『500マイル』の旅(2) ― 2021年09月02日 13:47

アメリカのフォークソング『500マイル(500 Miles (Away from Home)』について、前回紹介した「世界の民謡・童謡」サイトに、以下の記述があります。
<以下引用>
『500 Miles (Away from Home)』のルーツ・原曲として、カントリーミュージック商業化最初期の立役者フィドリン・ジョン・カーソン(Fiddlin' John Carson/1868–1949) が1924年にリリースした『900 Miles/I'm Nine Hundred Miles Away from Home』の歌詞を一部ご紹介したい
Lord, I'll pawn you my watch
and I'll pawn you chain
Pawn you, my gold diamond ring
That don't pay my little woman's fine
Pawn you my wagon and my team
You can count the days
I'm gone on the train that I left on
You can hear the whistle blow a hundred miles
If that train runs right
I'll be home tomorrow night
Lord, I'm nine hundred miles from my home
(訳)
主よ、俺は時計を捧げる チェーンもダイヤの指輪も
女の罰金の支払いには使わない 荷馬車も馬も捧げる
指折り数えて待っていてくれ 俺は電車で出発した
100マイル先から 汽笛が聞こえるだろう
順調に汽車が行けば 明日の夜には故郷に戻れる
主よ、900マイルも 故郷から離れてるんだ
<引用ここまで>
この原曲もこのサイトに紹介されています。
・https://youtu.be/TL0iGiHQ4xc
ギターでの単調な素朴な弾き語りの中に、遠く離れた故郷を思う心情が溢れているようです。メロディも何となく後年の『500マイル』を思わせるものがあります。この元歌の<900マイル>が<500マイル>になっているわけですが、これは、いくらアメリカでも900マイル(約1万5000キロくらい)が遠すぎるからなのか、繰り返すのが大変だから?なのかはわかりません。そして重要なのはこの中に次の一節があることです。
I'm gone on the train that I left on
You can hear the whistle blow a hundred miles
特に「You can hear the whistle blow a hundred miles」の一節は、まったくそのままの形で『500マイル』に取り入れられていますから、これは原曲の精神がこの一節にあること、そして新しい歌がこの原歌の精神を受け継いでいるということを示しているように思えます。
さらに、実は、他にも同じこの時代に『オールド・ルーベン』、『ルーベン・ブルース』、『Train 45』などと題される、様々な同様の曲が存在するのだそうです。ルーベン(ルーベンウェルズレナード:1860年-1930年)とは実在の土木技師・設計士・機関士で、カナディアンナショナル鉄道の建設にもかかわっているようです。この曲も「世界の民謡・童謡サイト」の中で聞くことができます。そしてその歌詞を見てみると、ここにも
You could hear the whistle blow 100 miles
の一節が出てきます。
Should been in town when Reuben's train went down
You could hear that whistle blow 100 miles
Oh me, oh my you could hear the whistle blow 100 miles
(訳)
ルーベンの汽車が出発したら 街にいるんだ 聞こえるだろう
100マイル先から汽笛の音が おお 聞こえるだろう 100マイル先から汽笛の音が
まさにこのフレーズこそが原点なのです。アメリカの鉄道は19世紀から20世紀初頭にかけてがその建設の全盛期です。まだ自動車での移動が一般化する前、物資や家畜をカウボーイが馬で運んでいた時代。人々は誕生したばかりのこの蒸気機関車が引っ張る長い客車や貨物列車で広大な地域を移動していました。蒸気機関車は機械ですが、なんとなく人間のにおいがします。
