仙波古墳群の父塚と母塚2022年01月10日 14:12


前回の記事で述べたように、1月の7日と9日に連続して川越の七福神巡りをしました。7日は博物館友の会の「まち歩きクラブ」のグループ、9日は地元・朝霞の山の会のメンバーと別々ですが、コースはほとんど同じでした。ただし、9日は穏やかな陽気ということもあって7日に行けなかった2つの古墳まで足を伸ばしてみました。といっても、仙波古墳群のなかでも、特にこの日訪れた古墳は(7日にも回った)仙波氷川神社古墳からごくごく近いですから、七福神に行かれる方はぜひ訪れてみることをお勧めします。


最初に着いたのが浅間神社となっている古墳で、仙波氷川神社古墳から徒歩数分の距離です。2つ目の愛宕神社古墳は国道16号線道路の轟音を歩道橋で越えていきますが、これもまた数分の距離です。仙波古墳群はすべて武蔵野台地が入間川(荒川)低地に面する崖線上にあるようですが、この3つの古墳はほぼ同じ高さの円墳で、作られた時代も近く(6世紀)、当時の豪族の集団墳墓の趣があります。



浅間神社古墳は、頂上付近をかなり削って、立派な社殿が造られています。その名からもわかるように、古墳がそのまま富士山信仰のシンボル・富士塚になっているという、富士塚の一般的なパターンを踏襲しています。社殿の裏には富士溶岩で造られた3メートルほどの小山がそびえ、さらにその裏には直径1メートル半、深さも1メートル以上はありそうな井戸のような形態の「噴火口」が造られています(上)。賽銭を投げ入れ安産を祈ったなどの説明がされていますが、富士信仰の強さを知ることができます。


もうひとつの愛宕神社古墳も同じように頂上部分を削って社殿が造られています。こちらははっきりした富士塚の形はないようです。この愛宕神社古墳は付近では低地に一番突き出た高台にあります。崖のすぐ下は今は公園になっていますが、新河岸川の仙波河岸で江戸との頻繁な舟運が行われていたこともあり、火除けや航海安全の意味を込めて愛宕神社が置かれたのでしょうか。崖の下には湧水も多く、豊かな低湿地が広がっているのですが、実際には、台地の上にある川越の市街や川越城は何回かの大火に襲われています。


地元では、この2つの古墳(塚)がかなりはっきりした目印のようで、浅間神社古墳を父塚、愛宕神社古墳を父塚といって大事にしてきたといわれています。

城峯山と天狗岩と町営バス2022年01月17日 18:44


城峯山は、奥秩父・皆野町から神川町に抜ける街道の途中にあります。実は、昨年の同じ時期(つまりもっとも寒い頃)にも訪れた風破山や秩父華厳の滝のさらに先にあります。真冬にこういうところに来てしまうのはなぜでしょうか。ただし、1000メートルを超える標高ですが雪はありませんでした。関東平野の雪は南岸低気圧の影響で意外に南部に降ることが多く、秩父地域は雪国ではないのです。したがって、冬でも登山できる安全な山が多いということはいえます。


城峯山は山頂直下に立派な社殿を持つ城峰神社本宮があり、古い歴史と信仰で知られています。表参道には立派な自動車道路もあります。しかし、われわれが登った1月13日にはまったく人の気配がありませんでした。神社境内ばかりでなく、途中に立ち寄った門平(かどだいら)集落にも、登山道にも、歩いている人の姿は見えませんでした。


城峯山の山頂には一等三角点があり、巨大な電波塔には展望台も造られています。そこからは、比企丘陵をはじめ秩父山塊、両神山など奥秩父の山にはじまり、浅間山など上州の山々、日光連山までが一望でき、天候がよければ南アルプスも見えるようです。純粋にこの展望台を目当てに来る人も多いことでしょう。また、神社のすぐ下はキャンプ場になっていますから(多分)夏には利用者もいるのだと思いますが、なんだかこの日の印象は寂しい山と神社でした。


皆野駅から乗った町営バスも、乗客はわれわれの他に途中にある高校までの通学生が5名ほどいるだけで、あとはすべての停留所に客はおらず、バスはけっこう急カーブの多い坂道を爆走していきました。おまけに運転手(公務員?)の態度ははなはだ悪く(カードは使えないので)現金払いのため時間がかかると「さっさと降りろ! 忙しいんだ」と言い放つありさま。帰りも客の状況はほぼ同じで過疎地域の荒廃をみたような気がしました。


山頂から神社に下りる途中に天狗岩と書かれた標識が目に留まりました。山腹の東側に槍のように突き出た岩稜です。ここにもシメ縄があり、頂上には祠があります。風化した岩石にしがみ付くように逞しく伸びた木の根(ブナ?)が、岩と重なり合い、この天狗岩全体がひとつの生命体のようになっているようで、これも一種の巨石信仰の対象なのでしょう。地味な山のなかで電波塔の展望台とこの天狗岩がハイライトといえそうです。

