六郷満山トレッキング(1)2020年12月09日 09:33


30代半ばの頃ですからもう40年近く前のこと、仕事で大分県に行くことがあり、その帰りに、部署は違いますが当時の職場の同僚から「大分市内にも磨崖仏があるようだよ」といわれ、二人で見学に向かいました。その頃もこうした文化財に関心のあったもので、同じ好奇心を持っていることを知ったその同僚が誘ってくれたのでしょう(残念なことに彼は7~8年ほど前に病気で他界してしまいました。私より年下でした)。大分駅から路線バスで30分くらい行くとすでにかなりの山村になります。低い岩山が続く線路わきの目立たない場所にいくつかの洞窟らしきものがありました。そのひとつに入ると、薄暗い岩屋の中に人の背丈ほどの仏像(盧舎那仏だと思います)の浮き彫りが鮮やかに目に飛び込んできました。洞窟内に明かりがあったのか、差し込む日の光だったのか、石仏は驚くほどくっきりと見え、背筋が寒くなるような感動がありました。私の石仏との出会いです。

関東地方にも栃木県の大谷観音など洞窟内の石仏=いわゆる磨崖仏はありますが、本場は西国、それも九州・大分県です。臼杵大仏がその規模と数において有名ですが、その東に位置し周防灘に面した国東(くにさき)半島には、日本の石仏の7割が存在するといわれるほどです。低山ながら火山性の切り立った岩山山中に構えられた寺院や頂上付近の厳しい岩屋の中に数え切れないほどの神仏像が配置され、六郷満山とよばれる一大霊場をなしています。今回、この六郷満山の一部を廻り歩くトレッキングに参加して、3泊4日の旅を楽しんできました。

この「六郷満山トレッキング」は、地元の豊後高田市と国東市が、この地域で古くから行われてきた宗教行事である『六郷満山峯入り行』の行程を土台にして、登山やウォーキングの要素をミックスしてつくった全部で10コースある長いトレッキングルート『六郷満山ロングトレイル』の一部を切り出したもので、本来連続して歩くルートを、宿と現地をバスで往復移動することにより分割していますが、基本的には全部徒歩で廻っています。また、宗教とは違いますが、宇佐神宮の領地として古代から人びとが暮らしてきたこの地の生活と文化の足跡も確認することができました。

今回歩いたルートの概略です。

1日目 宇佐神宮 熊野磨涯仏 朝日・夕陽観音 田染荘
2日目 猪群山(ストーンサークル) 中山仙境 霊仙寺 六所宮
3日目 大不動岩屋 旧千灯寺 五辻不動
4日目 走水観音 両子山 百体地蔵

このうち、田染荘は六郷満山と直接の関係はありませんが、この地の農業遺産である古代の荘園地割を残している貴重な地域です。上の写真は最初に行った有名な熊野磨涯仏のうちの不動明王像で、6メートル以上ある日本最大級の石仏です。

六郷満山トレッキング(2)2020年12月10日 13:16


大分到着後、まずは宇佐神宮にお参りしました。全国にある八幡神社の総社であるこの地の宇佐神宮は六郷満山全寺院の中心でもあるからです。以前、お参りしたことがあるのですが、あらためてこの神社の壮大な規模を再確認し、この地が北九州の古代文化の中に占めている存在の大きさを感じました。、二千数百年前、日本の弥生文化が生まれ、その後多くの古代国家が繁栄した九州北部は、海と山に囲まれた豊穣の地でありながら意外に狭い地域でもあります。さらなる繁栄と(おそらく)半島からの政治的・軍事的脅威から逃れるために日本列島を東へと移動していった人々―そして宇佐は現在は静かな港町と山里に変わっています。

 岩屋の中の祠や石仏様に会う

前回の記事で写真を示した熊野摩崖仏はちょうど国東半島の付け根にあります。伝説では養老2年(718年)の創建、鎌倉時代初期には記録があり、平安時代の成立は確実のようです。名前の通り和歌山(紀州)の熊野神社から勧請された熊野神社がありますので、この地の信仰自体は大和地方経由ということになります。古くからあった山岳信仰(修験道)がこの新しい思想・仏教と結びついて生まれた神仏習合信仰の地が「六郷満山」なのでしょう。風雨に摩滅して優しい表情になった不動明王とその隣の大日如来像。鬼が築いたといわれる大小不ぞろいの石段を苦労して登ってようやく見ることができます。石仏の上は巨岩が屋根のように張り出した岩屋で、以降、この地ではこうした岩屋を次々に訪れることになります。