まだ牧歌的雰囲気の残る時代ですが原曲の歌詞にある「(こんな遠くに来られた!)順調に汽車が行けば 明日の夜には故郷に戻れるんだ」という感じの純粋な喜びやのどかさは1960年のフォークソングでは消えています。実際には過酷な労働環境や排他的な人々も多い中で街から街へ彷徨う人たちも多かったようです。2番の歌詞では「着替えもなく 一文無しで 故郷に帰れない」という故郷喪失の思いが込められています。
1920~30年代のアメリカ南部を舞台にしたウィリアム・フォークナーの小説『八月の光』は、このブログで何回か触れていますが、ある面から見れば、こうした時代の中を、落ち着ける場所を見つけられず根無し草のように移動していく人びとの物語ともいえます。10数年の放浪の果てに悲劇的な死を遂げるジョー・クリスマス。逃げた恋人を探してアラバマから旅を続ける陽気なリーナ・グローブと彼女に付き添ってあてなき移動を続けるバイロン・バンチ。そして最も軽い根無し草のルーカス・バーチは彼らから逃げるために、走ってくる機関車の貨物車両に飛び乗って物語から消えてしまいます。100年前のアメリカ大陸に響く列車の遠い汽笛が聞こえてきそうです。
(上の写真は蒸気機関車「ルーベン・ウェルズ(Reuben Wells)」(出典:Wikipedia)1930年代ならもっと新しい機関車だったと思います)
色川大吉先生のこと ― 2021年09月12日 17:44
歴史家の色川大吉氏が逝去されました。色川先生のことについてはこのブログの中で五日市憲法に関連して記事を書いています(https://mylongwalk.asablo.jp/blog/2016/11/08/8244461)。古い土蔵の中でむなしく朽ち果てかけていたこの明治初期の市民による憲法草案を発見し、民衆史の中の大きな成果として世に出る活動を行ったのが多摩地域の自由民権運動の研究を進めていた東京経済大学の色川大吉先生でした。
色川先生については、今から10年以上前の2010年12月に「色川先生最後(?)の講演」と題して、以下のような原稿を同窓会誌に書いていました。当時85歳でしたが、まだまだ元気な色川先生の様子が分かります。それから11年、96歳で逝去されたわけです。
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今から45年も前、『日本の歴史』というシリーズが中央公論社から刊行されました。当時、中学生だった私はなんとこの第1巻を購入したのですが、あとが続かず、歴史には関心をもっただけで終わっていました。その10数年後、文庫版として再登場したときに全巻を通勤電車の中で読んだことを思い出します。「小説より面白い」といわれるこの歴史書は今でも最良の日本通史として読まれ続けていますが、この中の第21巻『近代国家の出発』の執筆者が色川大吉先生です。
ただし、私は、東京経済大学教授だった先生に教えを受けたわけでもなく、当時は、中に書かれていた「秩父事件」などにも特別関心を持ったわけではありませんでした。 その後、40歳代後半になって、仕事の関係もあって、自費出版文化賞というイベントの立ち上げに参加したとき、色川先生にはじめてお目にかかりりました。色川先生は明治時代を中心とする近代史の研究者・歴史家ですが、また、1975年に発表した『ある昭和史』で、それまでの歴史記述のなかにまったくなかった「個人」という視点を持ち込んだことで知られていて、自分史の提唱者ということになっています。八王子の自分史活動で色川先生とご縁のある方がいて、この文化賞の創設時から審査委員長になっていただいたのです。
お目にかかるのは年1回程度ですが、その博識と話術、座をまとめる統率力にはいつも感心するばかりで、来年で14回目です。 先生は70歳で大学を引退後、10数年前から山梨県八ヶ岳山麓で著述の日々をおくっていますが、80歳を間近にして書き始めていた「自分史」4部作の最終編『昭和へのレクイエム』(岩波書店)をこのほど出版しました。先日、この本の出版記念もあって講演会が開催されたのですが、先生自身「これが最後の講演だ」と述べられたということで、多くの参加者が集まることになり、私など門外漢も参加をしました。
会場にいると先生がいつものように軽い足取りで駅から上がってきました。10年前から茶髪です! 地元では「茶髪のおじいさん」で通るとのこと。今回の記念講演のタイトルは「昭和から平成へ─世界史の大きな流れのなかで」。「サインをしていて疲れちゃった。あまり話せませんよ」といいながら、現在の山荘でのユニークな一人暮らしをユーモラスに語ったあと、変わりのない話術で、1989年から2009年までの20年間の平成の歴史的事件と世相風俗を元に、時に辛辣、時にあたたかく、「歴史の変換の時代」を語り尽くしました。最後に語った言葉はこういうものでした。「(日本は)資産を有効に生かしていけば、充実した、幸福な生活をおくれる国になります。現在はそのための変化にあわせた成長戦略を決める岐路なのです」 第2部の出版パーティでは、「平成の時代の記録も書くつもりがあるから90歳まではなんとかがんばりたい」と意気軒昂な様子で、大きな拍手をあびました。
