平将門の「迷走ルート」2017年12月08日 11:30


地元の山の会で、12月3日と4日、奥多摩方面から雲取山に登り、秩父・三峰神社まで縦走しました。奥多摩駅からバスで奥多摩湖を遡り「かもさわ登山口」に到着。歩き始めましたが、そこに『平将門迷走ルート』というわりと新しい掲示板が建っているにの気づきました。

この場所は山梨県の丹波山村(北都留郡)なのですが、当地に、平安時代に東国を中心に「新皇」と名乗った、かの平将門が朝廷軍に追われて迷走(敗走)したという伝説があるようなのです。将門というと茨城県・筑波山のイメージですが、古代史の伝説の人物だけあって各地にその足跡伝承を残しているようです。

この掲示板は全部で10あるようで、読んでみると将門一行の行状がこの山村の地名の由来となったということになっています。たとえば「お祭り」という地名がありますが、これは将門一行が「ここまで逃げてくれば追手が来ないだろう」ということで宴会を開いた場所―という具合。ちなみに、最初の説明版に「モノローグ」とあるのはたぶん「プロローグ」の間違いと思われます。

少し歩くと本格的な登山道ですが、登り始めると、先ほどの将門迷走ルートの掲示板が次々に現れます。ただし、この地名由来伝説も、カマドを作ったという「釜場タワ」や着物を洗ったという「小袖」はまだいいとして、1時間半ほど登ったところにある「堂所」というやや広い場所では「将門がここで兜や鎧を脱ぎ、その胴を置いた場所」という相当無理をしたこじつけ気味の説明です。わが山の会のT会長の記憶だと、ここには、お堂がありそこに賭博場があった(という案内板が存在した)ということです。ここは、無宿人の隠れ場所のほうがよりリアルでどうみても正解。

説明版をよくみると最後に「創作民話と将門伝説より」と書かれています。また、それぞれの説明の最後には『さらに上を目指そうとする一行に突如悲劇がおこったのである』のようにまるで連続ドラマの様なフレーズで終わっていることからみて、地元の方が、長い登山の息抜きに作っていただいたものでしょう。感謝いたしますが、実際の地名由来説明を消してまでゆがめるのはどうでしょうか。

この先の七ツ石山(1757m)越えは登山でも大変です。頂上近くには立派な石灯籠が残る七ツ石山神社があり、壊れた社殿の裏の巨石が御神体のようです。さて、将門様はこの頂上でも、七人衆の人形をつくり、それが七つの石に変じたという伝説を残しています。これはいかにも民話にふさわしい話です。さらに、七ツ石山を下って展望の開けた「ブナダウ」という場所にくると、将門迷走ルートの最終章「大血川の悲劇」になります。将門様一行はここから東に下り天祖山を目指したとのことで、さらにその先にある大血川で99人のお妃達が自害したというから大変なことです。それにしてもいったい何人でここまで登ったのでしょうか!

伝説では将門はこのあと日原を経て青梅にいたります。現在、JR青梅線の鳩ノ巣駅近くに将門神社があり、将門という文字のついた地名もいくつか残っています。平家の落人伝説に似たものと思いますが、京都の朝廷に逆らった平将門がいかに庶民の人気を博していたかを現代に伝えています。

ネットで印刷2017年12月10日 20:12


少し前からテレビなどで「ネットで印刷!」というCMが流れています。私もネットでの買い物や旅行の手配は以前からやっていますが、印刷の注文はほとんど経験がありません。仕事がら知り合いの印刷業者が多いので、通常業務の印刷も少し無理をいってお願いするということが多く、費用的にも特に困ることはなかったからです。

今回、私の所属しているある団体が加入促進用の『会のお知らせ』を作成することになり、こうなると私の知っている業者はかえってお願いしにくいので、初めて「ネットで印刷」を実践することになった次第です。

依頼したのは冒頭のテレビCMの企業ではなく、青森県にあるS社という中堅(というより中小企業)の印刷会社です。ネット検索で感じがよく、ごく簡単にできる見積でも手軽な、というより、かなりリーズナブルな価格だったからです。価格はいろいろありますからあまりいいませんが、はっきりいって多分、通常の印刷会社ではできない価格だと思います(版下データは発注者が作成します。OFFICEデータでもいいみたいです)。

それにまして驚いたのは、このネット印刷会社のシステムとサービスがよくできていること。まずいったように見積もりが簡単。その結果(見積書)がPDFで作成され、印刷できます。自動車保険会社のネットシステムとおなじでしょうかね。そして、入稿・再入稿もEメールで添付ファイルが送信できる人なら問題ないでしょう。納期を選ぶと、あとは期限までに銀行振り込みなどで入金する日を連絡すると、入金前ではありますが、校正用紙が宅配便で送られてきました(校正を依頼していたため)。

校正が来る日に1日連絡できないことがありましたが、電話で期限を告げられ、連絡はその日じゅうであればいいということです。24時間対応です。大企業ではありませんからこの勤務体制は大変だと思います。

納期は1日から5日まで、私の場合は、1週間後の日曜日にしておきましたが、指定の時刻に配送されました。さっそく役員会で披露しましたが、皆さん、品質には満足の様子でした。

