栃木・太平山麓の東山道2021年12月08日 09:42


栃木県の太平山(おおひらさん)に行き、歴史の古い神社として名高い太平山神社や修験の地である晃石(てるいし)神社を廻るハイキングコースを歩いてきました。晃石神社からはさらに足を延ばして清水寺(せいすいじ)というイチョウやカエデが色鮮やかなお寺を経て、最後に大中寺というこれもまた歴史のあるお寺に向かいました。その途中、車の通る舗装道路と並行するような登山道がありました。ふと目をやるとその入口に「東山道」と書かれた小さな木製の表示板があります。


東山道とは、律令制時代に都と地方を結ぶ七官道として整備された街道のことです。栃木県のこの場所であれば、京都と東北地方を結ぶ幹線道路で、経路は上野(群馬県)の足利と福島の白川を結ぶ道で北関東の平野と丘陵地の間を縫っていると思われます (埼玉県には上野から分岐して武蔵府中までをつなぐ東山道武蔵道が何カ所かで発掘されています)。


静かな林間の道ですが、途中にはキャンプ施設などもあり、ハイキングの一環として利用されているようです。途中には案内板が建っていて、この道がかつて東山道あるいは奥州街道と呼ばれて、江戸時代中期まで盛んに使われた道であったこと、八幡太郎義家や行基和尚などもここを通ったことなどが書かれています。現在は「関東ふれあいの道」として整備されているようです。表示によれば、この古道はわれわれが歩いてきた道をさらにさかのぼったところにある村檜(むらひ)神社まで10キロ以上続いているようです。


この村檜神社は地元・観光協会の作成した地図にも徒歩コースに入っていませんでした。たぶん、ほとんどの人が行きませんが、調べてみると、創建が御宇大化二年(646年)と伝えられ、今でも下野國三之宮です。現在の社殿は室町後期の建物(三間社春日造屋根は檜皮葦)は国の重要文化財の指定を受けているという歴史ある神社です。


こんな場所なら古代の街道が通っているのは当然で、道は足利に向かってさらにつながっているかもしれません。歩く機会があればいいと思います。

隅田川に架かる橋2021年12月16日 19:05


昨年の末、浅草に行ったときのこと。隅田川に架かる吾妻橋から堤防下に降りると川面に沿って舗装された清潔そうな散歩道が続いているのに気がつきました。いわゆる隅田川テラスで、こうした遊歩道が隅田川の川べりに造られているのは前から知っていたのですが、どうも今年のオリンピックに合わせて整備・拡充が行われていたようです。時間が少しありましたので、往復1時間ほど両国橋方面まで歩いてみましたが、なかなか面白い体験でした。


そこでこの隅田川テラスを歩く体験を「散歩コース」にできないかということで、連続歩行が可能そうな千住大橋から開始して最終地を勝鬨橋としてテスト歩きをしてみようと思い立ち、少し前になりますが、友人と二人で実行してみました。


その結果、実際に歩き始めると、一部ではありますが、護岸工事などでテラス部分を通過できない箇所があったり、テラスが橋の下を廻りこんでいないなど、なかなか地図通りには歩けないこともわかりました。それでも、午前中の2時間強の時間で全体の3分の1くらいの距離に当たる吾妻橋までは行けました。なんとかなりそうです。この日は清州橋付近で帰りましたが、2回に分ければ可能ということで実現ができそうです。


隅田川テラス歩きとはいえ、実際には堤防の上も歩き、そして見るものはといえば橋ということになります。つまり実際には「隅田川橋巡り」ということです。そして実はこの橋が美しく、眺めているだけで楽しい経験です。大都市の重要な河川に架かる橋ですから実用性がメインになるのは当然として、架けられている橋は、流れる河とその両岸の市街に広がる歴史と文化にふさわしいだけの品格を持った建築物になっていることが、その興味深さと美しさの理由であるように思われます。


千住大橋から東京湾河口までの間の隅田川に架かる橋は以下の18橋になります。カッコ内は完成と立て直しの年代です。このうち、3橋が国指定の重要文化財に、5橋が東京都の歴史的建築物に指定されています。上の写真は、もっとも美しいと定評のある清洲橋です。


千住大橋  (文禄3年 昭和2年)
千住潮入大橋(平成18年)
水神大橋  (平成元年)
白鬚橋  ☆(大正3年5月 昭和6年8月8日)
桜橋    (昭和60年4月11日)
言問橋  ☆(昭和3年2月10日) 吾妻橋  ☆(安永3年10月17日 昭和6年6月)
駒形橋  ☆(昭和2年6月25日)
厩橋   ☆(明治7年10月6日 昭和4年9月)
蔵前橋  ☆(昭和2年11月)
両国橋  ☆(万治2年 寛文元年 昭和7年11月)
新大橋   (元禄6年12月7日 昭和52年3月27日)
清洲橋  ★(昭和3年3月)
隅田川大橋 (昭和54年10月)
永代橋  ★(元禄11年8月 大正15年12月20日)
中央大橋  (平成5年8月26日)
佃大橋   (昭和39年8月27日)
勝鬨橋  ★(昭和15年6月14日)


★は国指定重要文化財 ☆東京都歴史的建築物

「宝山」から「金剛山」へ2021年12月22日 13:41


中央線(中央本線)は東京駅から名古屋駅まで結ばれている長距離路線ですが、実際にはいくつかの区間ごとに分かれていて、沿線の山々に向かう者たちにとっての中央線といえば快速電車の終着駅、高尾駅から塩尻方面に向けて乗る普通列車のことです。その中央線で相模湖駅の次が藤野駅です。藤野町は今は神奈川県相模原市に属しますが、2007年までは独立した藤野町で、今でもその地域性を保っている場所でもあります。この駅に降りるのはあまりないのですが、駅前には「芸術の街」との表示があります。この町は「ふるさと芸術村構想』という街おこし事業を行っているそうです。そういえば中央線や中央高速からこの地域の山腹の森の中に見える「緑のラブレター」という驚きのオブジェがありました。


