新年早々の近況交換2018年01月03日 20:53


毎年、新年早々に、友人やお世話になっている人にEメールで「年賀状(あいさつと近居委報告)」を出しています。年末に年賀状も出しますが、この数は毎年減り続け、特に昨年あたりからは激減です。仕事関係の付き合いが減ったこともありますが、あまり多くのことを書けない葉書という制約があり、おまけに文字を書くことにコンプレックスがありますから「今年もよろしく」と書くのが精いっぱいなのです。

代わりにEメールでのあいさつはかなり前からやっています。最初は専用のEメールソフトを使っていましたがOSのバージョンアップに伴い使えなくなりその後はDBシステムを使っての自作のソフトで送信しています。同じ内容の一斉送信ではなく、ひとりずつ異なるメッセージも送れますので相手の顔を思い浮かべながら入力することもあります。とはいえ、実際にはそこまで細かい内容は送っていないのですが、宛先の名前は必ずいれますので、親近感は出せると思っています。また、ここ2年程は個人ブログ(このブログです)の中身をみてもらう工夫をしています。ブログの内容は(自分の気持ちでは)個人的でありながら何か参考になるようにと心掛けていますので、少しは見てもらっている方もいるようです。

この新年Eメールを送った次の日あるいは何日かあと、多くの方が返信してくれます。地元の趣味の会やボランティア団体の友人や先輩が多いですが、ほとんど年に1回、この新年のEメール交換が唯一の近況交換になっている人もいます。元気であればうれしいですし、ちょっと落ち込んでいるなと思えると、何もできないくせに気になってきます。また、思いもかけず、私のブログの中の個人的な旅行や病気の記事をみて感想を送ってくれる人もいます。共感というのが一番、ひととひとを結び付けるのかもしれません。

今回の私の連絡の中で、多くの人に「年齢を重ねて、人生の終盤が見えた」というような表現を送りました。これに対して「私ももう●(●の中は任意の数字あるいは古希などのめでたい?言葉)」とこれまた共感の言葉も多く、ああ、やはりこんな世代になったのかと思うことが多かったですが、高齢のかた(失礼)からは「60才台でそんなことを考えるのは早い!」と激励のことばもいただきました。逆に、ブログの記事などを見て、私がかなりいろいろ元気に行動しているように思う人もいるようで、当方もけっこう無理しているようなところがありますが、お互いの活動の指標になってくれればいいと、これも勇気づけられました。

この記事にはどんな写真をつければいいのかわかりませんが、1月1日に初詣でをした朝霞市大和田の氷川神社でお祓いをうけるための行列の写真にしました。この氷川神社、普段はほとんど人がいませんが、新年と夏のお祭りの時だけ氏子さんが総出で役員をつとめ、にぎやかです。4人ずつならんでお祓いをしてもらえ、昨年いただい破魔矢のご利益もありましたので、今年は早々にでかけました。お参り後は、隣にある喫茶店「珈琲館」でサンドイッチを食べます。この喫茶店も新年の3日間だけ(例外的な)大変な繁盛で「大入り袋」をいただけます。

飯縄権現の天狗の話2018年01月07日 21:44


新年恒例の高尾山参拝登山―といっても昨年からですが。1月6日ともなると薬王院も空いています。中高生の団体が目立った程度で、通常の参詣客はあまりいません。それもケーブルカーで上がってきてお参りした後また下山という人が多いようで、奥の院から高尾山頂上という奇特な人はもっと少ない。もともと1年で登山者が一番少ない季節ですから、こんなものでしょうか。

今年の参拝の目的は昨年行かなかった飯縄神社にお参りすること。この神社は総本山が長野県・長野市の西北にある飯縄山にあり、いわゆる山岳修験道の聖地として知られています。昨年、山岳宗教から天狗へと関心がうつり、そのへんを少し調べているので、関東でも有名な天狗信仰の本山・高尾山にお参りしておこうというのが動機です。

高尾山は明治以前の神仏混淆の信仰形態を残している山なので、真言宗の寺院と同時にあまたの神社が混在しています。奥の院にも薬師堂のすぐ隣に真新しい飯縄権現が祭られています。ここへの参詣者は薬師堂で健康を祈り、飯縄権現には健脚を願います。便利な仕組みです。奉納された小さな下駄がたくさんありますから、信仰は絶えないようです。もちろん、昔と今ではその目的はかなり違うでしょうが、足腰が大切なのはかわりがないようです。本山の飯縄神社にもこの下駄は奉納されているのでしょうか。