色川先生は、現在一人暮らしですが、料理も家事も全部やり、冬は毎日スキーをするというのですから、かなりのスーパーマンです。「耳も目も悪い。ただ、頭だけはまだ大丈夫」とおっしゃっていましたが、身体(特に感覚器官)は老化しますが、頭脳は「うまく使っていれば」衰えないのです。適度な運動と頭脳の活性化──色川先生の例でもわかるように、これが高齢化時代を生き抜く秘訣のようです。
(上の写真はその講演の時のもの。前列中央に色川先生、後列には私もいます)
臨時列車で鎌倉へ ― 2021年09月24日 16:40
9月の中旬、まだ「コロナの緊急事態宣言」は解除されていませんが、ひそかに鎌倉への家族旅行を行いました。上の写真はその旅行中見つけた、鶴岡八幡宮の二ノ鳥居でのマスクをした巨大な狛犬です。昨年以来、そこがどこであれ霊験あらたかな神社・仏閣でも「ウィルス蔓延」という現実の前には信仰よりも科学に頼るしかないことをもの悲しく表現しています。
さて、私の住んでいる場所から鎌倉に向かう方法はいくつかありますが、今回の小旅行は、特定の季節の休日にだけ運行している武蔵野線経由のJR臨時列車<ホリデー快速鎌倉号>に乗車しての楽々旅です。<ホリデー快速鎌倉号>とは、JR武蔵野線の南越谷駅を起点にして、 鎌倉駅までを武蔵野線・東海道本線・横須賀線を次々に経由して、しかもその間乗客は座席に腰かけたままでよいという便利な臨時列車です。以前は大宮駅からの発着だったように思っていましたが、記録では、当初は東北本線の小山始発だったとのことで、2011年から現在のように南越谷駅発着に変更されています。
<鎌倉号>の運行をたどると、 まず武蔵野線の南越谷駅を出発、 南浦和駅、武蔵浦和駅、北朝霞駅と、他の路線との乗換駅で停車し(北朝霞駅では私たちが乗車)さらに東所沢駅、新秋津駅 、西国分寺駅、府中本町駅(ここで他の家族が乗車)と停車して、ここから武蔵野南線という一般には使わない路線を通って、 新鶴見信号場、 鶴見駅を長いトンネルをくぐりながら通過して、東海道本線の横浜駅に停車し、ここから横須賀線に入って戸塚駅、大船駅そして北鎌倉駅、鎌倉駅と停車していきます。
このように、いくつかの線をまたぐこのような直通の<臨時観光電車>が運行可能になったのは、おそらく貨物列車の本数が減少して線路に余裕ができたのと運行システムのネットワーク化が完成して各列車間の相互運用が柔軟にできるようになったためでしょう。
おもに土曜日・休日のこうした行楽地向けの臨時列車の運転は全国で行われているのですが、主に首都圏近郊で運行されるものを「ホリデー快速」という統一名称で呼んでいるようです。調べてみると、古くは旧国鉄時代からあったとのこと。
ホリデー快速と称する列車は、以下のようにたくさんありましたが、現在運行中の列車は、「ホリデー快速奥多摩」と「ホリデー快速鎌倉」だけのようです。考えてみれば「ホリデー快速奥多摩」は、私も奥多摩に行くときに何回か乗車しています。
過去の列車となると、以下のようになります(JR東日本管轄のみ)。
このなかの「しもうさ号」「むさしの号」は「ホリデー快速」でなく、通年運行ですから臨時列車でもありません。「むさしの号」は大宮に行く場合や八王子方面から帰る場合に利用します。「しもうさ号」といういうのは千葉方面から武蔵野線を経由して途中から大宮に直通します。武蔵浦和駅では武蔵野線と同じホームに停車する同じ型式の車両ですから、間違えやすく、私は大宮から埼京線で武蔵浦和駅に戻ったのにうっかりこの「しもうさ号」に乗ってまた大宮に戻ってしまうというミスを2回ほどやっています。
ホリデー仙山(仙台―山形)
ホリデー快速ピクニック(千葉―新宿―河口湖)
ホリデー快速河口湖
ホリデー快速富士山(富士山の世界遺産登録を受け列車名を「河口湖」から変更)
ホリデー快速みたけ
ホリデー快速あかぎ鎌倉
ホリデー快速栃木路
ホリデー快速内房
ホリデー快速ビュー鎌倉、ホリデー快速ビュー湘南(これは湘南新宿ラインの前身とのこと)
ホリデー快速日光 ( 現在は東武鉄道直通特急「日光」「スペーシア日光」)
ホリデー快速おおみや
ホリデー快速とりで(取手・大宮間。現在は武蔵野線と大宮駅を結ぶ「しもうさ号」が毎日運転されている。「むさし野号」も同様か?)
