋はついていて迷うことはないのですが、多分、ここ1~2年、ほとんど人が歩いていないのでしょう。ススキやシダなどの丈の高い草が茂り、ポールで払いながら進む状態になりました。その先には湿地もあり、木道が敷かれていますが、やや不安定な箇所もあります。草地を抜けると庄内平野と反対側の斜面に出て、これは麓の鉢子集落を臨んでいるようです。やがて林の中に入るとまた道はしっかりしてきます。人が通らないためか、一か所、熟した山栗の実がたくさん落ちているところがありました。見ている最中にも実が落下してきます。自然に飛び出たきれいな実だけを集めましたが、80個くらいは集められました、思わぬお土産です。



最後は農地も現れ集落の農道のような感じになりましたが、約1時間30分で、古道の入り口にでました。「羽黒山登山道」という古い大きな標識があり=写真=、その先には真新しいパネルも設置されていますから、先ほどの神社の人の対応が不思議です。実は、この古登山道の地元である山形県庄内町では、地域の観光振興のためにこの道をPRしています。ホームページには「羽黒古道―いにしへへと誘う歴史街道」という以下のような記述があります [こちら]。


<一部引用>
立谷沢川流域は、江戸時代まで出羽三山詣りの表参道として賑わいました。参詣者は、奈良時代から最上川舟運の水駅として栄えた清川で舟を下り、羽黒古道をたどって、はじめの参詣地である羽黒山へ登りました。/義経記には、源義経が平泉へ逃避行する際、弁慶は羽黒山からこの古道を下り、清川の御諸皇子神社で義経一行と合流し一夜を明かしたと記されています。 地域の仲間たちが復活させた羽黒古道では、蜂子皇子ゆかりの史跡やマンサクといった山野草木に触れながら、登ることができます。
<引用ここまで>


この立谷沢川ルートの出発点となっているのは<鉢子>という集落ですが、出羽三山の開祖として知られ、修験道を広めたとされる<蜂子皇子>と関係があるのでしょうか。また、ホームページには、一時廃道になっていたこの古道を地元の有志の方々が復活して歩けるようになったことも書かれています。この模様は、同町制作の動画『羽黒古道を復元する』[こちら]で紹介されています。復元させたのは「羽黒山修験道を守る会」のメンバー。子供時代を思い出しながら、自分たちの楽しみとして道を開いていったそうです。


休む間もなく登山道を昇り返しましたが、標高差は300メートルもないと思われ、登山道としては物足りません。信仰の想いが薄れてしまった現代でこの道が顧みられないのは仕方ないことかもしれません。

出羽三山の旅(4)2021年10月03日 08:59


 象潟


今回の旅行のメインは「羽黒山」と「月山」なのですが、その前後に入るのが最初の日の「山寺」と最後の日の「象潟」です。これらの場所を強いて結び付ければ松尾芭蕉の『奥の細道の旅』ということになります。400年前の不世出の俳人が旅した地域を同じように回って、あたかもその追体験をしようという人たちは現在でもたくさんいます。私も、意識したわけではないのですが、この地域で訪ねたい場所を選んでいると自然にこのコースになりました。以前、廣重の『大江戸名所百景』の舞台となった場所を訪ねる散歩企画をやっていたことがありますが、そのかなり多くの場所が現在でも名所あるいは最近まで名所だった箇所であることに気づいたことがあります。日本人の美意識というかあこがれの対象となる風景というのは変わらないものがあるのかもしれません。


ただし、名所としての価値は、特に「象潟」では芭蕉時代とは違っています。芭蕉がこの地を訪問した元禄年間には象潟は九十九島と呼ばれ、東の松島と並ぶ海の景勝地でした。それが1804年(文化元年)の地震による地殻の隆起で一日にして陸地と化し、現在見るような、水田の中に浮かぶ島々という不思議な景観に変わってしまいました。この現在の景色を「まるで盆栽のように美しい」とみるか、それとも地球の地殻変動の象徴を示す天然記念物とみるかは個人の好みでしょうが、私は、地球の持つ底知れないエネルギーを感じさせる地形として火山の噴火口や河岸段丘、氷河地形などと同様な自然地理的な興味を感じます。


鶴岡から地元の高校生や中学生とともに、車窓から最上川や鳥海山を眺めながら1時間以上かかって象潟に到着です。下りてみるとここは本当に観光地かと思うほど駅前は寂しく閑散としています。わずかに「芭蕉翁の足跡」という黄色いマークが駅構内から駅前道路の上に点々と描かれているのが唯一のそれらしき印です。陸の九十九島を示す標識もパネルもありません。環境客は鉄道では来ないのか? 