ところで、飯縄山については、同じく修験道の山である戸隠山にある戸隠寺文書に「学問行者が戸隠山を開くに先立って飯縄に登り祈念を行った」ことが記されているそうです。つまり、どちらが古いといえないほどの歴史があるとわけですが、天狗については飯縄神社との関連が深いようです。また飯縄山という山名ですが、山頂より食べられる砂(飯砂)がとれたので「飯砂山」。転じて「飯縄山」と言ったという伝説があります。どうもこれは一種のキノコのことだと思われます。

こうした点についての情報は、飯縄神社公式ページ(http://www.iizuna-jinnjya.jp/index.htm)の中の「由緒」に詳しく出ています。大変に面白いのでご一読をお勧めします。

このホームページの「中世の飯縄神社」の中に、次のような箇所があります。

 また同記(戸隠神杜の古縁起「戸隠山顕光寺流記」によれば、鎌倉時代に至って、
 戸隠の支配を離れて戸瞬修験とは別に飯縄大明神をもって「天狗」と唱え、いわ
 ゆる飯縄修験すなわち飯縄修法(飯縄の法)を行っていたことがわかります。飯
 縄の法を行う修験者は飯縄使とも云われていました。飯縄の法は、飯縄大明神が
 変幻自在の天狗となって、あるいは六地蔵と現じて国土を回り、衆生を助け魔界
 をなくそうとすることを本旨とするものであったようです。またこの秘法には、
 その第一に「弓箭刀杖難来時、飯縄大明神八天狗奉祭可遁其難」とあるのをはじ
 め、戦勝の祈顛、赦滅の祈順、病患を除き寿命を延ぷるの秘法、一三ヵ条が口伝
 として列記されております。室町時代からその修法が広く信奉され、武将にもい
 たっていたことが知られています。

実は高尾山が戦国の世以来、関東や甲斐の国の武将たちの庇護を受け、守られてきたのはこの「飯縄権現」のおかげであるともいえます。少しこじつければ今日の高尾山の自然を守り、観光地にしているのも天狗の神通力といえるかもしれません。

(以下は追加)

天狗にも「大天狗」と「小天狗」の2種類があり、修験道の行者がモデルとなっているのが大天狗。この高尾山薬王院にいかめしく立っている天狗像はまさにこのイメージです。一方、小天狗とは「カラス天狗」のことらしく、このモデルが古代インドに起源をもつ「迦楼羅」であるとは前に書いたことがあります。

 ・http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2017/06/09/8589702

なお、こんなことに関して、森田きよみさん著の『小天狗道中記』という愉快な本があります。

鈴ヶ森の処刑場跡2018年01月12日 10:36


1月9日に東海七福神めぐりを主眼とする「品川宿まち歩き」(埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会主催)に参加しました。その名のとおり、本来陽気で楽しいはずの寺社巡りですが、午前中から天候が悪く、ときおり大粒の雨がおちてくるのに加えて、最後に訪れた磐井神社の手前にある鈴ヶ森の処刑場跡地が、合理的な説明はできないのですが、なにか陰惨な雰囲気のただよう場所で、はやりの言葉でいえば、これはパワースポットなのか心霊スポットなのか。実に複雑なところです。

品川宿は以前の「浮世絵を歩く」という「まち歩き」を始め、数回は訪れているのですが、たいていは目黒川に架かる境橋までのいわゆる「北宿」だけでした。南宿はかなり様子が変わり、旧道のイメージはかなり薄くなります。青物横丁付近からは旧街道を示す道路標示もなくなり代わりにガードレールが登場、まったく一般の道路になっています。そして、この八ツ山橋交差点から続く旧東海道筋が終わり、第一京浜という現代の東海道に合流する場所がちょうど鈴ヶ森の刑場跡付近です。私には初めての場所です。

千住の小塚原と並んで江戸の入り口におかれたこの鈴ヶ森刑場は、いまでは江戸当時の面影はほとんどないとのことですが、場所自体ははまさしくここであり、当時の位置そのままではないのでしょうが、実際に使われていたと思われる石でできた「火炙台」や「磔台」が無造作に置かれ、花束やお線香が供えられているのが妙にリアルです。

遠くからみると、白い柱に黒い文字で「史跡 鈴ヶ森刑場遺跡」と大きなく書かれた標識が枯草の茂みにそびえ立っているように見え、これまた異様な光景を作り出しています。江戸時代以前、罪人への刑罰は苦しみを与えることも目的のひとつでした。また多くの人に見せることで「みせしめ」にしたことも事実で、苦しい生活の中では、これを一種の「見世物」ととらえていた見物人もいたでしょう。当時、海沿いの荒れ果てた海岸の一角にあったこの場所をあえて通らずに進む間道もありました。