近くの真木大堂は六郷満山最大だった真城山伝乗寺の跡に建っています。かつての広大な寺院は焼失していますが、残った九体の仏像はどれもすばらしいものです。ただ、この地では、防火建築の中に収められた国指定重要文化財(戦前の国宝)よりも山中の崖に刻まれた石仏の方が、いかにも風景の中にうまく収まっていると感じるのは勝手な考えでしょうか。

 猪群山のストーンサークル

2日目に訪れたのが猪群山(いのむれまや)。いかにも猪が潜んでいそうな名前ですが、これは伝説からきた山名とか。ただ国東半島全体ではイノシシやシカは非常に多く、ほとんどの畑の周りに害獣除けのかなり丈夫な防護ネットが張り巡らされていました。山々は裾野から中腹までは古い石垣と畑の跡が残された里山なのですが、山頂に近づくにつれなかなか油断のできない岩山に変貌します。この山もそうです。

さらにこの山で興味を持っていたのは、山頂部にある「ストーンサークル」とよばれる古代祭祀跡です。上の写真のように、巨大な石柱(陰陽石)を中心にしてかなり大きな岩が円を描くように並んだ、いわゆる環状列石です。イギリスにある世界遺産のように巨大なものではありませんが、なんらかの宗教施設であることは間違いなさそうです。かつて作家の松本清張氏が宇佐古代国家説のひとつの証左として紹介したことで有名になりました。果たして古代人が人工的に作り上げたのかということになるとやや疑問が残りますが、近年まで女人禁制であったこと、近くの宇佐市にも同様の巨石遺跡が残るなど、どれも歴史のロマンです。

この山には近年まで簡単に登る道路がなく、当時70歳代の松本清張先生は村の青年団の担ぐ櫓に乗って上にあがったそうです。私たちもその旧道を降りてみましたが、確かに足腰の弱い人には無理なようです。

六郷満山トレッキング(3)2020年12月11日 13:16


3日目は東夷の谷といわれる切り込んだ険しい岩稜帯を登り(あくまで初心者にとって険しいという意味です)霊泉寺などの寺院を経て、大不動岩屋や五辻不動岩屋などの山上遺跡や山上寺院をまわりました。どこでもそうですが山岳宗教というのは、平地の寺院内での修行では経験できない過酷な環境に身をおくことにより、自然の霊気を吸収して生まれ変わり、できえれば特殊な能力を獲得しようという宗教的な行動です。そのために分け入る自然は人々を拒否するごとく、山は高く、谷は深く、岩稜は鋸の歯のように屹立していることが理想です。国東半島の山々は標高は高くありませんが、古代の溶岩台地が浸食されてできた複雑な谷や奇岩が林立し、さらに四方をほぼ海を囲まれた静寂の地ですから、修験者の修行場としてはふさわしかったのでしょう。

 大不動岩屋と五辻不動岩屋

大不動岩屋や五辻不動岩屋はどちらも両手を使って這い登るような急角度の岩山の頂上直下の浅い洞窟内に築かれたお堂です。その大不動岩屋で嬉しそうにしているのは私です(上の写真)。もちらん滞在時間は短かく、ほんの一瞬ですが、風化して海岸のように白い砂が敷き詰められた狭い岩屋の中に座っているとまさに修行者の気分です。ここにの堂宇は完全ではありませんが、崩れかかった角材の骨組みが残されていますので往時の姿を偲ぶことはできます。岩屋の中から見える外界の光景は立ち並ぶ奇岩と一面の国東半島の緑の森です。山は低く、里もそれほど遠くないのに騒音も生活音もまったくしません。

峰を伝い、里を迂回して次に回った五辻不動岩屋はこの六郷満山の開祖とされる仁聞菩薩が修行したとされる場所で、堂屋が健在です。岩屋の奥行きはごく狭いので、張り出した軒は崖を乗り越え、小屋が空に浮かんでいるようです。ここで一心に祈り、風の音や雨の音を聞きながら無限の時間を過ごしたのでしょう。今でも、数年に一度奥行われるという峯入修行ではここで法要が営まれるようです。