確かに事前調査によれば、象潟は道路沿いの道の駅の展望台から眺めるのが一番よいと書いてありますので、私のように歩いて来る人はあまりいないのかもしれません。しかし現代ではスマホ内蔵の地図ソフトもGPSもありますから、この静かな名勝地には15分もかからずに到着できることはわかっていますのであせらず歩き始めます。目的の水田地帯は駅の反対側ですから道路を選んで近づいていると、自転車に乗った地元の人と思しきおじさんが寄ってきて「見物ですか?」と話しかけてきました。地方ではよくこういうひとに出会います。親切な人がほとんどですから少し話し、向かっている方向が間違いでないことを確認できました。一番近い島は目の前でしたし、九十九島をめぐる周遊コースを示す案内板も立ててあります。実に質素な観光地なので。観光バスで乗り付けるような場所ではないんですね。


象潟は天下の名勝地とはいえ、上の写真でもわかるように要するに田んぼの中に盛り上がった林が点在するだけの景観です。実際には島は大小の岩石でできていて火山由来であることがわかります。さらに背景にはこの地形を生み出した鳥海山の素晴らしい山容も見えますが、関心のない人には退屈なだけの場所かもしれません。私も、退屈はしませんが、いくつかの島の廻りを歩き回っているうちに、ここに3時間いるのは大変かなと思い始めてきました。少し離れた道の駅まで行けば遠景も見えるでしょうし、何か地元のお土産が買えるかもしれませんが、この水田の中には休み場所もないようです。実は、1時間半くらいで駅に戻れば帰りの電車があるのですが、そのあとは2時間空いてしまいます。ここがローカル線の旅の悩ましいところです。結局1時間程度の滞在で駅に戻ることにしました。


 ローカル線の旅


この象潟には羽越本線という新潟と秋田を結ぶ鉄道に乗って訪問しました。象潟からの帰りには陸羽西線というこれも聞きなれない路線に乗車しますので、この日はローカル線の旅ということにもなります。



象潟から東京方面への帰り道は、羽越本線の余目(あまるめ)という駅から、いま述べた陸羽西線に乗り換えます。羽越本線も無人駅のほうが多いようで、先頭車両に運賃箱が置いてあったりというバスと同じようなワンマン体制ですが、陸羽西線はこれに加えて電化していない、久しぶりのジーゼルカーでした。乗車してから車内にただよう排気ガスの匂いで気づいたのですが、私が育った埼玉県大宮の川越線も埼京線と繋がるまで非電化でジーゼルカー運行でした。さらに高校時代までは一日2回SLが走っていたことなどを思い出してしまいました。


陸羽西線は最上川の河岸段丘を川の流れと並行しながら上流に進みますので、堤防はもちろん時折雄大な川面が見えるという観光路線です。終点の新庄駅では山形新幹線「つばさ」に初めて乗りましたが、ここからは雰囲気ががらりと変わります。もはやのどかなローカル線ではなく、大きな荷物を持った客がたくさん乗車してきて、大宮までほぼ満員でした。

霧ヶ峰で分水嶺トレイル2021年10月09日 10:37



「分水嶺」というのは、比喩的に使われることも多いかもしれませんが、本来の意味は河川の水系を決める山や丘陵などの連続した尾根筋のことをいいます。例えば、飯能と奥多摩の間にある棒ノ折嶺は、その北側斜面が荒川水系、南側斜面が多摩川水系となっていますのでこの2つの水系の分水嶺です。もっと大きくいうと甲武信岳は日本海に注ぐ信濃川(千曲川)と太平洋に繋がる東京湾まで流れている荒川という2大河川の水源地ですから日本では最大規模の分水嶺ということができます。このように日本海側と太平洋側に分かれる分水嶺の連続線を「中央分水嶺」と呼んでいます


この中央分水嶺という地理学用語を冠したトレッキングコースがいくつかあるようですが、その最大規模のコースは長野県・長和町の「霧ヶ峰・美ヶ原中央分水嶺トレイル」のようです。日本列島のもっとも太い部分で、中央分水嶺を踏破できるトレイルコースとして信州・長和町の長門牧場から白樺湖、霧ヶ峰、和田峠を経て美ヶ原高原にいたる全長38kmが公式ルートになっています。