ホリデー快速軽井沢号(上野駅から高崎線、信越本線(当時)経由で中軽井沢駅まで)ホリデー快速バーディ号(外房のゴルフ客をターゲットに設定した列車)
ホリデー快速にしさがみ路
ホリデー快速ビューやまなし
ホリデー快速あたみ号 (青梅駅から青梅線、南武線、武蔵野線、東海道線経由で熱海駅まで)
出羽三山の旅(1) ― 2021年09月29日 17:55
山寺
9月の終わりにひとりで山形県の月山、羽黒山をまわり最後に象潟を見てきました。東日本最大の霊場である出羽三山を歩くことはここ数年来の計画でしたが、このブログの記事でも書きましたように、地元の山の会の「鳥海山・月山登山計画」に便乗して羽黒山を訪問することが2年続けて中止となり、どうも来年も可能性が低いので、元気なうちに一人で行こうと決めた次第です。
一人なので当然、厳しい鳥海山には行きません。その代わりに、この鳥海山の麓の景勝地である象潟を歩くことにして、全部で3泊4日の旅になりました。昨年も大分県・国東半島の六郷満山登山ツアーに3泊4日で単独参加していますが、これは集団行動なので、目的地も日程もツアーまかせなので単独行とは違います。こんな気楽なやや長期の一人旅というのは、ここ20年くらいで初めてというくらいの試みです。
結果は「楽しかった」のひと言です。天気予想で好天が続くのを確認して出発の3日前に最終実施を決めましたから(ここが一人旅の良さ)、晴天しかも秋の心地良い風の吹く中を十分に活動できましたし、登山でも前後に気を遣う必要もなく、心配な箇所ではゆっくり行動でき、なにより計画に無くてもちょっと行きたい場所にいけるという満足感は他にありません(ただし、危険な箇所はありませんでしたが、高山の登山はグループの方が安心で楽しいという側面も実感しました)。出発前、今回の旅でもっとも楽しみにしていたのは「羽黒山古道」です。調べたところでは2つの道が見つかりました。
最初の日は、仙台からJR仙山線で山形方面に向かい、途中にある山寺に立ち寄りました。仙山線は仙台駅から広瀬川に沿って上流に登っていき、太平洋と日本海の分水嶺となっている奥羽山地を面白山という変わった名前の山をトンネルで通り抜けて走っていきますが、山形県に入り、庄内平野に下る直前の山塊に位置するのが山寺です。
山寺(やまでら)は通称で、正式には宝珠山立石寺という天台宗のお寺ですが、文字通り400メートル以上の岩山の麓から山頂近くまでが寺域となっています。山門をくぐり、そそり立つ岩壁を削って造り上げた石の階段を一歩ずつ歩き出すと、いたるところに信仰と修行の足跡を見出すことができます。この山が仏教以前かの古くからの修験の地であったことが実感できます(下の写真は岩に現れたとされる阿弥陀入来)。
寺内で最古の建物といわれる納経堂は歩き通した最後の山頂近くにまるで空中に浮かぶように建てられています。この赤い小さな納経堂が見える場所にある楓だけが見事に紅葉しているのは偶然ではないと思います(上の写真)。その上にあるのが五大堂で広い道場になっていますが今は観光用の展望台です。ここまで歩いてほぼ30分くらいのものです。
この寺は俳人・松尾芭蕉が『奥の細道』で訪れ、誰でも知っている「閑かさや岩にしみいる蝉の声」の句を残していることでも知られています。多分、そのために、俳句をやる人もやらない人も一度は訪問してみたくなる一大観光地になっているわけです。JR山寺駅のホームに降り立つと、目の前にこの山とお寺の全容が視界一杯に広がります。交通は不便なのですが、来て後悔はしない場所です。駅前のお蕎麦屋さんで、蕎麦定食を食べました。この4日間の中で唯一の外食でした。
出羽三山の旅(2) ― 2021年09月30日 17:06