驚くのは私だけで、こんなことは今やどの業界でも当たり前のことなのかもしれませんが、旧来の人間関係や企業関係によって成り立っていた生産システム、配送システムが大きく変わってきたことをあらためて感じた次第です。

高尾山の南稜ルート2017年12月14日 14:22


最近けっこう登るようになった東京・八王子にある高尾山。東京や近県の人たちの憩いの場として有名です。もともとは信仰登山に始まる古い歴史を持ちながら、今や一大リクエーションスポットのような場所あるいはイベントステージに移行している様な気がします。それでも自然を求める人々が楽しむ機会あるいは多くの登山愛好家にとっての手ごろなトレーニングの場としてこの高尾山は利用されています。

この高尾山には頂上を目指す本来の登山路(6つ)の他に、裏高尾、北高尾、南高尾の3方面にも登山ルートがあります。「裏高尾」とはいいながら城山や貴信山方面は、高尾山登山の延長のようなものなので行く人はかなりありますが、南北の稜線ルートはメインルートではないためかハイカーも少ないようで、ちょっと裏街道風の雰囲気があります。

今回、地元の山の会の人たちと、高尾山「南稜線歩き」を楽しみました。甲州街道沿いの「橋本屋」という割烹の横を入った住宅横の細道が登山道で、けっこうマイナーな出発点です。裏街道の神髄です。少し上がった四辻には高尾駅も戻るコースがあります。

このルートは基本的に高尾山とは甲州街道を隔てた稜線上を適度なアップダウンを繰り返しながら進みます。したがって、高尾山に登っていては見えない高尾山の姿が見えます。高尾山はその形状というよりは山上が平坦で僧房など多くの施設が造れることが修験の場に適していたのかもしれません。草戸山されにいたり、次の三沢峠を経て西山峠へ。林の向こうに見え隠れする城山湖の風景で一息つきます。

このあたりが一番眺めのよい場所とかで全員で座って優雅に景色を鑑賞しました。左手に津久井湖の青い水面が臨め、右には相模川が蛇行しています。南稜線はこうした川と湖が目を楽しませてくれます。また、このコースはいたるところにベンチや展望デッキが設営されています。途中で赤い服を着たパトロールの人にも会いましたが、観光ルートしてかなり整備されていることがわかります。

ここからあとはコンピラ山、中沢山を超えて本日の最高峰である大洞山(536m)へ。あとは南高尾山領を通って甲州街道まで下ります。下りきったところが大垂水峠。2車線の甲州街道が縦断しています。垂水というだけあって登山道にも何本もの湧水があふれています。街道を渡って山腹をくねくねと登って、高尾山の本道に到着します。大垂水峠で降りずに小仏峠を超えて貴信山にでることもできます。

写真がない場合にどうするか2017年12月19日 13:32


趣味の活動で3種類ほどの雑誌(いわゆる紙媒体)の製作をしています。基本的にどれも発行時期に応じた内容の記事を依頼したり自分で書いたりしますので、あまり苦労はないのですが、実際の作業では細かいことに悩みます。

特に、超ミニコミとはいえ、雑誌形式なので、誌面に余白を作ることができない上に偶数ページに納めなければならないことが形式上の制約です。困るのは1ページに入れなければならない原稿の分量がとても少ない場合です。多少の文字数であれば原稿内容の追加(編集権限?)で納めますが、それも効かないような短い原稿の場合にはどうするか。いまさら執筆者にいってもはじまりませんし、もともとそういう約束は気にしないようなひとの原稿というのがほとんどです。

通常は、ここで写真を入れてページをまとめます。これもはじめから用意してあれば苦労しませんが、用意されていない場合がほとんです。そこで工夫するわけですが、これが「苦しみな」のか「楽しみ」なのかが問題で、(本当の意味の)苦しみだったら編集は引き受けていません。大変ながら、それを見つけていくのも、まぁ楽しいといえば楽しい。これが実感です。

結論をいうと今回、ある雑誌にこれが2ページありました。ひとつは新年のあいさつみたいと感じの文章でしたので、来年の干支(戌=イヌ)にちなんでイヌに関係する写真を探そうと思い、たまたま私が今年2月に行った秩父・宝登山神社奥宮の狛犬の写真を思い出しました。まさにオオカミという像ですね。これを採用しました。我田引水ではありませんよね。以下に掲載されています。

http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2017/02/18/8367146

もうひとつは10月に行われたある会の研修会の記事です。今回は、埼玉会館で開かれた埼玉オペラ協会の講演を観たのですが、写真の類が一切ありません。参加者は誰かが撮ってくれるものと思ってますからね。窮余の手で、当の埼玉オペラ協会に「当日の写真がありませんか?」と連絡してみましたら、「資料用ということで画質はあまりよくありませんが」ということですが、ハイライトの舞台写真を送ってくれました。これを使用。上の写真です。こんなことを繰り返しています。