今回、この中の一部である長野県の霧ヶ峰高原に行き、その一端を歩くことができました。車山という主峰を中心に、手入れのされた明るい草原状の峰々とそれらに周囲を囲まれている八島湿原(その一角の湿地帯は天然記念物指定)がそう呼ばれているようです(上の写真がその八島湿原とその向こうの車山)。周囲はスキー場を含めた開放性の高いリゾート地になっています。さらに大きな話をすると、この場所は、地球規模のスケールでいえば北米プレートとユーラシアプレートの2つの巨大な地殻の境界線で、日本列島の大地溝帯(フォッサマグナ)とよばれるエリアにふくまれています。東日本と西南日本がぶつかり隆起している場所ですから今でも活発な地殻活動が続いている地域ということになります。すごい場所です。


フォッサマグナは相当に広い面積を占めていますが、その中心を南北に通っている大断層が糸魚川静岡構造線です。この中心にあるのが諏訪湖であることは有名です。諏訪湖から流れ出ているのは天竜川で、これは太平洋に注ぎます。その少し北方を中山道が通っていますが、そこにあるのが、この街道の最大の難所、和田峠です。この峠はまさに中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経る信濃川水系で水は日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系です。中山道自体が中央分水嶺の上を通っているのかもしれません。ちなみに和田峠は黒曜石の一大産地ですから石器時代から交通の要衝であったと同時に日本の東西交通の要であったともいえます。



この和田峠からビィーナスラインとよばれる道路で結ばれているのが霧ヶ峰高原で、先ほどの「中央分水嶺トレイル」の一部になります。日本百名山のひとつであり、エアコンの商品名にもなっている日本を代表するこの高原地帯は、豊かな自然ばかりでなく、文化・歴史的にも面白い地域です。車山から四方の山々を眺めているとまさに日本の中心にいるんだという気になります。写真は車山の山頂に祭られた柱。諏訪神社の祭礼で使う御柱はこの山から切り出されたという。

P.K.ディックの世界(1)2021年10月17日 14:08



SF映画として名高い『ブレードランナー』は続編や再編集版もあり、TVで何回も再放送されていますが、つい先日、そのひとつを久しぶりに視聴しました。この映画は1982年に公開されていますが、原作のSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androidos Dream of Electric Sheep?)』の著者フィリップ・K・ディックはこの年映画の完成をまたずに48歳で亡くなっています。一部の場面は確認したそうですが完成版を見ることはできなかったようです。


当時の私はフィリップ・ディックのファンでしたからこの映画も公開時に見ています。約40年前のことですが、最初の夜空に浮かぶ炎の中を飛んでいくジェット自動車と最後近く、レプリカントが「俺たちの人生は恐怖の連続だ」と叫ぶ場面はよく覚えています。


小説と映画は違いますが、大きな意味でのストーリーとそこに出てくるエピソードに共通点を別にしても、画面には、フィリップ・ディックという作家の本質にかかわる部分が結構出ているような気がします。この映画が数十年を経た今も、SFの名作とされているのはそこに理由があるのでしょうか。もちろん映像演出的にみても、展開されるおなじみのアメリカSF的な飛行物体や高層ビル群とは対照的に、想定されているこの物語世界のなんともいえない殺伐さと、いつも雨が降っているようなアジアの裏町風のじめじめした光景は、それまでのSF映画のアンチテーゼとしてのインパクトは十分だったように思われます。ただし、この映画のメインテーマは、登場する、人間の科学技術によって造られたロボット(映画『ブレードランナー』ではレプリカント、小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ではアンドロイドという呼び方になっています)と人間との闘いです。


この映画製作以前も以後も、ロボットあるいは機械が人間と戦うというテーマは繰り返し現れます。有名な『2001年宇宙の旅』でのコンピュータに支配された宇宙船も機能的に拡大されたロボットということができます。『ブレードランナー』では、人間とロボットがなんの社会的・政治的動機もなしに対立します。ここで違うのは、このレプリカントが、生物としての肉体をもち、さらに、外見的にだけでなく記憶や心理の面でも人間との区別がつかない―他人からみて区別できないばかりでなく、自分自身でも人間なのかレプリカントなのかがわからない―そういう存在として登場することです。現在の生殖科学からすれば遺伝子改変で可能なのかもしれませんが、当時のことなので筋肉や内臓の中に電極や歯車が埋め込まれているという構造になっています。


