『ファウスト』の旅(2)2022年12月05日 18:59


よく知られていることですが、ゲーテの『ファウスト』には原案となっている民話・伝説があります。『ファウスト博士と悪魔の物語』とされるもので、伝説というにはかなり実証的に詳しく、時代は15世紀、ドイツ・ビュルテンブルグ州に実在(?)したとされるヨルグあるいはヨハネス・ファウストという人物の物語で、この人物が当時流行していた錬金術を駆使して悪魔と取引するという話であったようです。これがひとつのもっともらしいストーリーとして纏まってきて、とうとう『悪評さくさくたる魔術師・妖術師ヨハン・ファウスト博士の物語』という表題の物語が1587年頃にフランクフルトで出版されています。(中央公論社版『ファウスト』の手塚富雄氏の解説およびP・ベールナー『ゲーテ』より)。


この物語の中ではこれまで広がっていた様々な民話をもとに、さらにファウストと秘密の契約を結ぶ相手としての悪魔メフィストが登場しているのでストーリーとしては完成形になっています。ここに出てくる錬金術というのは、様々な金属や薬品から金や銀などの貴金属を作り出そうという、当時はかなり真面目に取り組まれた学問の一分野ですが、こうしたある意味で正統的な科学あるいは化学が次第に古代の魔術・霊術という精神世界を支配する技術と混ざり合っていきました。ここから様々な化学的な発見がなされたのも事実のようですが、その反面、世の中を惑わした様々なインチキ人物も暗躍して、中世ヨーロッパをおおった「魔女狩り」の悲劇も、正統な薬草利用から発展した医学の進歩とそれをあやしげな魔術とみなすローマ教会との対立が根底にあります。


例えば、ヨーロッパでペストなどの疫病が蔓延したとき、ローマ教会は病気封じの「護符」を出しています。もちろんそれは実際には効果がないので協会の威光は落ちてしまうのですが(これは宗教改革の一因となります)、医学の進歩が必ずしもすべてにおいて歓迎すべきことではなかったことは重要なことです。ゲーテのいた19世紀前半はルネッサンスを経て、ようやく近代科学の世界が広まり始めたころですが、民間の中にはまだ魔女という言葉が生きていたと思われます。この「ファウスト博士伝説」の話はイギリスにも伝わって新しい人物(ワーグナーなど)の登場による大衆化が進み、オペラなどにもなったようですが、ちょうどシェクスピアを中心とする多数の劇作家による演劇ブームが起こっていた時代です。


ゲーテは幼い時代にこの伝説物語を読んだり、人形劇になったこの劇作品を見ていたようで、悪魔と契約するという設定は強烈に印象に残ったでしょう。このストーリーをもとに人間の肉体と魂の問題を書こうという思いに至ったのは、これも手塚氏やP・ベールナーなどの解説によればシュトルスブルグ遊学時代ということですから20歳代前半のことで、1775年頃には今でいえば第1部の大部分の場面が完成していたらしいです。


上の不思議な絵はゲーテが最初に発表した『ファウスト』(最終的に第1部となります)の中の挿絵でゲーテ自身が書いたものです。散歩の途中に連れてきた黒犬から続く「地霊の出現」の場面ですが、地霊の背後に放射状の光が射していて、仏教の如来像の光背のようにも見えるのが面白いです(P・ベールナー著『ゲーテ』の挿絵より)。


このテーマはその後何年も温められ、結局、世に出たのは1806年~1810年頃らしいので、最初の構想からいえば30年以上たっているわけです。その間にも断片的な発表はしていたようですが、とにかく、後の世界的な作品となる「第2部」の発表は、さらに、この第一部からでも20年以上経過したゲーテ本人死後の1832年、82歳の時ですから、この作品はゲーテの内面世界で驚くほど長い熟成期間を経て完成されたものなのです。」


先ほどの民話上のファウスト伝説物語あるいはこれに類した物語はゲーテの「第1部」が出た後も出現しているそうで、ドイツではとても人気のある話のようです。しかし、ゲーテの死後、前作とはテーマも内容も異なるこの「第2部」が発表され、その芸術性の高さからこの<ゲーテのファウスト>が世界的な作品となるにおよんで、「魔術師ファウスト博士」は本当の伝説、昔話としてドイツの子供たちの世界に戻っていったのだと思います。

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