とはいえ、現在ではここは大都会です。すぐ前に住んでいる人もいますし、近くには小学校も幼稚園もあります。慣れてしまえば気にもならないのでしょうが、古い街の中には、こうした歴史の闇の空間があり、多くはそこになにがしかの石像が建てられ、忘れられてゆくのを待っているようです。

利根大堰と武蔵水路へ2018年01月22日 15:55


地元の環境団体主催の見学会で行田市にある「利根大堰」と「武蔵水路」へ。この場所を訪れるのは2回目になります。堰から流下する利根川の水は荒川を経由して朝霞浄水場などに送られ東京都、埼玉県などの重要な生活用水になります。ここに来ると、利根川という河川が水需要の上でいかに重要な役割を果たしているかがわかります。

午前8時半、朝霞市役所を出発。参加は会員23名。10時過ぎに荒川を超えて武蔵水路の見える地点に出ました。つい最近改修された水路を水が勢いよく流れています。さらに流れに沿った進み、目的地の利根大堰とそれを管理している水資源機構利根導水総合事務所に到着です。総合事務所では管理センターに案内され、巨大な情報パネルの前でこの利根大堰で導水した水の流れを説明してもらいました。1960年代の高度成長期の水需要の増大により造られたこの施設ですが、現在も朝霞浄水場ばかりでなく見沼代用水、葛西用水、邑楽用水など関東の各地に水道、農業、工業などので多用途な水が導水されている様子が示され、リアルタイムの流量も刻々と表示されています。

次いで事務所の屋上にあがります。まず北側を流れる利根川とそこを横断する大堰の姿に圧倒されます。堰の上は利根大橋という道路橋になっています。渇水期の時期とはいえ利根川は広大ですが、この堰を過ぎると急に流量が減っているのが確認できます。この前で集合写真。背後に利根大堰が見えます。

反対側では、堰取水口から流入する河川水が沈砂地を経て見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路、邑楽道水路に分かれて流れていく様子が観察できます。その量は最大で毎秒約120トンにもなるそうです。この用水路に何か異変があれば国民生活には重大な支障が出ます。電気やガスもそうですが、こうした基礎的なインフラ事業を日々管理維持していくのは地味ですが非常に重要な仕事だと思います。

利根川のスケールに感動した後、武蔵水路をたどって「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち」として日本遺産に指定された行田の市街に向かい、趣きある歴史的景観建築物でもある蔵造りそば店で昼食。午後はこれも日本遺産級の「さきたま古墳群」で古代文化に触れました。県名発祥の地とされる「埼玉(さきたま=前玉とも)」の地にあり、前方後円墳8基と円墳1基の大型古墳が残る全国有数の古墳群で、国の史跡として整備がなされています。史跡の博物館を訪問し、出土された金錯名鉄剣などの国宝指定された古代史の重要文化財を見学しました。また、いくつかの古墳に登り、そのスケールを体感しました。

野火止用水遊歩道を歩く2018年01月23日 09:19


博物館友の会の「まち歩き研究会」のおなじみの活動。今回は、埼玉県新座市の平林寺周辺にある雑木林を歩きながら、史跡でもある野火止用水の歴史と景観を楽しもうという企画で、私にとってはほとんど普段の散歩コースです。

JR武蔵野線新座駅改札出 に10時集合。参加は飛び入りを含めて30名。この季節にしてはなんとか暖かい日差しが感じされる中、駅前から始まる親水公園を経てふるさと新座館へ。ここで説明とスケジュールの紹介をしましたが、なんと昼食に予定していた「たけやまどん」が改装で休業と判明、急遽、最後にまたこの場所に戻っての自由行動ということになりました。

ご存知のように、この野火止用水は、江戸開府50年の後の承応2年(1653)に幕府の行った多摩川から水を引く玉川上水の開削につづき、功績のあった松平信綱(老中・川越藩初代藩主)が領内の野火止に玉川上水の分水を許され開削された用水です。その経緯をみると当初から武蔵野の新田開発が予定されていたことは確かと思われます。信綱の菩提寺の平林寺にも水はひかれます。なお、玉川上水の実現については有力大名の反対意見もあったため、当時4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)であった保科正之の功績も大きいのですが、あまり取り上げられることがなく、地元・新座市のPR文書にも出ていません。保科正之は最近になって評価されていますが、やはり明治維新の賊軍・会津藩の初代藩主ということで政治的な圧力で真実が捻じ曲げられたところがあったようです。

さて、この野火止用水ですが、昭和20年代頃から汚染が始まり、特に昭和38年(1963)頃からの周辺の宅地化の進行や関東地方・東京の慢性的な水不足もあり、野火止用水への分水は中止されました。その後、きれいとはいえない生活排水などが流れていましたが、昭和50年代末に復活の試みが行われ、現在は国道254号(川越街道)までの流れが復活しています。国道254号線から先も暗渠となった流路跡をなんとか辿ることができます。私(筑井)が越してきた1970年代には志木市付近にもかなり汚れていましたが用水(小川)が流れていて、あっという間に暗渠になってしま下ました。