 山岳・民俗遺産歴史を伝える事業

最後の日、この国東半島で一番高い両子山(ふたごやま)に上りました。この旅を「登山」だとすれば一番正統なコースでしょう。両子寺から登山道を入るとすぐ山腹から湧き出し豊かな湧水を味わえる場所があり、走水観音様が建てられています。国東半島には大きな川はありませんが、いくつものため池がつくられているところを見ると豊かな雨量には恵まれているようです。山登り自体は、軽く考えていましたが思いのほかにきつい登りのトンガリ山ピークやいくつかのアップダウンを経て双耳峰の山頂に到着します。頂上には巨大なアンテナ塔が立ち、立派な舗装道路もあるので登山的および宗教的な感慨はありません。下山路が一部崩壊しているとかで、途中までは舗装道路を降ります。最後にもう一度山道に入り、両子山七不思議という場所を通過します。観光客へのサービス企画見たいものかもしれません。この地域では鬼の言い伝えをいくつも聞きましたが、ここにあった鬼がつくったという伝説のある胎内くぐりのような狭い岩の隙間を抜けた洞窟付近の百体観音もそのなかのひとつです。どのようないわれがあるのかは確認しませんでしたが、新しいものも多いようで、今に根付く信仰の証を見たようにな気がしました。

山間の谷間に造られている段々畑は今も耕作されていますが、一歩山に入ると打ち捨てられたような素朴な石垣の上の農業放棄地が目立ちます。昭和40年代までは人がいたということです。そこここに残る炭焼窯の跡も、そのころまでの生活のしるしでしょう。50年前、私が青年だった時代からほんのひと時でこれだけ変わってしまうのです。そのさらに数倍の時を遡れば、まだ科学が世界を覆っていなかった時代です。この山中の無数の石仏はその時代の人々の願いの象徴です。

こうした日本の山岳・民俗遺産ともいうべき地域の歴史を伝える事業を行っている大分県、豊後高田市、国東市の方々に敬意を表します。

甲州街道の猿橋とは2020年12月24日 13:39


神奈川県の重要な水資源である相模川は、富士山麓の石割山からしたたるとされる源流(山中湖からの流れとも)を出発点とし、北に蛇行しながら山梨県と神奈川県を横切って相模湾に流入していきます。その上流部は桂川と呼ばれ、秩父山地と丹沢山地の間を縫って深く高い河岸段丘を刻みながら狭い谷間が形成されています。その谷間を古くから通っていたのが江戸から甲府に向かう甲州街道で、現在ではJR中央線と中央高速道路がほぼ同じルートでここを通っています。私は高尾山領の城山峠に出るとここが相模川と多摩川の分水嶺であることをいtうも実感しています。

この桂川(相模川)流岸には1000メートル前後の山が連なっていて、冬季の登山者の格好の目標になっています。12月最後の登山はこのなかの百蔵山になりました。2週間ほど前には、桂川を挟んでほぼ反対側の高畑山・倉岳山を歩きましたが、そこからよく見えた山です。下車駅は高畑山の時の鳥沢駅から一つ先の猿橋駅。名前の通り、名勝・猿橋の懸けられている場所で、当然、帰りにはそこに寄ることになりました。参加は9名で、ちょうどよい人数でしょうか。登山自体はバスで福泉寺まで行ってから2時間程で頂上に到着します。ややきつい登りがありますが気持ちの良い運動という感じですかね。頂上には「百蔵大明神遺跡」という石碑があります。ここもやはり地元では信仰の山なんです。1時間半くらいで下山、市営グラウンドにつき、あとは舗装道路を歩いて名勝・猿橋に向かいました。

猿橋は、桂川にかかる不思議な橋です。この場所で急流は険しい渓谷を作っていますが、旧甲州街道はここで川を越えざるをえません。そこで、野生の猿がツタを伝って立向こう岸に渡っているのを見て造られたという伝説が残るこの橋が架けられたというわけです。ご覧のように両側の崖に「肘木」とよばれる板を岩に挟み込み、徐々にその長さを伸ばして最後に中央部に板の橋を載せて作られています。この橋については歌川広重の『諸国六十余州旅景色』(安政3年=1856年頃)にも甲斐国の名勝として描かれており、かなり古くから有名だったことがわかります(ちなみに武蔵国の名勝は隅田川雪の朝と江戸・浅草の市になっています)。広重の風景画の中には実際に現地に行かずに描かれたものも多いようですが、この猿橋については天保12年(1841年)に旅行をしている記録があるようで、橋を下から見上げ、両岸の紅葉を配したかなりリアルな絵に仕上がっています。

橋のすぐ近くに、岸壁を掘りぬいた煉瓦づくりのトンネルがあり、数メートル幅の水路橋が通っていて、かなりの量の水が音を立てて流れています。それなりの迫力ですが、これは桂川にほぼ平行して東西に延びている水路式発電所施設である八ツ沢発電所に用水を送る水路とかで、建築上の観点から国の重要文化財になっています。

この地にはこれほど苦労して橋を架ける必要性があり、またこれほど豊かな水に恵まれたところだったということがわかります。百蔵山から遠望し、さらに、猿橋駅に下りてゆく断崖の道を歩きながら、眼下に見える谷間の光景に見入りました。