三浦半島の森と川2022年01月27日 18:07


1月の下旬、オミクロン株の蔓延する中ですが、地元の山の会の有志で、三浦半島を散策しました。三浦半島にはいろいろな観光地がありますが、その中央部は標高200~300メートルの低いながらも複雑な谷と尾根が入り組んだ山岳風景を形成しているようで俗に「三浦アルプス」と呼ばれています。


今回は、JR横須賀線・東逗子駅から半島北部の山地を横断する形で横須賀方面に抜けるコースをとりました。東京湾に突き出し、関東地方の最南部で自然豊かな三浦半島の中を歩けるのは楽しみです。以下、山の会のブログに投稿した記事をもとに感想を述べていきます。


降り立った東逗子駅は風光明媚な静かな町という雰囲気で駅前の案内版にもう「自然歩道」の表示があり、目の前の小学校の裏から本格的な登山道が始まるというアプローチの良さです。三浦半島は隆起を繰り返して出来たとされ、登山道も踏み固められた固い泥岩層で、赤土の霜柱を踏んで歩く感じです。この日は気温は低いものの風はなく寒さはありません。始めのうち、周囲の山林はスギの植林ですが、住宅地を抜ける頃には光輝く緑の葉が目立つ常緑広葉樹が混じってきます。林の縁周部にはこれもつややかなアオキが茂り赤や白の実をつけています。鳥類の種類が豊かなことで知られる場所ですから、これも小鳥が運んだのものでしょう。やがて、自然樹林帯になりますが、カシやシイなどの広葉常緑樹が優勢なようで、北関東・秩父地域でおなじみの一面が落ち葉に覆われたブナ科の落葉広葉樹の林とは異なる景観です。


 賑やかな子供の声―二子山


途中、馬頭観音に立ち寄ったりした後、午前10時過ぎには最初の目的地である二子山(208m)に到着。近づくと幼い子供たちの賑やかな声が聞こえてきました。幼稚園の遠足でしょうか、頂上にあるすり鉢型の遊び場で保護者や先生たちも一緒になってドッジボールをしていました。声をあげて走り回る子供たちは本当に楽しそうです。住宅地からも近く、安全そうなこの山は格好の遊び場所に思えます。展望台もつくられていてそこに登ると北西の方向には横須賀から横浜の海や街、遠くには東京都心やスカイツリー、意外に近くに房総半島・木更津方面が見えます。さらに巨大な電波塔や無線アンテナ設備もあり、いかにも半島の中心にあるという感じです。


ここからはかなり急な崖を下って一気に森戸川の沢筋に向かいます。逗子湾に流れ込む森戸川は半島中央部のこの二子山塊に始まるようで、冬でもそれなりの水量がある沢をくだってしばらくすると源流部である南沢に到達しました。ここから乳頭山までは尾根道もあるようなのですが、われわれはこの流れに沿ってさらに源流探検ということになりました。ただ、谷は思ったより深く、日差しの届かない谷底では水面の一部が凍り付いています。道はその流れのすぐ上にありますが、狭くやや歩きにくい箇所もあり、さらにところどころの道が崩落していて、ロープを使いながら川に降りる“冒険”を楽しむ場所があったり、かなりの大木が倒れていたりもしますので、過日の台風などで相当の被害があったと思われます。


 森戸川の最上流部は深山の雰囲気


最終的な源流部と思われる方向に進んでいくと、川は2方向に分かれ、さらに遡ると幅の広い岩の間を水が流れる浅い瀬になり、両側に崖が迫るという、まるで深い山の中に来たような感じです。




そこから急崖を伝い上って一気に登山道のある稜線に到達、すぐ目の前の樹林の間に半島を縦断している高速道路が見えます。12時ころ、金属の階段を登って鉄塔の立つ乳頭山(202m)につきました。矢落山(やおちやま)が正式名称のようです。ここはさらに眺めがよく、横須賀、横浜の海岸からさらに関東方面の山々までが一望できます。


 三浦半島には海軍要塞の跡も


昼食後、尾根沿いに下山ですが、ここには二子山方面ではあまり見なかった照葉樹林の代表といわれるツバキの赤い花が目立ちます。また、ところどころに「海軍要塞」と書かれた石柱が目につきました。三浦半島は東京湾の入口であるとともに、軍港・横須賀を中心にした東京湾要塞地帯の中心だったので、明治維新から太平洋戦争末期まで日本陸海軍の大規模な要塞が設置された場所であることを思い出しました。持っていた観光地図にも「砲台道」などの記載があります。


2つのトンネルで高速道路をくぐると、また低い丘陵(塚山)があり、江戸時代に日本に漂着して活躍した三浦按針(ウィリアム・アダムス)の慰霊塔(安針塚)が建てられています。最後は、急傾斜の街を通り、京急・按針塚駅に出ました。