今回はこの流れが再現された平林寺脇の用水を国道254号線から関越自動車道まで、分水の平林寺掘も含めて歩きました。落葉樹を中心とする真冬の雑木林はほとんどの木が葉を落とし、乾いた落ち葉が音を立てて足元に舞う褐色の世界ですが、周囲の見通しはよく、広い空の下、巨大な鉄塔と点在する農家や畑地に武蔵野の景観が感じられました。全員が「入山」した平林寺では静かな雰囲気の中で公開されている総門、山門など由緒ある建築物や石塔に触れることができました。午後1時前、平林寺前に「睡足軒の森」でとりあえずの解散。この後、参加者の半分以上の人がさらに暗渠となった野火止用水の跡をたどる散策に参加。東武東上線志木駅まで40分ほど歩きました。さらにマニアックに新河岸川まで野火止用水跡を追究する会員とともに新河岸川を越えて宗岡地区まで歩きました。関心のある人には興味尽きないテーマです。

雪の日のカラス2018年01月27日 16:45


1月22日、関東地方には珍しい大雪。その後には記録的な寒波が続いています。厳しい冬の訪れといえそうですが、日本のような文明社会(古い言葉ですな)に住んでいるわれわれ人間には実はそれほど深刻ではありません。外に出ている時ちょっと寒いだけ。中には好んで高い山に行く人さえいます。

大変なのは野生動物。それも冬眠しないタイプの哺乳類や渡りをしない鳥類には雪は深刻な脅威になります。雪の下は意外に暖かいという意見もありますが、それも程度次第で、豪雪の年に多くの野生動物が餓死することは事実です。人間だって石器時代人は多分そうだったのでしょう。

大雪の翌日、さいたま市の大宮公園を通りかかると、桜の大木に囲まれた雪原の上で何かをついばんでいる数羽のカラスを見かけました(上の写真)。雪の下に枯れ葉以外に何があるのか、しきりに土の中をつっついています。虫でも探しているのかもしれませんがもしかしたら隠しておいた食物を掘り出している可能性もあります。一部の鳥類や小動物は、見つけにくい場所に食べ物を隠匿しておいて後で取り出して利用する「貯食」ということをしますが、実はカラスの仲間はその代表です。

カラスほど人間に嫌われる鳥もいませんが、それでも平気でこうして公園などにのさばっていられる大きな理由は、鳥類にしては大きく強い身体やなんでも食べる雑食性ということもありますが、やはりよく知られているような「頭の良さ」でしょう。知能の高さというと、まるで動物ではないようですが、一説には霊長類並みといわれるほどです。貯食行動も多分その応用のひとつで、100か所近くの貯食場所を記憶していたという観察例もあります。しかも腐りやすいものなど、食物の内容により、利用時期を考えているという話を聞くと確かにこれは高等動物です。

野生生活では、食べ物は時により大量に得られ、時により不足します。人間はこれに対応するために保存の技術を進歩させ、最後には農耕や牧畜という究極の食物の自給システムを生み出します。カラスなどは、そこまでいきませんが、数日の食料危機は貯食でカバーし、そのうちに飢えで倒れた他の動物があれば、その死骸をいただくことができるということで飢饉を乗り越えてきたのでしょう。これで10~20年の寿命があるというのですからまったく驚くべき生物です。

来宮神社の巨木2018年01月31日 22:17


地元の山の会の新年会で静岡県の熱海へ。熱海はかなり行っているのですが、たいがいは仕事か何かの会合で、午後着いてホテルに一泊、翌日は帰るという感じでしたから市内を散歩したことも名所をめぐるということもなかったもので、今回、ほとんどはじめて訪問した場所がかなりありました。

最初に行った伊豆山神社の本殿も山上の奥社として面白かったですが、すぐ隣に公園や別荘地があり、あまり神秘さを感じません。むしろ、次の日に訪ねた来宮神社。それも、なんといっても境内にあるクスノキ(楠)の老木がすばらしかったです。樹齢2000年と説明されているようですが、こうした巨樹の、まるで生命がそのまま永遠化して地球の一部にでもなってしまったような迫力は説明不可能です。これは間違いなくご神体でしょう。

この木の周りには周回する歩道が作られ、巨木の周りを「1周すれば1年寿命が延びる」という言い伝えがあるそうです。10回廻れば10年延びるということではなく、毎年ここに来るくらいの気力があれば大丈夫という健康の尺度という意味でしょうか。