つまり、レプリカントは、いわば自分が誰であるかわからないという、一種、おかしな精神状態にあります。作品の中の説明では、自分の過去の記憶も他人の記憶を移植され、それを信じているという説明が使われています。これも多くのSF作品の中に登場する手法で、理論としてはありえるでしょうが、実際にそんなことができるかどうかはロボット本体の人間並みの運動機能よりはるかにはるかに難しそうです。


いえることは、この『ブレードランナー』の中で、あるいはもっと広くフィリップ・ディックが創造したSF世界の中では、こうした「科学的・合理的説明」はあまり意味を持っていないということです。他にも、たくさん出てくるSF的小道具、例えば、(絶滅寸前の動物に代わって造られた)ウマやカメやヒツジなどの人工生物のあまりに高度すぎる完成度に比べて、人間とロボットを識別する方法として目の中の瞳にあらわれる特定の言葉の反応時間を光学機器で判別するという超古典的な手法など、これらが、この作品の時代設定である21世紀初頭に出現するかどうかなどはフィリップ・ディックの世界ではほとんど意味がなく、そこで展開する物語の「非現実的な現実」を読者に無理なく読んでもらうためのとりあえずの背景という感じしかないようです。


ではこの作品世界のテーマ(があるとして)はなにかといえば、特に、映画についていえば、人間によって造られた存在であるレプリカントが「自分はもしかしたら人間ではないかもしれない」という恐怖を持ち始める。そして、そのレプリカントが「誰かが自分の寿命や老いという運命を操作している」ことを知った時の絶望と怒りであるということになります。


『ブレードランナー』という映画は、人間の複製品=レプリカント対人間の戦いというわかり易い構成で描かれていますが、冷たい雨の降る湿った画面からは、劇画やアクション映画みたいなエンターティメントの裏側にある不思議な異物感=違和感が感じられます。人間と他人との関係を感じさせる部分とでもいうか、多分、この実存哲学に類するような深い解釈ができそうなことが一部のひとにこの映画が評価されている部分なのかと思います。


思えば、フィリップ・K・ディックは、SF小説という、アメリカでも先端的なといえば格好いいですが、ポルノ小説と似たようなキワモノ的な扱いを受けていた分野で頭角をあらわした異端の作家です。そして、その一番初期の作品から、人間の存在に疑問をつきつけるようなテーマを扱える分野としてSFを選んでいたとしか思えないところがあります。

P.K.ディックの世界(2)2021年10月24日 13:04



今回、フィリップ・K・ディックのことを書くために書棚の奥をかき回してみると『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック』という4冊セットの文庫本が出てきました。サンリオSF文庫となっています。現在のサンリオはSFなんか出していませんが、40年前にはこのようにSF小説が結構な人気を持っていたのです。本家の「ハヤカワSF文庫」があり、専門雑誌もありました。思えばあの頃は日本のパソコンやテレビゲームもまだ黎明期で初心者が読む雑誌もいくつも出ていて、本当に、サブカルチャアから趣味の世界まで、日本全体が文化的にも若く、本当に面白い時代だったんだなぁと懐かしく思い出します。


さてこの4冊セットですが、よくみると、Ⅰ~Ⅱ巻とⅢ~Ⅳ巻の編者が違います。どうも2つの異なる時期に出された短編集を日本で4巻にまとめて出版したようです。そのため第Ⅲ巻にディック自身のまえがきがあったりしまが、Ⅰ~Ⅱ巻が1977年に出た短編集、Ⅲ~Ⅳ巻はその後、1984年頃?にでた作品集らしいです。創作の年代は重なっていますが、作品自体はそれぞれの編者により別の基準で選ばれ、重複してはいません。


フィリップ・K・ディックは後年になってからは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『ユービック』、『火星のタイムスリップ』、『高い塔の男』などの長編に比重を移しますが、初期から最後まで書き続けた非常に多くの短編作品はどれも傑作でおもしろいものばかりです。私自身が最近は長編を読むのがちょっと苦痛になってきたこともありますが、著者自身の「短編SFはSFの最高の形式であり(略)私自身の長編の大半は、初期の短編を発展させたか、いくつかの短編を融合したもの―重ね合わせたもの―である」(第Ⅱ巻末の「著者による追想」)という言葉に便乗して、今回はこの4冊の短編集を素材に前回の記事で触れた、難しくいえば<人間の存在に疑問をつきつけるようなテーマ>を種にして、この作家がどのようなストーリーでわれわれを、時に楽しませ、時にドキッとさせているかをみてみたいと思います。