見沼調整池のハクチョウ2017年12月24日 18:45


見沼調整池――正式には「芝川第一調整池」。洪水対策用の溜め池ということですが、当初から自然環境との調和が重視されていて、彩湖のような人工の護岸は造られていません。そのため岸辺にはアシなどの湿生植物が多く、芝川沿いの平地には狭いですが、本当の自然林を目指す「本多博士の森」もあります。

年に何回か、この見沼の調整池を訪れます。公園ではありませんから、現在でもこの池とそれを取り巻く自然環境はあまり変わっていません。真夏は暑いですが、それなりの野性的な雰囲気があり、春や秋も楽しい散歩ができます。冬はアシや湖岸の木々も灰褐色に枯れ、単色の寂しい風景になりますが、カモやハクチョウなどの水鳥が多く、意外ににぎやかです。

出発はJR武蔵野線の東浦和駅。駅は台地の上にありますが、目の前には見沼の低地が広がっています。坂を下り、見沼用水西縁を少し歩くと通船堀公園に出ます。見沼用水東西とその中央を流れる芝川を結ぶ運河で、江戸時代、この用水が人や物資の輸送路として使われていた時代には多くの船が行き交ったと思われます。芝川との水位差を解消するために設けられた閘門式水門が「通船堀」という名前の由来のようで、木製の閘門の遺構は復元されています。運河の両岸は気持ちの良い遊歩道で東縁近くには休憩所もつくられています。ここまできて用水東縁の向こう岸を前を見ると、台地の上に小山の様な墳丘が見えます。これは木曽呂の富士塚で国指定の重要文化財になっています。

この富士塚に登ったあと金山斜面林付近でまた用水に降り、武蔵野線の下をくぐるといよいよ調整池は目の前です。休憩するなら川口自然公園がすぐ近くにあります。この付近は川口とさいたま市(浦和)の隣接した地域です。排水路に懸けられた橋をわたると風景が変わり、目の前に雄大な調整池の水面がひらけます。

ここから湖岸を一周できます。途中で「立入禁止」区域がありますが(越流提部分)徒歩なら可能です。そう多くはありませんがに巨大な望遠レンズ付きのカメラをのぞく人の姿があります。お目当ては最初に触れたこの池の野鳥、特にハクチョウ(正確にはコハクチョウ)だと思いますが、ほかにも各種のカモやサギ類、カメモ、カワウなどもかなりの数が飛来しています。上の写真中央にかすかに白く見えるのがハクチョウです。4羽を確認。

この調整池はじつはまだ建設中で、芝川の向こう側(右岸側)にも同様の池を建設中です。ほぼ完成のようで一部には水が溜まり始めています。来春にはさらにスケールアップした自然が楽しめそうです。

膨張するさいたま市2017年12月31日 15:18


12月30日、同窓会(忘年会)のため大宮に。時間があったので久しぶりに北浦和駅前から旧中山道を歩きました。とくに古い建物が残っているわけではありませんが、なんとなく旧街道の雰囲気が感じられ、いわゆる新国道(17号線=子供の頃はそう呼んでいました)よりは道幅も狭く、車通りも少ないためか、落ち着きます。与野駅前をすぎた付近から両側に背の高いケヤキ並木が目立ってきます。さらに新都心駅が見えだすあたりの進行右側にかなり広い空き地が見えてきました。工事用フェンスで囲まれていて明らかに開発用地であることがわかります。概要を示すと思われる何枚かの掲示板も見えます。

この場所は少し前まで三菱マテリアルの研究所があったところです。一時は実験用の原子炉?が設置されているとかでその後処理が話題になりました。けっこう広い場所ですし、おまけにJR京浜東北線の大宮駅や新都心駅からも近いということで住宅地としての価値は高いでしょう。この跡地利用がどうなるかは注目されていましたが、どうやらそれが決まってきたようです。近づいて、フェンスに設置されているパネルの説明を読んでいくと、とりあえず開発が決まっているのは世帯数1000戸の15階建ての巨大なマンションだけのようですが、その他にいくつかの公園などを含む巨大な街区が誕生する予定になっています。

おそらく、また、ここに数千世帯の人たちが移住してくるのでしょう。私は5歳の時から30歳近くまで大宮市に住んでいました。そのころの人口は確か30万人もなかったと思いますが、現在はさいたま市となって120万人以上あります。もちろん、与野、浦和、岩槻などを含んでいますが、大宮市域だけでも人口の膨張は続いています。聞くところでは西区にも大きな開発構想があるようです。

おそらく、また、ここに数千世帯の人たちが移住してくるのでしょう。私は5歳の時から30歳近くまで大宮市に住んでいました。そのころの人口は確か20万人程度だったと思いますが、現在はさいたま市となって120万人以上あります。もちろん、与野、浦和、岩槻などを含んでいますが、大宮市域だけでも人口の膨張は続いています。聞くところでは西区にも大きな開発構想があるようです。

来年で30年続いた平成という時代が終わりますが、この間の大都市への人口集中は加速度的に進んでいます。日本全体では人口が減少する中、東京圏には人とモノが集中しています。大宮も浦和も大きな意味での<東京>です。誕生当時は「さきたま」という土地名になんのゆかりもないのに名づけられた架空のまち―さいたま市が膨張しています。