月山
2日目の目的は月山登山です。前日チェックインしていた鶴岡駅前のAPAホテルを午前5時半に出発、すぐ近くのバスターミナルに移動します。ここから出る午前6時ちょうど発の「月山八合目」行の庄内交通の定期バスに乗るためです。事前に調べてはいますが、こういうことが個人旅の未知数なところで、このバスに無事に乗れるまではなんだか心配です。というのは、午前中の月山八号目行のバスはこれ1本で、しかもこの日が今季の最終運行日になるからです。ところが、やってきたバスは「羽黒山頂行」の標識になっていてあわてましたが、分かったことは羽黒山頂までが通常運行で、そこからの「月山行」は夏季のみの特別便(形式的には別運行)だということでした。ちなみに前の日のバスとJRもそうでしたが、このバスもSUICAなどのカードは使えず現金払い。山形はまだ昭和のようです。
最終運行日のせいなのかバスは満員で、途中からは立っている人もいました。鶴岡市内を抜け羽黒山頂まで約1時間かかり、ひと休みのあと、また1時間、くねくねと狭く曲がりくねった月山道路を、途中何台かの車と譲り合いながら、登ります。月山は俗に「木原三里、草原三里、石原三里」というそうで、麓の豊かな森林、中腹の広々とした草原、山頂近くの岩稜地帯と植生がはっきり分かれています。バスで登る中腹の「木原」はブナやシラカバなどの深く色濃いすばらしい自然林に覆われ、豊かな自然が残る山であることがわかります。
午前8時過ぎ、月山八号目の駐車場に到着しました。広い駐車場ですが登山客の車がかなり停車しています。大型バスもあり、団体客もいる模様。天候の良い日曜日、実質的なシーズン最終日ですが、この登山者数が普通なのかはよくわかりません。山形県内や東北各県のナンバーが多いようですが、なかには関西、首都圏からの車もあります。
山頂までの歩行は約3時間と聞いていましたので8時半にさっそく出発します。午後2時ころまでには戻る計画です。8合目の標高は1400メートル程ですが。冬の降雪量が多いためなのかすでに森林限界で、大小の池塘が点在する湿地帯になっています。夏には高山植物が咲き誇り。多くの信仰の山と同様に極楽の地をあらわす「弥陀ヶ原」の名がつけられています。弥陀ヶ原に設けられた木道を20分ほどで過ぎると岩石帯があらわれ、最初の登りが無量坂さらに一の岳、二の岳とまろやかにそびえる小山を超えてゆっくり歩いていきます。やはり登山者は多く、抜いたり抜かれたりのおなじみの光景が繰り広げられます。

9合目付近にはまた湿地帯がひろがり、亡くなった霊を祭る祭祀施設の残る仏生小屋の前には仏生池があります。小屋では、この日は意外に暑かったのでアイスクリームを売っていました。小屋には宗教的な意味合いはほとんどなく、観光施設の趣しか感じられません。ここから頂上への途中に、熊野から来た役行者(えんのぎょうじゃ)が恐れをなしたという“伝説”の「行者返し」の岩場がありますが、実際にはたいしたことはありません。これは熊野山に対抗した出羽山の修験行者の自負心の現れという説が妥当のようです(岩鼻通明著『出羽三山』(岩波新書)より)。
頂上には月山神社の奥宮があるのですが、すでに季節が終わったせいか、神社に至る石段は通行禁止になっていました。そのためほとんどの登山者はすぐ隣にある三角点の「月山表示板」の前で記念撮影をしていますが、驚くほどの人出です=写真上=。本来の三山参りであればここからさらに頂上を越えて反対側の斜面を下り湯殿山に至るわけですが、今回はここで引き返すことにしました。
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