・変種第2号(Second Variety) 1953年


1940年代から1960年代にかけてのSF小説は当時の米ソ冷戦時代を背景としている作品が多いです。この作品も核戦争後の破滅的な米ソ戦争の中で、地下で自動生産されるクロ―と呼ばれるロボット兵器が自分自身で高度化し、ついには人間そっくりに進化してしまい、だれが人間でだれがロボットなのかがわからなくなってしまうという話です。ロボットは、ついには敵の兵士だけでなく、味方も含む人間をすべて抹殺するように見境がなくなっていきます。このようなストーリーはこの後も多くの作家が取り上げますが、ディックの小説はこの時からすでに人間不信に及びかねない過激性を秘めていました。余談ですが、これは「機械対人間」の話なのですが、近年のイスラム社会の対立抗争で登場する思想改造された本物の人間の子供や女性による「自爆テロ」を予見したようなところがあり、かなり不気味です。


・おとうさんみたいなもの(The Father-thing) 1954年


一度読んだら忘れられないとはこの短編のことです。ごくふつうのアメリカの家庭で、ある日、子供が、父親が「何か」に変わっているのに気づきます。見かけはおとうさん、でもおとうさんじゃない! その「おとうさんみたいなもの」は始めはやさしそうですが、次第に凶暴になり、ついに子供は外に逃げて、近くの友達とともに、その「おとうさんみたいなもの」の正体を突き止めようとします。やがて自宅裏の湿った竹藪の地中に生息している白い幼虫みたいなものが人間に近づき、外見を残して肉体の中に入り込み、人間みたいなものになっていくのを目撃します。子供たちは害虫を処理する方法で「彼ら」を駆除するのですが―。中身を吸い取られてグニャグニャの皮だけになった「おとうさん」のイメージがいつまでも記憶に残ってしまいます。ディックの世界で人間の外見と中身が入れ替わるという発想はたびたび現れます。


・電気蟻(Electric Ant) 1969年


この小説での電気蟻(Electric Ant)は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(映画『ブレードランナー』の原作)の中に出てくる「電気羊(Electric Sheep)」とは違って、昆虫の蟻に似せたロボットのことではなく、人工的に造られた人間(小説ではアンドロイド、映画ではレプリカント)のことです。自分を有能な経営者だと思っていた主人公の男が、ある日気が付くと、交通事故を起こし腕を失っていました。さらに、そこでなんと自分が人間ではなく「電気蟻」だったことを冷酷に知らされ、あっけなく病院を追い出されてしまいます。そういう社会なのです。失意の中、自分の内部の記憶がどのように生まれているかのメカニズムに気づいた男は、それが肉体の中に埋め込まれたさん孔テープに記録されていることを見つけ、そのテープを加工し始めます。すると目の前で起こっている現実が次々に変化していくのです。メモリーが穴の開いた磁気媒体=さん孔テープというのがいかにも時代を感じさせますが、人間の記憶や感情=つまり人間の意識そのものが人工的なメモリで置き換えられ、今まで信じていた自分の記憶=意識が移植されていたものだというのは、後のディックの多くの長編につながります。つまりはあなたの隣にいる人があなたと同じ感情をもっているとは限らないという世界の始まりです。


・人間らしさ(Human Is) 1955年


これも人間の外観と中身が入れ替わってしまうという話ですが、上の話とやや違って、SF小説の要素は薄れ、どちらかといえばファンタジーに近い読後感があります。地球に暮らすその夫婦には子供もいますが、夫のヘリックは冷酷な性格で、妻にも子供にも愛情がなく、ひたすら軍事関係の仕事に熱中しています。ある時、ヘリックは自身の関与する計画でと深宇宙の星との戦争にでかけ数週間家をあけます。ところが、帰ってきたヘリックはなにかが違っているのです。妻には愛情豊かな言葉をかけ、子供と遊び、家族で仲良く出かけます。妻は幸福になりますが何か違和感も感じています。すこしたって政府の出入国管理官がやってきて、ヘリックは別人で、彼の肉体には古い星の滅びかけた異星人が入り込んでいるのだと告げます。ただし、すでに地球に来てしまっているので、地球の「法律」で裁いて死刑にしなければならず、それには妻の証言が必要といいます。裁判の日、妻は前言をひるがえし、夫は何も変わっていないと証言し「へリック」は無罪になり、夫婦は腕を組んで楽しそうに法廷をあとにします。