その町がすっかり冬の気配の12月中旬、ここから歩いて行ける「日連アルプス」に登ってきました。日連は「ひずれ」と読みます。相模川の右岸の狭い平地から聳え立ついくつかの峰々を総称してアルプスと名付けているようですが、地元の街の守り神社のあるのはその中の金剛山になります。


駅から交通量の多い20号線(甲州街道)を少し歩くと相模川に出ます。川とはいえ、ここはすでに相模湖の一部と化していて、細長い湖といった感じになっています。釣り客のための宿や貸ボートの看板も目立ちます。この付近の集落の信仰の中心になっているのはコースの終盤にある金剛山ですが登山道はまず日連山に向かって登っていきます。途中1か所に両手を使って這い上がる急な崖がありますが、それ以外は特に危険な個所もなく進めます。最初に出てくる小さなピークがなんと宝山、そこを過ぎると日連山ですが、そこにあるのが上の写真のような<宝山 金剛山>という豪華な標識。「金剛山」は大阪の葛城山塊で役行者が修行したという有名な山をはじめ全国にいくつかあると思います。宝山も他にあるとは思いますが、この小さな山地に雄大な名称をつけ、さらに日連アルプスと名乗った藤野の人たちの気持に感動します。


このあと、2時間ほどの歩行のすえ、最後の金剛山に到着。410メートルの低山ですが、頂上には火之迦具土の神(ほのかぐつちのかみ)という神様を祭神として祀っている金剛山神社があり、2015年に造られたという立派な社殿が置かれています。すぐ前に置かれた説明版によると、江戸時代(天保年間)から信仰が深まり、特に明治30年(1879年)に発生した杉集落の大火を契機として防火の神様としての信仰が高まり、毎年、この大火の起こった4月11日には集落の代表者が神社に参拝し地域の安息を記念しているということです。



参道は頂上から急な坂道を下りたところにあります(上は参道入口)。途中に丁目石が置かれているようですが文字はよく見えません。また、かなり急で危ない感じもしますので下山の場合は注意が必要です。神々を守っていくのは大変なことです。

一足先に七福神2021年12月30日 18:35


2022年は、年明け早々の1月7日と9日に立て続けに「川越七福神」を巡るという、縁起が良いのか悪いのかわからないスタートを切ります。「七福神」は江戸時代に生まれた民俗行事で、いわゆる「家内安全・商売繁盛」を願うわけですが、それも、仏教から道教、民間信仰までおよそ宗教的な雰囲気のある信仰対象すべてに、いい意味でいえば分け隔てなく(別の角度でいえば見境なく)祈りをささげ、なにがしかの縁を得て、あわよくば目的を達成しようという超現世利益追究のための行動です。まぁ江戸の庶民の事ですから、信仰は半分で、多分に遊興的な目的も含まれた一種の気晴らしというものだったのかもしれません。七福神巡りは、現在まで「町おこし」の意味を込めてかなり広範な地域で開催されていますが、「川越七福神巡り」は埼玉県の中でもっとも歴史があります。



今回、2つとも私が主催者なのですが、10年近く前にも「まち歩き」で企画して、その時に2回ほど廻っていますから場所はほとんどわかるという自信はあるのですが、川越市内中心部ですから、その間に、地理も街の景観もかなり変わっているかもしれません。途中でまごつくのも嫌ですので、暮れの30日、ここ数日の中で一番暖かい日になったのを期に、下見にでかけました。


結果として、最初の妙善寺だけ少し迷いましたが、あとはごくスムーズに移動できました。気が付くと、街のあちこちに七福神を知らせる案内標識や色鮮やかなピンクののぼり旗が飾られていて、以前に比べ、格段に探索や移動がしやすくなったような気がします。また各寺院の正面にもかなり大きく目立つ同じデザインに統一された七福神の案内パネルが飾られていました。七福神めぐりを観光のひとつの資源として活用しだしたようです。そういえば、すべての場所に、水琴窟(すいきんくつ)が造られていました。これも以前はなかったような気がします。


ところで、最初の妙善寺から次の天然寺に向かうときに、仙波氷川神社を抜けていったのですが、境内に小さな塚があり、頂上に石灯籠が建っていました。灯籠は幕末の建立のようですが、塚自体は古墳(円墳)とのこと。周辺は仙波古墳群というらしいです。武蔵野台地の先端にはほとんど古墳がありますが、やはり、すぐ崖下が、現在は轟音とどろく国道16号線とはいえ、かつては海や沼沢地さらに河川でしょう。古墳造営地はさぞ目立つ場所だったと思われます。とすれば、わざわざこの塚の上に置かれた神社の石灯籠は崖下の川(新河岸川)を行き来する船のための灯台だったのではないかと推測しますが、それにしては少し小さすぎるか?


廻った順番は、以下のとおり。
①妙善寺(毘沙門天)
②天然寺(寿老人)
③喜多院(大黒天)
④成田山(恵比寿天)
⑤蓮謦寺(福禄寿)
⑥見立寺(布袋尊)
⑦妙昌寺(弁財天)

(上の写真は見立寺の布袋様石像。下の写真は成田山の恵比寿天)