六郷満山トレッキング(2) ― 2020年12月10日 13:16
大分に到着後、まずは宇佐神宮にお参りしました。全国にある八幡神社の総社であるこの地の宇佐神宮は六郷満山全寺院の中心でもあるからです。以前、お参りしたことがあるのですが、あらためてこの神社の壮大な規模を再確認し、この地が北九州の古代文化の中に占めている存在の大きさを感じました。二千数百年前、日本の弥生文化が生まれ、その後多くの古代国家が繁栄した九州北部は、海と山に囲まれた豊穣の地でありながら、意外に狭い地域でもあります。さらなる繁栄と(おそらく)朝鮮半島からの政治的・軍事的脅威から逃れるために日本列島にわたり東へと移動していった人々の通り道―そして現在の宇佐は静かな港町と山里に変わっています。
岩屋の中の祠や石仏様に会う
前回の記事で写真を示した熊野摩崖仏はちょうど国東半島の付け根にあります。伝説では養老2年(718年)の創建、鎌倉時代初期には記録があり、平安時代の成立は確実のようです。名前の通り和歌山(紀州)の熊野神社から勧請された熊野神社がありますので、この地の信仰自体は大和地方経由ということになります。古くからあった山岳信仰(修験道)がこの新しい思想・仏教と結びついて生まれた神仏習合信仰の地が「六郷満山」なのでしょう。風雨に摩滅して優しい表情になった不動明王とその隣の大日如来像。鬼が築いたといわれる大小不ぞろいの石段を苦労して登ってようやく見ることができます。石仏の上は巨岩が屋根のように張り出した岩屋で、以降、この地ではこうした岩屋を次々に訪れることになります。
近くの真木大堂は六郷満山で最大だった真城山伝乗寺の跡に建っています。かつての広大な寺院は焼失していますが、残った九体の仏像はどれもすばらしいものです。ただ、この地では、防火建築の中に収められた国指定の重要文化財(戦前の国宝)よりも山中の崖に刻まれた石仏の方が、いかにも風景の中にうまくおさまっていると感じるのは勝手な考えでしょうか。
猪群山のストーンサークル
2日目に訪れたのが猪群山(いのむれまや)。いかにも猪が潜んでいそうな名前ですが、これは伝説からきた山名とか。ただ国東半島全体ではイノシシやシカは非常に多く、ほとんどの畑の周りに害獣除けのかなり丈夫な防護ネットが張り巡らされていました。山々は裾野から中腹までは古い石垣と畑の跡が残された里山なのですが、山頂に近づくにつれなかなか油断のできない岩山に変貌します。この山もそうです。
さらにこの山で興味を持っていたのは、山頂部にある「ストーンサークル」とよばれる古代祭祀跡です。上の写真のように、巨大な石柱(陰陽石)を中心にしてかなり大きな岩が円を描くように並んだ、いわゆる環状列石です。イギリスにある世界遺産のように巨大なものではありませんが、なんらかの宗教施設であることは間違いなさそうです。かつて作家の松本清張氏が宇佐古代国家説のひとつの証左として紹介したことで有名になりました。果たして古代人が人工的に作り上げたのかということになるとやや疑問が残りますが、近年まで女人禁制であったこと、近くの宇佐市にも同様の巨石遺跡が残るなど、どれも歴史のロマンです。
この山には近年まで簡単に登る道路がなく、当時70歳代の松本清張先生は村の青年団の担ぐ櫓に乗って上にあがったそうです。私たちもその旧道を降りてみましたが、確かに足腰の弱い人には無理なようです。
岩屋の中の祠や石仏様に会う
前回の記事で写真を示した熊野摩崖仏はちょうど国東半島の付け根にあります。伝説では養老2年(718年)の創建、鎌倉時代初期には記録があり、平安時代の成立は確実のようです。名前の通り和歌山(紀州)の熊野神社から勧請された熊野神社がありますので、この地の信仰自体は大和地方経由ということになります。古くからあった山岳信仰(修験道)がこの新しい思想・仏教と結びついて生まれた神仏習合信仰の地が「六郷満山」なのでしょう。風雨に摩滅して優しい表情になった不動明王とその隣の大日如来像。鬼が築いたといわれる大小不ぞろいの石段を苦労して登ってようやく見ることができます。石仏の上は巨岩が屋根のように張り出した岩屋で、以降、この地ではこうした岩屋を次々に訪れることになります。
近くの真木大堂は六郷満山で最大だった真城山伝乗寺の跡に建っています。かつての広大な寺院は焼失していますが、残った九体の仏像はどれもすばらしいものです。ただ、この地では、防火建築の中に収められた国指定の重要文化財(戦前の国宝)よりも山中の崖に刻まれた石仏の方が、いかにも風景の中にうまくおさまっていると感じるのは勝手な考えでしょうか。
猪群山のストーンサークル
2日目に訪れたのが猪群山(いのむれまや)。いかにも猪が潜んでいそうな名前ですが、これは伝説からきた山名とか。ただ国東半島全体ではイノシシやシカは非常に多く、ほとんどの畑の周りに害獣除けのかなり丈夫な防護ネットが張り巡らされていました。山々は裾野から中腹までは古い石垣と畑の跡が残された里山なのですが、山頂に近づくにつれなかなか油断のできない岩山に変貌します。この山もそうです。
さらにこの山で興味を持っていたのは、山頂部にある「ストーンサークル」とよばれる古代祭祀跡です。上の写真のように、巨大な石柱(陰陽石)を中心にしてかなり大きな岩が円を描くように並んだ、いわゆる環状列石です。イギリスにある世界遺産のように巨大なものではありませんが、なんらかの宗教施設であることは間違いなさそうです。かつて作家の松本清張氏が宇佐古代国家説のひとつの証左として紹介したことで有名になりました。果たして古代人が人工的に作り上げたのかということになるとやや疑問が残りますが、近年まで女人禁制であったこと、近くの宇佐市にも同様の巨石遺跡が残るなど、どれも歴史のロマンです。
この山には近年まで簡単に登る道路がなく、当時70歳代の松本清張先生は村の青年団の担ぐ櫓に乗って上にあがったそうです。私たちもその旧道を降りてみましたが、確かに足腰の弱い人には無理なようです。

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