(以下、作品追加の可能性あり)

棒ノ嶺―滝歩きと小沢峠の謎2021年10月29日 12:56


ひとつ前の記事で書いた「霧ヶ峰で分水嶺トレイル 」は日本列島の中央分水嶺でしたが、その3週間後に、今度は埼玉県と東京都(山境でいえば奥武蔵と奥多摩)の境にあり、荒川水系と多摩川水系の分水嶺になっている「棒ノ嶺」を歩きました。以前も行ったことがありますが、その時は雨で景観もよく観察できませんでしたので完全な晴天になった今回は楽しみです。西武線の飯能駅からバスで入間川(名栗川)上流の「さわらびの湯」に到着。ここから名栗湖を越えて登山になります。


このコースの醍醐味はなんといっても名栗川の支流が流れ下る白谷沢を登ることにあります。最初は山腹の急斜面をひたすら歩きますが、やがて滝の音が大きく聞こえ始め、ごつごつした岩稜の間を勢いよく水しぶきが飛び跳ねている沢に入ります。ここから岩場を乗り越える感じで両手も使っての登山となり、躍動感が高まります。


沢というより滝の連続で、大きなものには「藤掛の滝」、「天狗滝」などと名前が付けられているようです。最後は「白孔雀の滝」と命名されている数段に渡る滝を登ります。雄大で、一部にクサリも付けられたその急な岩場を登るときは結構スリルがあります。登りはまだまだ続き、白谷沢の水源地探しのように、どんどん細くなっていく水流を遡り、とぐろを巻く木の根や朽ちかかった木の階段の複雑な斜面を懸命に登り、分岐道のある岩茸石から、さらに20分ほどで権次入(ごんじり)峠のベンチが見えてきました。県境であり分水嶺でもある「棒ノ嶺尾根」はここから始まります。棒ノ嶺尾根の北側は奥武蔵の山々、そして南側は奥多摩です(下の写真)。ここまで麓からの山肌はほとんどスギやヒノキの植林で覆われていましたが、標高は900メートル近い尾根筋付近はヤマザクラやミズナラ、クヌギなどブナ科の里山系の木々も目立ちます。



尾根筋を20分程進んで最高地点(969メートル)に到着。山頂は広々して背の高いススキの群落があります。北西に走る棒ノ峰は北側が大きく開けていて、この日の青空のもと、麓の名栗湖方面からはるか飯能市街、さらに奥武蔵の山々、遠くには上州の赤城山までが一望できました。


下山開始。権次入峠から今回は黒山方面に向かいます。13時過ぎに到着した黒山では高水三山の岩岳石山を経て奥多摩方面に向かう尾根道が右に分岐しています(ちなみにこの尾根が「関東ふれあいの道」で、棒ノ嶺に続く分水嶺はこちらのほうになります)。われわれは気持ちのよい植林地を両手に見ながらまっすぐひたすら歩きます。飯能や青梅の林業はこうして手入れのされた森林によって栄えてきたことがわかります。


午後3時近く、目的地である小沢(こざわ)峠付近に差しかかりました。実はこの小沢峠には謎?がありました。このルートの計画時に、多くの登山者が標準地図に載っている道をとっていないことがわかり、これはどういうことかと現地で確認してみようということになっていたのです。


果たして、標識に従って進むと、道は峠からそれて右側斜面をどんどん下りていきます。「これでは違うのではないか」ということで途中で協議開始。標準登山地図での本来の登山道は峠方向にまっすぐ進み、越えたあたりで左折して小沢トンネルの飯能方面出口に出ることになっていますが、標識にしたがって進むとトンネルの反対側まで行くことになります。少し進むと左折して峠の上に出ると思われる道がありました。スマホアプリのYAMAPの地図を見せてもらうと、この道も出ています。ただし線は赤ではないので正規?の登山道ではなさそうです。なんとか行けそうということで峠に上ると、果たして分岐の標識がありましたが、ちょっと妙な感じ。指示通りに小沢トンネル出口へ下りますが、危険という程ではないもののかなり荒れて歩きにくい道でした。


結局分かったことは、このやや不安な下り道を歩かせないように(行政が)回り道を整備したようですが、国土地理院の地図にはまだ以前のままのルートが掲載されているということのようです。小沢トンネル出口に下りてからは20分ほどで小沢のバス停に到着、混雑していましたが、無事飯能に帰れました。