『白鯨』の旅(2)2020年05月31日 16:22

●捕鯨について

ストーリーを追う前に捕鯨の基礎知識をいくつか。まず、捕鯨の目的ですが、すぐに思いつくのは、第2次大戦後のわれわれ世代が学校給食などでお世話になったクジラ肉を求めての捕鯨です。これは現在でも行われていますが、実は19世紀当時に欧米で盛んだった商業捕鯨の目的はクジラの「肉」ではなく、その体内に含まれる大量の「脂肪分=油」でした。産業革命の時代、街には街灯がまたたき、鉄の歯車を組み合わせた蒸気機関が陸上や水上で活躍を始めていました。そこで必要になったのが、明かりを灯すための油や歯車の回転を助ける機械油でした。ここで登場するのが当時もっとも上質だったクジラの油というわけです。『白鯨』の時代、この驚くべき天然資源を求めて数千隻もの捕鯨船が世界の海で活躍していたと思われます。そのため、数十年の後にはクジラの頭数の減少が深刻になり、同時に、地中から湧き出る石油の掘削と精製技術が進んできたため「鯨油」の需要は消滅します。ゴールドラッシュみたいな一時期の盛況というわけです。

クジラを捕獲する方法も、現在は捕鯨砲というモリのついた弾丸をクジラに向かって発射しますが、19世紀には、小さなボートに乗って人間が手に持ったモリを投げつけるという石器時代と変わりないような方法で狩りをしていました。仕留めたクジラはその肉を切り刻み、船の上の大きな釜で煮て油を分離し、木の樽につめて持ち帰ります。『白鯨』にはその一部始終が事細かに描かれています。また、その過程で、作者によるクジラ(特にマッコウクジラ)についてのマニアックな解説や鯨肉の賞味談など興味深いエピソードがいたるところに散りばめられていて、これがこの小説の面白さの大きな要素になっていると思います。

当時の捕鯨船がどういうルート(航路)を辿ってクジラを追っていたのか。『白鯨』では赤道付近の太平洋(南太平洋)で漁を行うのが一般的であると書かれています。クジラの種類にもよるのでしょうが、マッコウクジラやセミクジラなどはもっぱら北極や南極付近のエサの豊富な海域で体力を蓄え、時期になると暖かい海域に移動して繁殖と子育てを行うようです。その時、クジラは蓄えている脂肪が最も多く、一方、人間にとっては活動がしやすいという絶好の海域ということになるようです。もちろんその他の場所でも常に海上を見張って獲物が見つかれば出動しています。

『白鯨』の舞台となるピークゥエド号は北米・ナンタケットを出港後、大西洋を南下し、ラプラタ川河口付近で東に転じ、アフリカ大陸南端の喜望峰を回ってインド洋を横切り、マレー半島の東、現実世界ではあのウォーレスが活躍していたであろうマレー諸島に到着、スマトラ島とジャワ島の間の狭いスンダ海峡を通過します。インド洋から南シナ海に出るにはマラッカ海峡かスンダ海峡を越えるしかないのはクジラも同じようで、この付近は絶好のマッコウクジラ狩りの場として有名だったようです。ピークオッド号もここで狩りをしています。そして広大な南太平洋に進入し、最後は日本列島のはるか沖合でモウビィ・ディックと遭遇します。この時点ですでに地球を半周以上していたことになります。

●3日間の死闘

いうまでもなく『白鯨』のクライマックスは物語の最後のモウビィ・ディックとエイハブ船長の3日間の死闘―そしてピークオッド号の沈没になります。これはこの物語が書かれた時から、というよりメルヴィルがこの小説のモデルといわれる伝説のクジラの存在を知った瞬間から決まっていたともいえます。そこで、そこに至るまでのストーリーというのはすべてクライマックスを際立たせるための周到な伏線―現代語でいうと「前ふり」になるのでしょうか。そう読めなくもありませんが、何度も言いますが、この作品の古典たるゆえんはこの一見もったいぶった寄り道しながらの物語展開と知的好奇心にあふれたクジラに関するおしゃべりにあるのです。そこを楽しまないといけません。『白鯨』は映画化されていますが、作品を流れる人生の永遠を感じさせるこの雰囲気は表現しようがありませんね。

お分かりのようにストーリー的にはかなり単純です。まずは主人公イシュメルの登場と「心の友」である蛮人・クィークエグとの(ホモセックシュアルな味わいのある)出会いなど海に出るまでのエピソード―これも結構興味深いですが、いつの間にかその主人公やクィークエグなどを置き去りにして、なんとも偏執狂としか思えない船長・エイハブやその下で運命を狂わされる一等航海士スターバックや二等航海士のスタッブなどの「役者」が登場してくるのは、ピークオッド号が海に出て30人の乗組員の生活が始まってからです。役者といったのは決して比喩ではありません。

この『白鯨』という小説は、クライマックスの悲劇に向けて渦を巻いて回転するように仕組まれた演劇の様相を呈してくるのです。前回の中で、訳者・小林敏雄氏がこの『白鯨』の輻輳したスタイルのひとつに演劇をあげていますが、本当に、ひとつの章が丸ごと戯曲になるのです。独白であったり、緊張した対立劇であったりしますが、小説の文体でもなく、そこに主人公であるイシュメルの登場する余地などありません。その間に、海の神秘やそこに棲む「怪物」達の生態、クジラにまつわる百科全書的な数々の蘊蓄が語られながら、船はゆっくりと大海原を帆走し続け、南太平洋を北上して日本沖に到着します。

エイハブ船長は、ここで白いクジラ、モウビィ・ディックを発見します。大嵐に会い、羅針盤をなくしたピークオッド号は遭遇した捕鯨船から「白鯨を見た」という知らせを受けるのです。すると、次の第129章「船長室(キャビン)」から、悲劇のテンポは急激に速くなります。そして第133章「追跡―第一日」の「潮吹きだ!―潮吹きだ! 雪山のようなこぶが見えるぞ!」という自ら見張りにたったエイハブ船長の叫びから始まる第134章「追跡―第二日」、第135章「追跡―第三日」、すべてが終わった後、種を明かすようにイシュメルが登場する「エピローグ」に至るモウビィ・ディックとピークオッド号の闘いは圧巻です。まるでシェイスクピアの悲劇を思わせるような、名作と呼ぶにふさわしい一節だと、私は思います。

上の絵は前回の表紙と同じロックウェル・ケントの版画の挿絵です。